人物ページ / 松永久秀の子 / 1563年に家督を継ぐ

松永久通まつなが ひさみち

松永久秀まつなが ひさひでの子で、1563年に父から家督を譲られた武将です。1565年の永禄の変では、将軍・足利義輝の御所を襲った軍勢の中に名前が記録され、のちには大和(今の奈良県)で、相手に土地の知行を認める書状を出しています。

父から家督を継ぎ、松永氏の名で文書を出した

久通は久秀の子です。1563年12月1日に従五位下じゅごいのげに叙され、右衛門佐うえもんのすけに任じられました。同じ月の14日には父から家督を受け取り、21日に京都へ出て将軍・足利義輝あしかが よしてるにお礼を申し上げています。

家督を譲った後も、久秀は表舞台から退いたわけではありません。1570年には父子で十市城を攻め、父子で土地の配分(知行ちぎょう割り)を行ったと日記に記されています。久秀・久通の父子はそろって大和の支配に取り組んでおり、久通もその当事者として史料に現れます。

名前にも注意

史料には「久通」という名のほか、「松永右衛門佐」「彦六」「金吾きんご」といった呼び名でも出てきます。永禄の変を記した日記も、久通を「松永右衛門佐」と書いています。

久通の転機を時系列で追う

1563
右衛門佐となり、家督を継ぐ

12月1日に従五位下・右衛門佐となり、14日に父・久秀から家督を受け取ります。21日には京都へ出て、足利義輝にお礼を申し上げました。

1565
永禄の変

5月19日の朝、三好の軍勢と「松永右衛門佐」らが約1万で義輝の御所を取り囲んで乱入し、義輝は自害に追い込まれます。

1568
父が大和を任される

10月、父・久秀が足利義昭よしあきと織田信長おだ のぶながにあいさつし、大和一国を任されたと『多聞院日記』に記されます。

1570
十市郷をめぐる書状

6月に父子で十市とおち城を攻め、7月18日には父子で知行割りを行います。翌19日、久通は石橋入道に宛てて、十市郷の中の竹田領・小嶋領などの知行を認める書状を出しました。

1575
十市郷の三分の一と、十市氏との婚姻

信長の朱印状で十市郷が三つに分けられ、その三分の一を松永氏が持ちます。7月には、十市遠勝とおかつの未亡人の娘「御ナヘ」と久通が祝言を挙げました。

1577
父・久秀が信貴山城で最期を迎える

信長に反抗した久秀は信貴山城しぎさんじょうの戦いで追い詰められ、奈良県の略年表では「久秀自害」とされます。城はこの時に廃城になりました。

永禄の変では、久通の名前が記録された

1565年5月19日、将軍・足利義輝あしかが よしてるの御所が襲われ、義輝は命を落としました。御所は兵火で焼け、跡地には今、京都市教育会が建てた石碑が立っています。久通が家督を継いで義輝にお礼を申し上げてから、わずか2年後のことでした。

当日の日記『言継卿記』

「三好人数」と「松永右衛門佐」らが約1万で御所を取り囲み、乱入したと書きます。右衛門佐は、父の松永久秀まつなが ひさひでではなく子の久通です。

当日の日記に松永氏から名前が出るのは、家督を継いだばかりの久通でした。事件を松永久秀一人の物語にまとめてしまうと、三好氏の軍勢と松永氏の新しい当主が加わった政変だったことが見えなくなります。

十市郷の書状から見える、大和支配の現実

十市郷の書状

1570年7月19日付で、久通が石橋入道に十市郷の中の土地の知行を認めた書状です。奈良大学文学部史学科が所蔵する文書で、これまでの史料集に収められていない新出の史料として2022年に紹介されました。父子が行った知行割りと関わる可能性が指摘されています。

石上神宮の文書

正月6日付で「松永右衛門佐久通」が布留ふる宮本に宛てた書状が、石上いそのかみ神宮に伝わっています。『天理市史』史料編に収められています。

多聞城

久秀が1559年から築いた、奈良の東大寺・興福寺を見下ろす城です。信長から大和を任された後は政治の中心にもなりましたが、1576年に信長が破却を命じました。

筒井順慶つつい じゅんけい

1567年に三好三人衆と組んで久秀と戦って敗れ、1568年には三好三人衆とともに信貴山城を一時落としました。久秀が信長に背いた後、信長は大和の支配を順慶に任せます。

1568年に大和一国を任されたのは久秀ですが、土地を配り直し、相手に知行を認める書状を出したのは子の久通でもありました。1575年に十市郷の三分の一を得たのと同じ年、久通は十市氏の娘を妻に迎えています。元亀元年の書状に見える十市郷と久通の関係は、その後さらに深くなっていったと指摘されています。

信貴山城の最期を、逸話だけで読まない

1577年、信長に反抗した久秀は信貴山城の戦いで追い詰められ、信長が欲していた茶釜「平蜘蛛ひらぐも」とともに自爆したとも伝えられます。よく知られた話ですが、あくまで「伝えられる」話であり、奈良県の年表では「久秀自害」とされています。

  • 同時代の日記と書状には、家督の継承、永禄の変、十市郷の知行、十市氏との婚姻と、久通自身の足跡が残っています。
  • 久秀の物語の脇役としてではなく、史料に名前が出る場面から久通をたどることが大切です。

参考にした資料

  • 奈良大学リポジトリ 河内将芳「史料紹介 元亀元年七月十九日松永久通書状」『奈良史学』第39号(2022年)(久通が久秀の子であること、1563年12月の従五位下・右衛門佐への叙任と家督の受け取り、義輝へのお礼、1565年5月19日に『言継卿記』が「松永右衛門佐」らの御所乱入を記すこと、1568年10月に久秀が大和一国を任されたこと、1570年6月の十市城攻めと7月18日の父子の知行割り、7月19日付で石橋入道に十市郷内の竹田領・小嶋領などの知行を認めた久通書状の釈文と差出、同書状が奈良大学文学部史学科の所蔵で『戦国遺文 三好氏編』に未収の新出史料であること、父子が大和支配に腐心したこと、1575年の十市郷三分割と十市遠勝の後室の娘「御ナヘ」との祝言、以後十市郷と久通の関係が深まったことを記載)
  • 奈良県立図書情報館「地域史料目録」松永久通書状(正月6日付で「松永右衛門佐久通」が布留宮本に宛てた書状であること、石上神宮蔵であること、『天理市史』史料編第1巻に収められていることを記載)
  • 奈良県「多聞城」(久秀による1559年からの築城と立地、1567年に三好三人衆・筒井順慶連合軍を破ったこと、信長に大和の支配を認められた後の政治的な役割、久秀の反抗後に信長が大和の支配を順慶に与えたこと、1576年の破却命令を記載)
  • 奈良県「信貴山城」(1568年に筒井順慶・三好三人衆の連合軍による落城と久秀による奪還、1577年に信長に反抗した久秀が追い詰められ、信長が欲していた平蜘蛛茶釜とともに自爆したとも伝わること、略年表の「久秀自害」と廃城を記載)
  • 京都市「斯波氏武衛陣・足利義輝邸遺址」(1565年に義輝の館が三好義継らに襲撃されて義輝が切腹し、館が兵火で焼けたこと、石碑を京都市教育会が建てたことを記載)
  • 国立国会図書館サーチ『多聞院日記』(本文で引いた『多聞院日記』の刊本の書誌)
  • 国立国会図書館 レファレンス協同データベース「東大寺と三好・松永氏」(三好・松永氏と東大寺の関わりを示す資料として『多聞院日記』と『戦国遺文 三好氏編』を挙げる回答)