後藤又兵衛とは?
後藤又兵衛は、播州(今の兵庫県南西部)に生まれて黒田官兵衛・長政の父子に仕え、黒田二十四騎の一人に数えられたのち黒田家を離れ、大坂の陣で豊臣方に加わって、1615年5月6日に小松山(今の大阪府柏原市)で討ち死にした武将です。
播州の生まれ——父を失い、小寺官兵衛に引き取られた
後藤又兵衛は1560年(永禄3)、播州(今の兵庫県南西部)に生まれた。父の後藤基国は、播磨国三木城主の別所氏に仕えた武将である。基国は又兵衛がまだ少年のころに自刃し、その遺言により、又兵衛は基国の同輩だった「小寺官兵衛」のもとへ預けられた。
小寺官兵衛 引き取ったときの、官兵衛の名乗り
引き取り手の「小寺官兵衛」は、のちの黒田孝高である。又兵衛は官兵衛のもとで心身を鍛え、剣と槍の術で名を知られたと伝わる。
黒田家での歩み——九州へ下り、二十四騎に数えられた
1587年(天正15)3月、豊臣秀吉の九州征伐が始まると、又兵衛は第一鋒を務めた黒田官兵衛に従って南下した。黒田家が豊前の中津(今の大分県中津市)に入封(与えられた土地に入ること)し、領内の土豪を従える段になると、又兵衛は城井谷の宇都宮鎮房を降伏させる働きをしたと伝わる。のちに黒田如水・長政の父子は、筑前博多(今の福岡県福岡市)へ移った。
城井谷 従わなかった土豪、宇都宮鎮房
秀吉の九州征伐のあと、黒田家は豊前の中津を与えられた。新しい領内には従わない土豪が残り、城井谷に拠った宇都宮鎮房もその一人で、剛将と伝わる。又兵衛はこの鎮房を降伏させる働きをしたと伝わる。
知行 1万石以上を与えられた家臣の一人
筑前に移った黒田家で、又兵衛は長政から1万石以上を与えられた家臣に挙げられる。石高の書き方は資料によって分かれ、1万6千石を与えられて大隈城主になったと記すものもあれば、1万石以上の家臣の一人として名を挙げるにとどめるものもある。
黒田二十四騎 呼び名がついたのは、江戸時代中期
黒田二十四騎は、黒田孝高・長政に仕えた24人の家臣をまとめて呼ぶ言葉で、その一覧には「後藤基次」の名が入る。多くは播磨のころから黒田家に仕えた家臣だった。ただしこの呼び名は本人たちが生きていた時代には無く、24人を一枚に描く「黒田二十四騎図」が作られる江戸時代中期以降に広まった。福岡藩では1739年(元文4)に、長政を含む25人を選んだ図と略伝が作られている。
黒田家を離れる——長政との関係が悪化し、仕官の道も閉じた
官兵衛の死後、又兵衛は長政との関係が悪化し、黒田家を出奔(主家に断らずに離れること)した。以後の又兵衛は、大名家に属さない浪人として動く。
仕官の話 招かれても、ことごとく辞退した
黒田家を離れた又兵衛には、細川忠興をはじめ諸国の大名から招きがあった。しかし旧主である長政の側からの妨げなどがあり、又兵衛はこれをことごとく辞退した。
残らなかったもの 子孫の記録が、黒田家に伝わらなかった
黒田家を離れた影響は、後の世にも残った。1810年(文化7)、福岡藩は先述の二十四騎図の誤りを正すため、二十四騎の子孫に甲冑や肖像画の提出を求める調査を行っている。このとき又兵衛については情報が集まらず、従来の図や人相書をもとに想像で顔が描かれた。
今井での潜伏——西福寺の膳と、守田家に託した槍
諸国の大名からの仕官の誘いは受けなかったが、追われる身の又兵衛は隣国の小倉藩領内に身を隠した。当時の小倉藩主は細川忠興である。京都郡今井(今の福岡県行橋市今井)の西福寺に潜伏したと伝わり、寺には又兵衛が使ったとされる膳が残る。山門の横には「英傑後藤又兵衛基次霊塔」が立つ。
守田家 娘を託し、礼に槍を贈った
今井にいるあいだ、又兵衛の世話にあたったのが守田家だった。今井を去るとき、又兵衛は娘の久を守田家に預け、感謝のしるしとして槍などを贈っている。守田家の屋敷は行橋市沓尾に「守田蓑洲旧居」として残り、市の史跡に指定されている。
今に伝わる品 槍は資料館へ寄贈された
守田家に贈られたと伝わる槍は、のちに守田家から行橋市歴史資料館へ寄贈され、現存する。
大坂城へ——平野に出て、道明寺での合流を約した
大坂の陣が起こると、又兵衛は豊臣方に加わった。秀頼の招きに応じて城に入ったと伝わる。1615年(慶長20)5月1日、又兵衛は薄田兼相らとともに平野へ出陣し、真田幸村らは天王寺に布陣した。5日、又兵衛は幸村らと会い、翌6日に道明寺で合流して国分(柏原市内の地名)で徳川方を迎え撃つことを申し合わせている。
豊臣方の作戦 合流の前に、別々に当たる
夏の陣で徳川方は、本隊が高野街道を、別働隊が大和から国分の狭い道を抜けて河内へ入り、道明寺で合流する道をとった。豊臣方はその合流の前に各隊へ別々に当たる方針を立て、又兵衛は約2800の兵で、国分に出てくる別働隊を受け持ったと伝わる。薄田兼相・真田幸村・毛利勝永らの隊も、それぞれの兵でこの方針に加わった。
前提の崩れ 動きは、すでに徳川方に伝わっていた
豊臣方の動きは、忍びからの報告などで徳川方に知られていたという。5日のうちに徳川方は国分へ入っており、国分の狭い道の出口で待ち構えるという申し合わせは、6日の朝を待たずに前提を失っていた。
小松山の戦い——後続を待たずに山へ登り、六時間戦った
5日の夜、又兵衛は約2800の軍勢を率いて平野を発ち、奈良街道を東へ進んで、6日の未明に藤井寺へ着いた。濃い霧のため、他の隊は予定どおりに集まらなかった。又兵衛は後続を待たず、先鋒の山田外記と古沢満興に命じて石川を渡らせ、小松山を占領させる。山の上に旗が立ったのを見て、又兵衛は本隊を山へ登らせた。
午前4時 二万三千との激突
午前4時ごろ、山を下った後藤隊の先頭が徳川方とぶつかった。徳川方は水野勝成隊が約3800、本多忠政隊が約5000、松平忠明隊が約3800、伊達政宗隊が約1万で、合わせて約2万3千と伝わる。初めは後藤隊が押していたが、しだいに三方から囲まれた。
午前10時 討ち死にと、後藤隊の壊滅
午前10時ごろ、又兵衛は討ち死にし、後藤隊も壊滅した。戦闘は約6時間に及んだと伝わる。討ち死にの原因は、矢の傷を負ってとも、鉄砲で胸を撃たれてとも伝わり、傷を負ったあとに自害し、吉村武右衛門が介錯(自害を助けて首を落とす役)したという。
場所の書き方 小松山とも、道明寺河原とも
討ち死にの場所は、資料によって書き方が分かれる。小松山とするものと、道明寺河原とするものがあり、いずれも道明寺周辺の一帯を指している。
又兵衛の名が残った場所——玉手山
小松山は、今の柏原市立老人福祉センター「やすらぎの園」があるあたりにあたる。玉手山公園を含む片山・玉手・円明の一帯が、このときの戦場になった。公園内には、武将個人の名を冠した「後藤又兵衛基次の碑」と、両軍の戦死者をまとめて供養する「両軍戦死者供養塔」が並んで置かれ、2000年(平成12)2月に植えられた「後藤又兵衛しだれ桜」がある。
後藤又兵衛の疑問に答える
「後藤又兵衛」と「後藤基次」は同じ人物?
同じ人物である。又兵衛は通称で、実名は基次と伝わる。正親という名も伝わっている。黒田家の家臣を並べた資料では「後藤基次」と実名で書かれる。
なぜ黒田家を離れた?
官兵衛の死後に長政との関係が悪化した、というところまでは各地の資料が共通して書いている。ただし、何がもとで不和になったのかは公的資料には記述がない。
大坂城にはいつ入った?
入城の年を書いた資料は見あたらない。大坂の陣を日付順に追った記録でも、後藤基次の名が出るのは1615年(慶長20)5月1日の平野への出陣からで、前年の冬の陣の経過には出てこない。豊臣秀頼の招きに応じて入城したと伝わるが、それが冬の陣の前か後かは書き分けられていない。
参考にした資料
- 柏原市「玉手山と大坂夏の陣」(5月1日の平野出陣・5日の申し合わせ・5日夜の進発と6日未明の藤井寺到着・濃霧・山田外記と古沢満興による小松山占領・午前4時の激突と徳川方各隊の兵数・午前10時の討ち死にと約6時間の戦闘・討ち死にの原因と吉村武右衛門の介錯・豊臣方の作戦と各隊の兵数・玉手山公園の碑と供養塔としだれ桜・小松山の範囲)
- 中津市「後藤又兵衛の墓」(1560年の生年と播州・父基国と別所氏・父の自刃と遺言・小寺官兵衛に引き取られたこと・1587年3月の九州征伐と城井谷の宇都宮鎮房・筑前入封後の1万6千石と大隈城主という記述・黒田父子との不和と浪人・諸大名の招きの辞退・秀頼の招きに応じた入城・道明寺河原での討ち死に・中津に落ち延びたという伝承と市指定史跡の墓)
- 行橋市「行橋市歴史資料館新春特別展示『後藤又兵衛の槍』展」(実名は基次・正親などと伝わること・官兵衛の死後に長政と関係が悪化して出奔したこと・小倉藩と細川忠興・今井の西福寺への潜伏と膳・英傑後藤又兵衛基次霊塔・守田家と娘の久・贈られた槍の歴史資料館への寄贈・守田蓑洲旧居が市史跡であること)
- 福岡市博物館「黒田二十四騎展4 官兵衛を支えた男たち」(黒田二十四騎24人の一覧に後藤基次の名があること・多くが播磨時代からの家臣であること・「黒田二十四騎」という呼び名が江戸時代中期以降のものであること)
- 福岡市博物館「黒田二十四騎展2」(後藤又兵衛が長政から1万石以上を与えられた家臣の一人であること・長政と仲違いをして黒田家を離れ、大坂の陣で戦死したこと)
- 福岡市博物館「黒田二十四騎展3」(母里太兵衛と並ぶ二十四騎であること・1739年に原種次が長政を含む25人の図と略伝を作ったこと)
- 福岡市博物館「黒田二十四騎展3」続き(1810年の二十四騎図の調査で、黒田家を去った後藤又兵衛は情報が得られず想像図で描かれたこと)