要点
- 豊臣方は「狭い道で叩く」計画だった。大和路から来る徳川軍は、生駒山地と石川にはさまれた道明寺付近の隘路を通る。そこを待ち伏せて各個撃破する——後藤又兵衛らの立てた作戦は理にかなっていた。
- 霧が計画を壊した。5月6日未明、先行した又兵衛の部隊約2,800が小松山に布陣したが、深い霧で真田信繁・毛利勝永らの後続が遅れた。夜が明けると、目の前には伊達政宗勢はじめ徳川方の大軍がいた。
- 又兵衛は退かずに戦い、討死した。孤軍と知りながら又兵衛は山を下って突撃を繰り返し、数時間の奮戦の末に銃弾に倒れたと伝わる。歴戦の浪人衆の重鎮が、夏の陣最初の激戦で散った。
- 同じ日、八尾・若江でも激戦。河内路では長宗我部盛親が八尾で藤堂高虎勢に大打撃を与え、若江では木村重成が井伊直孝勢と戦って討死した。局地的には豊臣方が押した場面もあったが、兵力差は覆せなかった。
- 信繁の殿軍で、軍は城へ帰った。遅れて到着した信繁と勝永は、誉田付近で伊達勢と対峙して撤退を支えた。豊臣方は主力を残したまま城へ退いたが、又兵衛・重成という柱を失った。
5月6日、二つの戦場で何が起きたか
- 01未明、又兵衛が小松山へ先行
道明寺付近で徳川軍を迎え撃つ作戦に従い、又兵衛の部隊が先発して石川を渡り、小松山(現在の柏原市・玉手山一帯)に布陣した。深い霧で後続の到着が遅れる。
- 02夜明け、孤軍のまま開戦
霧が晴れると、大和路を進んできた徳川方の大軍が眼前にいた。又兵衛は寡兵を率いて山を下り、突撃を繰り返して奮戦したが、昼ごろまでに力尽きて討死した。塙団右衛門・薄田兼相らもこの方面の戦いで命を落とした。
- 03同じころ、八尾で盛親が藤堂勢と激突
河内路では長宗我部盛親の部隊が藤堂高虎勢と八尾で戦い、藤堂勢の武将を多数討ち取る大打撃を与えた。
- 04若江で重成が討死
木村重成の部隊は若江で井伊直孝勢と激突。奮戦の末に重成は討ち取られ、部隊は壊滅した。冬の陣の今福で名を挙げた若将は、22歳前後でこの地に散った。
- 05午後、信繁・勝永の殿軍で撤退
道明寺方面に到着した真田・毛利の部隊は、誉田付近で伊達勢と対峙。重成らの敗報を受けて全軍撤退が決まり、信繁の隊が銃撃で追撃を抑えながら、豊臣方は大坂城へ退いた。
この日の中心人物
| 立場 | この日 | その後・伝わるもの | |
|---|---|---|---|
| 後藤又兵衛(基次) | 豊臣方・大坂五人衆 | 小松山で孤軍奮闘の末に討死 | 玉手山公園(柏原市)に記念碑が立ち、「又兵衛の武名」は地元で語り継がれる |
| 木村重成 | 豊臣方・秀頼側近の若将 | 若江で井伊勢と戦い討死 | 兜に香を焚きこめていたと伝わり、その最期は敵からも称えられた。八尾に墓が残る |
| 長宗我部盛親 | 豊臣方・大坂五人衆 | 八尾で藤堂勢に大打撃を与える | 翌日の落城後に捕らえられ、処刑された |
| 真田信繁(幸村) | 豊臣方・大坂五人衆 | 霧で到着が遅れ、誉田で伊達勢と対峙。殿軍を務める | 翌7日、天王寺で家康本陣に突撃して討死 |
| 伊達政宗 | 徳川方 | 道明寺方面の主力として又兵衛らと戦う | 片倉重長(小十郎の子)の隊が又兵衛勢と激突したと伝わる |
「霧さえなければ」は夏の陣最大の「もし」として語られてきた。ただし後続の遅れは霧だけでなく、諸隊の出発時刻や行軍距離の問題も指摘されており、寄せ集めの浪人衆軍の連携の限界と見る読み方もある。
道明寺・八尾若江から、夏の陣を読む
- 堀を失った城は、野戦しか選べなかった。冬の陣の和議で堀を埋められた大坂城は、もう籠城の役に立たない。城の外の隘路で叩く作戦は、その条件下では最善に近かった。この日の敗因は作戦ではなく、実行の連携にあった。
- 豊臣方は「勝っても減る」戦いをしていた。八尾で藤堂勢に大打撃を与えても、又兵衛と重成を失った損失は取り返せない。補充のきかない浪人衆軍にとって、消耗戦そのものが敗北だった。
- 翌日の決戦は、この日に半分決まった。主力武将を失い、兵は疲れ、作戦の選択肢は残っていない。5月7日の天王寺・岡山の決戦は、追い詰められた豊臣方の最後の勝負として始まることになる。