長慶と対立し、京都を離れる
義輝の将軍就任期、畿内では細川晴元と三好長慶の対立が続いていました。長慶が優位に立つと、義輝も京都で安定して政治を行えなくなります。将軍という地位だけでは畿内を動かせず、有力者との軍事的な関係が欠かせない状況でした。
対立と和睦を経て京都へ戻る
義輝は近江などへ退いた時期を経て、三好方との関係を調整しながら京都へ戻ります。1560年には長慶が幕府の相伴衆に加わり、将軍と三好政権は単純な敵対だけではない関係になります。義輝は各地の大名とも関係を結び、将軍権威の立て直しを試みました。
将軍・義輝
京都で幕府を維持し、諸大名を結びつける立場を求めました。
三好長慶
畿内の軍事力を背景に、将軍を支えつつ政治を左右する実力者でした。
畿内の有力者
畠山・六角・松永らの動きが、将軍と長慶の関係を常に変化させました。
永禄の変で幕を閉じる
1565年、義輝は三好三人衆らに襲撃され、京都の将軍邸で命を落としました。松永久秀・久通の関与を含め、事件の細部には史料による議論がありますが、長慶の死後に三好政権が分裂し、将軍の身を守る秩序も崩れたことが背景にあります。
弟の義昭は各地の支援を求め、最終的に織田信長を頼って上洛します。永禄の変は、三好政権の時代から信長上洛へ移る決定的な節目です。
京都を離れても、将軍であり続けた
義輝は三好長慶との対立で京都を離れ、近江などを拠点にした時期が長くありました。それでも諸大名への書状、官位や役職をめぐる働きかけ、争いの調停を通じて将軍として関与し続けます。長慶と和睦して1558年に京都へ戻れたことは、三好方にも将軍の権威を完全には無視できない事情があったことを示します。
「剣豪将軍」と永禄の変を分けて考える
義輝は塚原卜伝らに剣を学んだ「剣豪将軍」として人気があります。ただし、最期に名刀を次々と畳へ刺して戦ったという細部は、後世の軍記・伝承で広がった部分を含みます。人物の核心は武勇だけでなく、京都へ戻って将軍政治を立て直そうとした点にあります。
1565年の永禄の変では、三好義継、三好三人衆、松永久通らの軍勢が御所を襲い、義輝は殺害されました。松永久秀本人が事件を一人で企てたとする通俗的な説明は慎重に扱う必要があります。事件後に将軍家が消えたわけではなく、足利義栄と義昭をめぐる争いが続き、信長上洛へつながります。