人物ページ / 生年不明〜1615年・大坂方の武将

塙団右衛門ばんだんえもん

塙団右衛門とは?

1615年、大坂夏の陣の緒戦しょせんとなった樫井合戦(今の大阪府泉佐野市)で討ち死にした大坂方の武将です。

慶長20年(1615年)、豊臣方と徳川方の決戦になった大坂夏の陣の緒戦が、和泉の樫井(今の大阪府泉佐野市)で起こります。戦った相手は、徳川方の紀伊の浅野軍でした。
樫井合戦は豊臣方の敗北に終わり、塙団右衛門は淡輪重政たんのわしげまさ(六郎兵衛ろくろうべえ)・坂田庄三郎しょうざぶろうらとともに討ち死にします。
討ち死にした武将たちの墓は、今も泉佐野市の南中樫井・岡本の周辺にあります。樫井の名は川の名や町名としても残っています。

樫井合戦——大坂夏の陣の緒戦は、和泉の樫井で起きた

慶長20年(1615年)、大坂夏の陣の緒戦が和泉の樫井で起きた。これが樫井合戦である。樫井は今の大阪府泉佐野市にあたり、大阪府の南部に位置する。南に隣接する紀伊から北上した徳川方の浅野軍と、塙団右衛門を含む豊臣方の軍勢が、ここで戦った。

緒戦とは 大坂夏の陣で、最初にぶつかった場所

緒戦は、一連の戦いの初めの局面を指す語である。豊臣方と徳川方の決戦になった大坂夏の陣で、最初の衝突が起きたのが和泉の樫井だった。

相手 徳川方についた、紀伊の浅野軍

樫井で豊臣方と戦ったのは、徳川方の紀伊の浅野軍だった。紀伊は今の和歌山県にあたり、樫井のある和泉の南に位置する国である。豊臣方から見れば、南から迫ってくる軍勢だった。

豊臣方の敗北——名が残るのは、この三人

樫井合戦は豊臣方の敗北に終わった。討ち死にした武将として資料に名が残るのは、塙団右衛門、淡輪重政(六郎兵衛)、坂田庄三郎の三人である。三人はいずれも豊臣方の武将で、同じ一つの戦いのなかで討たれている。

ともに討たれた 淡輪重政と坂田庄三郎

淡輪重政は六郎兵衛とも呼ばれた武将で、坂田庄三郎とともに、塙団右衛門と同じ樫井合戦で討ち死にした。樫井合戦で、豊臣方は複数の武将を同時に失った。

場所の区別 樫井は、道明寺や八尾若江とは別の戦場

樫井は大坂城から南へ離れた和泉にある。同じ大坂夏の陣で戦われた道明寺・八尾若江は大坂城の東から南東にあたり、樫井とは別の戦場である。大坂夏の陣では、大坂城から離れた土地でも軍勢がぶつかっていた。塙団右衛門の最期の場所は、そのうちの樫井にあたる。

残された墓——南中樫井と岡本の周辺に、今もある

樫井合戦で討ち死にした武将たちの墓は、今も泉佐野市の南中樫井・岡本の周辺にある。塙団右衛門について現地で目に見える形をとどめているのは、この墓である。合戦の場所をたどる手がかりも、同じ一帯にある。

南中樫井・岡本 地名が、そのまま今の町名に続く

南中樫井、岡本という地名は、今の泉佐野市の町名にも続いている。市内には岡本町と樫井東町があり、合戦の記録に出てくる地名は、今も人が住む場所の名である。

樫井川 川の名としても、樫井は残っている

泉佐野市には樫井川が流れている。合戦の地名は、川の名としても今に伝わっている。

たどれる範囲——名と、最後の戦い

公的な資料でたどれる塙団右衛門は、1615年の樫井合戦で討ち死にした豊臣方の武将であり、その墓が今の泉佐野市に残る、という範囲である。どの家に仕え、いつ大坂城へ入り、なぜ和泉の樫井まで出たのかについては、確認できた公的資料には見当たらない。

大坂方の武将 城に集まった人々のなかで

大坂の陣では、仕える主君を持たない浪人が数多く大坂城に入り、豊臣方の軍事を担った。塙団右衛門もそのなかで名が知られている武将である。浪人がどういう経緯で集まり、城内でどう位置づけられたかは、浪人衆のページで整理している。

塙団右衛門の疑問に答える

樫井は、今のどこ?

大阪府泉佐野市である。市内を樫井川が流れ、討ち死にした武将たちの墓は南中樫井・岡本の周辺にある。岡本町・樫井東町という町名も今の市内にあり、地図の上で確かめながらたどれる戦場である。

勇ましい逸話が伝わっているが、本当?

塙団右衛門には後世に知られた逸話がいくつもあるが、その内容を裏づける公的機関の資料は見つからない。

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参考にした資料