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木村重成きむらしげなり

木村重成の肖像
木村重成像 / Wikimedia Commons / Public domain

木村重成とは?

木村重成は豊臣方(大坂方)の武将で、1615年の大坂夏の陣のとき、今の大阪府東大阪市にあたる若江に出て、徳川方の井伊家の軍と戦って討死うちじにしました。

徳川家康とくがわ いえやすが豊臣家を攻めた大坂の陣で、大坂方に属して戦いました。朝廷の官職にちなむ官途名かんとめいを付けた「木村長門守ながとのかみ重成」という書き方が、のちの石碑や絵にも使われます。
若江(今の大阪府東大阪市)は、室町時代に河内国守護の畠山氏が築いた若江城が置かれた土地です。大坂の冬の陣と夏の陣では、ここが激戦の地になりました。
慶長19年(1614年)の大坂冬の陣を経て、翌年5月の大坂夏の陣で、十三街道を通って若江へ向かった徳川方の井伊家の軍と戦い、この戦いで討死しました。
若江の地には、同じ戦いで戦死した徳川方の山口重信の墓と、木村重成の墓が、第二寝屋川を隔てて南北にあります。江戸時代の地誌の挿絵にも同じ配置で描かれています。
大阪市北区の中之島には、木村重成のために建てられた、忠義をたたえる石碑「木邨きむら長門守表忠碑ひょうちゅうひ」があります。令和7年(2025年)は没後410年にあたり、近くの図書館で関連資料の展示が行われました。

大坂方の武将——大坂の陣で戦い、討死した

木村重成は、徳川家康が豊臣家を攻めた大坂の陣で、豊臣方(大坂方)に属して戦った武将である。大坂の陣ののちに作られた石碑や墓碑、絵の題名では、官途名の長門守を挟んだ「木村長門守重成」という形が使われてきた。中之島に立つ石碑は「木邨長門守表忠碑」、保古帖に載る墓の図は「長門守木村重成之墓」と題されている。

長門守 官途名を挟んで呼ぶ書き方が定着した

官途名は、武士が名乗りに添えて使ったもので、長門守もその一つである。木村重成の場合、本人の生きた時代より後に作られた石碑・墓碑・芝居絵の題名では、長門守を挟んだ「木村長門守重成」という書き方が使われた。

大坂の陣 冬と夏に分かれた、二度の戦役

大坂の陣は、徳川家康が豊臣家を攻めた戦いで、慶長19年(1614年)の冬の陣と、翌年の夏の陣に分かれる。豊臣秀頼とよとみ ひでよりが自害し、大坂城が落ちて終わった。木村重成が戦って死んだのは、このうち夏の陣の局面にあたる。戦役全体の経過は、それぞれの戦いのページで追う。

若江という土地——守護の城が置かれ、二度の陣で戦場になった

若江は今の大阪府東大阪市にあたる。室町時代には河内国の争奪をめぐる争いが繰り返され、河内国守護の畠山氏が築いた若江城がその拠点となった。徳川家康が豊臣家を攻めた大坂の冬の陣と夏の陣では、この若江が激戦の地となった。

若江城 河内国の争奪で、拠点として使われた城

室町時代の河内国では、国の支配権をめぐる争いが繰り返された。河内国守護の畠山氏が築いた若江城は、その争いの拠点になった城で、のちに三好義継が居城とする。若江は、中世を通じて河内国の争いの焦点になり続けた土地である。

十三街道 十三峠のふもとから、若江へ下りる道

夏の陣で徳川方の井伊家は、十三峠を下ったふもとに陣を置き、そこから十三街道を経て若江へ向かった。この道筋は、今も若江の史跡をたどる道として案内されている。

若江の戦い——十三街道を来た井伊家の軍と戦い、討死した

慶長19年(1614年)の大坂冬の陣を経て、翌年5月の大坂夏の陣では、十三峠を下ったふもとに陣を置いた徳川方の井伊家が、十三街道を経て若江(今の大阪府東大阪市)に向かい、豊臣方の木村重成の軍と戦った。木村重成は、この若江の戦いで討死した。隣接する八尾(今の大阪府八尾市)の地も、同じ夏の陣の局面で戦場になった。

隣り合う八尾 隣の戦場では、藤堂家と長宗我部盛親が戦った

徳川方の藤堂家は、一部が井伊家とともに若江へ向かい、本体は八尾の常光寺や久宝寺寺内町のあたりで、豊臣方の長宗我部盛親の軍と戦った。若江と八尾は隣り合う土地で、二つの戦闘は同じ夏の陣の局面で起きている。両地とも激戦となり、多くの戦死者を出した。

戦死した人々 若江でも八尾でも、双方に死者が出た

若江の戦いでは、豊臣方の木村重成と、徳川方の藤堂良勝・山口重信らが戦死した。八尾の戦いでは、徳川方の藤堂高刑たかのりらが戦死している。

墓——第二寝屋川を隔てて、南北に向かい合う

現在、若江の地には、この戦いで戦死した木村重成と山口重信の墓が、第二寝屋川を隔てて南北にある。江戸時代の地誌『河内名所図会』の挿絵にも、同じ配置で描かれている。中でも、亀の台座が特徴的な山口重信の墓碑は、挿絵に忠実に写されている。戦場になった土地に、豊臣方と徳川方の墓が向かい合って残っている形である。

河内名所図会 享和元年(1801年)に出た、河内国の地誌

『河内名所図会』は、土地の由来や名所を挿絵とともに集めた江戸時代の地誌である。若江の二つの墓の配置のほか、八尾に建てられた墓碑の内容も記されている。

八尾の墓碑 家臣を失った藤堂家は、常光寺に墓を造った

八尾の戦いで多くの家臣を失った藤堂家は、常光寺に墓を造って菩提ぼだいを弔っている。宝暦14年(1764年)に藤堂家が建立した墓碑は「勢伊死事碑せいいしじひ」と呼ばれ、その内容も『河内名所図会』に記された。若江の墓と八尾の墓碑は、同じ夏の陣の戦死者を、別々の土地で弔ったものである。

若江に残る場所 墓の周りに、関連する地名が集まる

若江には、木村重成の墓のほか、木村重成陣屋跡・若江堤跡・若江鏡神社・蓮城寺といった場所が近くにある。大坂夏の陣の跡をたどる催しでは、山口重信の墓や十三街道と合わせて、これらを結ぶ道筋が案内されてきた。若江には、戦いに関わる地名がひとまとまりで残っている。

表忠碑と、後の世の題材——中之島の石碑から、絵と芝居へ

大阪市北区の中之島に、「木邨長門守表忠碑」という石碑がある。大坂夏の陣(1615年)で討死した木村重成のために建てられたもので、大阪府立中之島図書館の近隣に立つ。令和7年(2025年)は木村重成の没後410年にあたり、この図書館で、木村重成と表忠碑に関する資料を並べた展示が行われた。

読み物と絵 江戸の地誌から、明治の軍談・絵へ

没後410年の展示には、享和元年(1801年)の『河内名所図会』のほか、明治3年(1870年)の絵入軍談、明治19年(1886年)の絵本、明治26年(1893年)の組上絵、明治43年(1910年)に出た木村重成の伝記が並んだ。「大坂落城諸勇士血戦之図」という歌川芳虎の絵には、木村長門守重成が描かれている。

芝居 舞台の上でも演じられた

明治13年(1880年)の芝居絵には、尾上菊五郎おのえきくごろうが演じる木村長門守が描かれている。大正4年(1915年)には帝国劇場で《茶臼山凱歌陣立ちゃうすやまがいかのじんだて》が上演され、その序幕「城内詰の丸の場」を伝える雑誌の記事が残る。読み物と絵に加えて、舞台の演目としても取り上げられていた。

木村重成の記録は、どこにどう残ったか

木村重成をたどると、残っている資料は土地の側に偏っている。人物の来歴を語るものより、戦った場所・死んだ場所・墓と碑の位置を伝えるものが多い。

三つの場所に分かれて残る 東大阪・八尾・中之島、それぞれの記録

木村重成が戦って死んだ若江は今の東大阪市、隣で戦闘があった八尾は今の八尾市、木村重成のための表忠碑がある中之島は大阪市北区にあたる。木村重成と山口重信の墓は若江に、藤堂家の墓は八尾にあり、表忠碑は中之島に立つ。ひとつづきの出来事の記録が、三つの場所にそれぞれ分かれて残っている。

分からない部分 生年と享年は、公的資料には記述がない

木村重成が何年に生まれ、何歳で死んだのかを記した公的資料は見当たらない。豊臣秀頼との関わり方についても同じである。確かめられるのは、大坂方の武将として若江で戦い、1615年の夏の陣で死んだこと、そして墓と石碑がどこにあるか、という範囲である。

木村重成の疑問に答える

若江は今のどこ? 八尾とは違う?

若江は今の大阪府東大阪市、八尾は今の大阪府八尾市で、隣り合う別の土地である。夏の陣のこの局面で、若江と八尾で戦闘が並行して起きたため、二つはまとめて語られることが多い。木村重成が戦って死んだのは若江のほうで、墓も若江にある。八尾に残るのは、八尾の戦いで家臣を失った藤堂家が常光寺に造った墓と墓碑である。

何歳で死んだ?

生年と享年を記した公的資料は見当たらない。確かめられるのは、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で若江に出て討死した、というところまでである。

戦死したのは何月何日?

慶長19年(1614年)の冬の陣を経た、翌年5月の夏の陣である、というところまでは確かめられる。日ごとの経過や、若江の戦いと同時期にほかの場所で起きた戦闘との関係は、戦いのページ側で扱っている。

誰に仕えていた?

大坂の陣は徳川家康が豊臣家を攻めた戦いで、大坂城には豊臣秀頼がいた。木村重成は、この豊臣方(大坂方)に属した武将である。秀頼個人との具体的な関わり方を記した公的資料は見当たらない。

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参考にした資料