戦国前半、衰えた朝廷を担った天皇
後奈良天皇は後柏原天皇の第2皇子で、名は知仁です。母は勧修寺藤子(豊楽門院)。在位期間は、皇室がもっとも衰えた時代とされています。
即位式は10年遅れ
1526年4月に父が亡くなると、同じ月のうちに践祚(位を継ぐこと)しました。しかし即位式は10年遅れ、1536年2月にようやく行われます。
皇室領の年貢
皇室領だった能登国一宮の気多社の年貢が、滞った末に守護の能登畠山氏から上納され、そのお礼の書状(女房奉書)が出されました。端裏書から1547年のものとわかります。
祈りの般若心経
兵乱や水害・飢饉・疫病が続くなか、国の平安を祈って般若心経を自ら書き写し、全国各地の社寺に納めました。
後奈良天皇の時代に何が起きたか
1496年
誕生
後柏原天皇の第2皇子として生まれます。名は知仁。
1526年
践祚
4月7日に後柏原天皇が亡くなり、同じ月の29日に位を継ぎます。
1536年
即位式
践祚から10年遅れて、2月26日にようやく即位式が行われます。
1540年
醍醐寺奉納の般若心経を書写
この年に書き写された京都・醍醐寺奉納の般若心経には、疫病で多くの民が死に瀕していることを、民の父母である自分の徳が及ばないためだと痛む言葉が記されています。
1547年
能登の年貢へのお礼
守護の能登畠山氏から滞っていた気多社の年貢が上納されたことへの礼状(女房奉書)が、この年のものとわかっています。
1557年
崩御
弘治3年に亡くなります。陵は京都・伏見の深草北陵です。
各地に残る、天皇直筆の般若心経
天皇の直筆を宸翰といいます。後奈良天皇は嵯峨天皇以来の伝統にならって般若心経を書き写し、最終的には「六十六ヶ国嶋国迄」の各国の領主を通じて納めたとみられています。
参考にした資料
- 石川県「後奈良天皇女房奉書(のとのくに云々)・手鑑 後鳥羽天皇宸記以下二百一葉・夢窓疎石墨蹟」(生没年・父母・名、1526年の践祚と1536年の即位式、在位期間が皇室の最も衰えた時代だったこと、1547年の気多社の年貢への礼状)
- 宮内庁「後奈良天皇 深草北陵」(第105代であること、父母、陵名と所在地、同じ場所にある天皇陵)
- 国立国会図書館「後奈良天皇, 1496-1557」(Web NDL Authorities)(生没年と御名「知仁」)
- 西尾市「後奈良天皇宸翰般若心経」(般若心経を書き写して各地の社寺に納めた経緯、1540年の醍醐寺奉納分の言葉、現存7ヶ国)
- 文化遺産オンライン(文化庁)「後奈良天皇宸翰般若心経〈(参河国)/〉」(重要文化財の指定年月日と所蔵先)