薄田兼相とは?
1615年の大坂夏の陣・道明寺合戦で、今の大阪府藤井寺市・羽曳野市にあたる道明寺・誉田の高台で討ち死にしたと伝わる、豊臣秀頼に仕えた武将です。
生年不詳——分かっているのは、没した年と通称だけ
薄田兼相は、安土桃山時代から江戸時代の初めにかけての武人である。没したのは1615年、通称は隼人正。名の読みは「すすきだかねすけ」で、墓の名称は「薄田隼人正兼相の墓」と、通称と実名を重ねた形で登録されている。
豊臣家の武将——秀吉の馬廻りから、秀頼の侍大将へ
兼相は、豊臣秀吉の馬廻り、豊臣秀頼の侍大将として活躍した武将と紹介される。馬廻りは主君の身近に置かれた騎馬の武士、侍大将は配下の武士をまとめて部隊を率いる将である。豊臣秀吉と豊臣秀頼という豊臣家の二代にわたる経歴として書かれており、大坂夏の陣の時点では「秀頼に仕える薄田隼人正兼相」と記される。
馬廻り 秀吉の代の役目
馬廻りとして仕えたのは、豊臣秀吉の代のことである。
侍大将 秀頼の代の役目
侍大将として仕えたのは、豊臣秀頼の代のことである。部隊を任される立場で、大坂夏の陣で兼相が誉田林に陣を構えたのも、この立場によるものである。
誉田林——大坂夏の陣で、誉田八幡宮の付近に陣をかまえた
1615年、徳川家康らの軍勢が大坂城を攻めた大坂夏の陣で、誉田と道明寺の付近一帯が戦場になった。大坂城をうかがう徳川方と、それをはばむ豊臣方が激しく戦った局面で、道明寺合戦と呼ばれる。兼相はこのとき、誉田八幡宮の付近にある誉田林に陣をかまえていた。誉田は今の大阪府羽曳野市、道明寺は今の大阪府藤井寺市にあたり、戦場は二つの市にまたがって広がっていた。
陣を置いた場所 二つの市の資料が、同じ地点を挙げる
兼相が陣を置いたのは、誉田八幡宮の付近にある誉田林だった。この地点は、誉田のある側の資料でも、道明寺のある側の資料でも同じように挙げられている。
大坂夏の陣 大坂城が落ち、豊臣家が滅んだ戦い
大坂夏の陣は、徳川家康らの軍勢が大坂城を攻め、秀頼とその母の淀殿が自害して豊臣家が滅んだ戦いである。道明寺合戦は、その大坂城での決着より前に、城の南東で戦われた局面にあたる。
濃霧——合流できないまま、撃破された
道明寺合戦の当日、兼相は誉田八幡宮の付近に陣を構えていたが、濃霧のため後藤又兵衛の部隊、真田信繁・毛利勝永の軍と合流できなかった。そのまま徳川方に撃破され、討ち死にしたと伝わる。討たれた場所を「道明寺・誉田の高台」とし、「討ち死にしたと言われている」という伝聞の形で書く資料もある。奮戦の末の討ち死にだったとも記される。
合流できなかった相手 後藤又兵衛と、真田信繁・毛利勝永
三人はいずれも大坂夏の陣で豊臣方として戦った武将で、道明寺の方面へは後藤又兵衛の部隊と、真田信繁・毛利勝永の軍が向かっていた。濃霧のため合流できないまま、徳川方と当たったと伝わる。
書き方の差 断定する資料と、伝聞にとどめる資料
兼相が道明寺合戦で討ち死にしたこと自体は、複数の公的な資料が一致して伝えている。ただし討たれた地点にまで踏み込むと、「言われている」という伝聞の形をとる資料が出てくる。大坂の陣の人物には軍記に由来する話が多く、資料の側が断定を避ける書き方をすることがある。
墓と供養塔——誉田7丁目の、誉田史跡公園
兼相の墓と供養塔は、今の大阪府羽曳野市誉田7丁目にある。羽曳野市はこの墓と供養塔を中心に整備を行い、誉田史跡公園とした。近鉄バスの誉田中学校前で降りて、東へ徒歩5分の場所である。
誉田史跡公園 墓を中心にして、公園として整えられた
誉田史跡公園は、兼相の墓と供養塔を中心に整備された公園である。
隣の市の散策コース 道明寺駅から歩く順路に、墓が入る
墓のある誉田は羽曳野市だが、「大坂夏の陣道明寺合戦コース」という散策コースを設けているのは、隣の藤井寺市である。コースは道明寺駅を起点に、道明寺合戦の記念碑、兼相の墓、応神天皇陵古墳や古室山古墳などの古墳、道明寺、道明寺天満宮をまわる順路になっている。
市の指定文化財——1996年11月12日、史跡に指定
「薄田隼人正兼相の墓」は、平成8年(1996年)11月12日に羽曳野市指定文化財に指定された。分類は史跡、員数は1件、所有者は羽曳野市である。指定文化財のうち史跡は、出来事の跡が残る土地そのものを対象にする分類である。
一覧のなかの位置 工芸や古文書と並ぶ、ひとつの史跡
羽曳野市の指定文化財の一覧は、工芸、絵画、有形民俗文化財、古文書、史跡といった分類で並んでいる。兼相の墓は、そのうち史跡の欄に載る。
登録された時代 墓そのものは、明治時代のものとされる
一覧の時代の欄には「明治時代」とある。討ち死にから250年以上あとにあたる。だれが立てたのかは一覧に書かれていないが、誉田に墓が立てられ、それが市の史跡として指定されるまでには、この長い間隔がある。
薄田兼相の疑問に答える
「隼人正」はどう読む?
墓の指定文化財としての名称には「薄田隼人正兼相(すすきだはやとのかみかねすけ)」とルビがふられている。このページもその読みに合わせた。武家の呼び名は、同じ漢字でも資料によって読みが分かれることがある。
前年の大坂冬の陣では何をしていた?
冬の陣での兼相の動きについては、公的な資料に記述が見当たらない。兼相の名がはっきり出てくるのは、翌年の夏の陣・道明寺合戦の場面からである。
講談で知られる岩見重太郎と同じ人?
剣豪として講談で語られる岩見重太郎を、兼相と同じ人物とする話が伝わる。公的な資料では確かめられず、後の世に広まった話として扱うのが穏当である。
参考にした資料
- 羽曳野市「誉田史跡公園」(誉田と道明寺の一帯が道明寺合戦の舞台になったこと・秀頼に仕える薄田隼人正兼相が誉田八幡宮付近の誉田林に陣をかまえたこと・討ち死に・墓と供養塔を中心に整備した公園であること・誉田7丁目という所在地と近鉄バスからの経路・元和元年という年号の書き方)
- 羽曳野市「羽曳野市指定文化財」(「薄田隼人正兼相の墓」の名称と読み・分類が史跡で員数1件・時代が明治時代・所有者が羽曳野市・平成8年11月12日の指定・「豊臣秀吉の馬廻り、秀頼の侍大将として活躍した武将」という経歴の要約・「討ち死にしたと言われている」という伝聞の書き方・慶長20年という年号の書き方)
- 藤井寺市「コース(2) 大坂夏の陣道明寺合戦コース」(豊臣秀頼に仕えた武将であること・誉田八幡宮付近に陣を構えたこと・濃霧のため後藤又兵衛、真田幸村・毛利勝永軍と合流できず徳川軍に撃破されて討死したこと・道明寺駅を起点とする散策コースの順路に墓が入っていること)
- レファレンス協同データベース「薄田兼相について基本的なことを知りたい。」提供館:近畿大学中央図書館(生年が不詳で没年が1615年であること・安土桃山から江戸時代初期の武人であること・通称が隼人正であること・読みが「すすきだかねすけ」であること・『大日本史料』一二ノ一八 元和元年五月六日条という参考文献)