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後奈良天皇ごならてんのう

後奈良天皇(1496〜1557)は第105代の天皇です。1526年に践祚せんそし、1557年に亡くなるまで在位しました。皇室がもっとも衰えた時代にあたり、即位式は10年遅れて1536年にようやく行われました。

第105代1526〜1557年後柏原天皇の子宸翰般若心経

戦国前半、衰えた朝廷を担った天皇

後奈良天皇は後柏原天皇ごかしわばらてんのうの第2皇子で、名は知仁です。母は勧修寺藤子(豊楽門院)。在位期間は、皇室がもっとも衰えた時代とされています。

即位式は10年遅れ

1526年4月に父が亡くなると、同じ月のうちに践祚せんそ(位を継ぐこと)しました。しかし即位式は10年遅れ、1536年2月にようやく行われます。

皇室領の年貢

皇室領だった能登国一宮の気多社けたしゃの年貢が、滞った末に守護の能登畠山氏から上納され、そのお礼の書状(女房奉書)が出されました。端裏書から1547年のものとわかります。

祈りの般若心経

兵乱や水害・飢饉・疫病が続くなか、国の平安を祈って般若心経を自ら書き写し、全国各地の社寺に納めました。

後奈良天皇の時代に何が起きたか

1496年
誕生

後柏原天皇の第2皇子として生まれます。名は知仁。

1526年
践祚

4月7日に後柏原天皇が亡くなり、同じ月の29日に位を継ぎます。

1536年
即位式

践祚から10年遅れて、2月26日にようやく即位式が行われます。

1540年
醍醐寺奉納の般若心経を書写

この年に書き写された京都・醍醐寺だいごじ奉納の般若心経には、疫病で多くの民が死に瀕していることを、民の父母である自分の徳が及ばないためだと痛む言葉が記されています。

1547年
能登の年貢へのお礼

守護の能登畠山氏から滞っていた気多社の年貢が上納されたことへの礼状(女房奉書)が、この年のものとわかっています。

1557年
崩御

弘治3年に亡くなります。陵は京都・伏見の深草北陵ふかくさのきたのみささぎです。

各地に残る、天皇直筆の般若心経

天皇の直筆を宸翰しんかんといいます。後奈良天皇は嵯峨天皇さがてんのう以来の伝統にならって般若心経を書き写し、最終的には「六十六ヶ国嶋国迄」の各国の領主を通じて納めたとみられています。

残っているのは7ヶ国分

全国に納められたとみられますが、現在残っているのは安房国・伊豆国・甲斐国など7ヶ国分だけです。

三河国の分

三河国に納められた分は西尾市岩瀬文庫が所蔵し、1957年に重要文化財に指定されています。

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参考にした資料