父の補佐役ではなく、松永氏の当主として動いた
久通は久秀の嫡男で、1563年ごろには家督を譲られ、多聞城を中心に大和で活動したとされます。久秀が外交や広域の軍事を担う一方、久通は多聞城の守備、寺社・国衆との交渉、軍勢の指揮を引き受けました。父子の役割は固定されていませんが、同時代の文書や日記には久通自身が政治・軍事の当事者として現れます。
これは久秀が完全に隠居したという意味ではありません。戦国大名の家では、当主交代後も父が大きな権限を保ち、父子が連署や共同出陣で家を動かすことがありました。久通の時代の松永氏も、一人の「梟雄」に従う集団というより、父子を中核に大和の拠点と家臣団を持つ勢力でした。
史料では右衛門佐などの官途名で現れることがあり、「久通」のほか義久とする系譜もあります。後世の系譜が伝える生年などには検討の余地があるため、確実な活動は同時代の日記・文書と照らして追う必要があります。
久通の転機を時系列で追う
多聞城主・松永氏当主として前面に出ます。三好長慶の後継者となる三好義継に従って上洛し、将軍・足利義輝へ拝謁しました。
義継・三好三人衆らと足利義輝の御所を襲い、現職将軍を死に追いやります。久通の名が父より明確に襲撃側へ現れる重要事件です。
松永父子は三好三人衆と対立し、大和では筒井順慶方の攻勢を受けます。多聞城を守り、義継が松永方へ移ると巻き返しました。
足利義昭を奉じた信長が上洛すると、松永父子は服属し、大和での活動を認められます。ただし筒井氏との対立は終わりませんでした。
辰市城の戦いで筒井方に大敗。信長包囲網が広がると父子は信長に背きますが、包囲網の崩壊後に降伏し、多聞城を明け渡しました。
石山本願寺攻めの陣を離れて再び信長に反抗し、信貴山城に籠城。織田軍の攻撃を受け、久通は父とともに最期を迎えます。
永禄の変では、久通が襲撃側にいた
1565年5月、三好義継・三好三人衆・松永久通らの軍勢が十三代将軍・足利義輝の御所を襲いました。義輝は殺害され、室町幕府は現職将軍を失います。事件後、義輝の弟・義昭と三好方の足利義栄がそれぞれ将軍就任を目指し、畿内の争いは次の段階へ進みました。
後世には「松永久秀が将軍を暗殺した」と一人に集約した物語が広まりました。しかし、襲撃当日の久秀本人の直接関与には史料解釈の幅がある一方、久通は義継・三好三人衆と行動した人物として史料に現れます。だからといって久通一人が計画の首謀者だったと断定することもできません。三好政権の当主・重臣が共同で動いた政変として見るのが適切です。
多聞城・信貴山城と、大和支配の現実
多聞城
奈良の寺社と京街道を見渡す政治・軍事拠点です。久通が城主として活動し、松永氏が大和北部を統治する中心になりました。1573年の降伏後に明け渡され、1576年に破却されます。
信貴山城
大和と河内の境を押さえる大規模山城です。1577年、松永父子はここに籠り、織田軍の攻撃を受けて滅亡しました。
筒井順慶
興福寺衆徒の有力者として大和に強い基盤を持った競争相手です。信長上洛後も、どちらが大和を任されるかをめぐる争いは続きました。
寺社・国衆
「大和一国を完全支配した」と単純化はできません。興福寺をはじめとする寺社勢力と各地の国衆が独自の基盤を持ち、松永氏は交渉・軍事・城郭で関係を組み替えました。
久通を多聞城主として見ると、松永氏の大和支配が久秀個人の才覚だけで成立したのではないことが分かります。同時に、多聞城を失った後も信貴山城を残していたことが、1577年の再反乱を可能にしました。二つの城の役割を分けることが、松永氏の興亡を理解する鍵です。
信貴山城の最期を、逸話だけで読まない
久秀が名物茶器「平蜘蛛」とともに爆死したという話はよく知られますが、最期の細部は後世に劇的に語られた部分を含みます。久通についても、父の有名な逸話の陰に隠れ、独立した判断や役割が見えにくくなりました。
- 確かな大枠は、父子が1577年に信長へ再度反抗し、信貴山城で滅亡したこと。
- 久通は永禄の変、大和の城と軍事、信長への服属と反抗のいずれにも当事者として関わったこと。
- 反抗の理由を一つの怨恨や茶器だけで説明せず、大和支配の後退、筒井順慶の台頭、信長の畿内統制を合わせて見ること。