人物ページ / 1590年〜1659年・彦根藩2代藩主

井伊直孝いいなおたか

井伊直孝とは?

井伊直孝は、彦根藩2代藩主として城下町の整備と3代将軍・徳川家光の後見を担った人物で、井伊直政の次男として1590年に生まれ、1614年の大坂冬の陣に出陣する際に徳川家康の命令で兄に代わって井伊家を率いて当主となり、大坂の陣ののちは今の滋賀県彦根市にあたる彦根で城と城下町の整備を進め、1632年からは徳川秀忠とくがわ ひでただの遺言で家光の後見役を務め、1659年に亡くなりました。

1602年、父の井伊直政が亡くなり、長男が跡を継ぎます。1614年、大坂冬の陣へ出陣するにあたって、徳川家康の命令で次男の直孝が井伊家を率いて出陣し、当主となりました。
1615年、大坂夏の陣に出陣します。豊臣家が滅んだあと、彦根にいた直孝は朝廷など京都周辺の勢力との交渉役を務めました。
1615年、大坂夏の陣の後に再開された彦根城の工事は井伊家が主体で進み、山の麓に表御殿が建てられ、城下町の区画が整えられます。
1632年、死の直前の徳川秀忠に枕元へ呼ばれ、3代将軍・徳川家光の政務を後見するよう遺言されます。以後、亡くなるまでほとんど江戸を離れませんでした。

家督の交代——兄が継いだ井伊家を、大坂への出陣で直孝が率いた

井伊直孝は天正18年(1590)に生まれた、井伊直政の次男である。井伊家はもと遠江国の井伊谷(今の静岡県浜松市)を治めた武士の家柄で、直政が徳川家康の家臣として戦功を重ね、近江の佐和山に入っていた。その直政が、関ヶ原の合戦で受けた鉄砲傷が悪化したとみられ、慶長7年(1602)2月1日に佐和山城で亡くなる。跡を継いだのは、直孝の兄にあたる長男だった。

1614年 出陣の命令が、当主を入れ替えた

井伊家の当主が入れ替わったのは、慶長19年(1614)、大坂冬の陣に出陣する場面だった。徳川家康の命令が下り、長男に代わって次男の直孝が井伊家を率いて出陣し、そのまま井伊家の当主となった。なぜ兄に代わって直孝が当主に立てられたのか。その理由を記した記述は、今回の公的資料にはない。確かめられるのは、家康の命令で軍を率い、当主となった経緯までである。

兄の名 資料によって、直継とも直勝とも書かれる

直政の跡を継いだ長男の名は、資料によって書き方が分かれる。「直勝」と記す資料では、慶長8年(1603)に地を選び、翌9年に佐和山城から彦根山へ移ったとされる。「直継」と記す資料では、慶長9年(1604)に彦根山へ築城して移ったとだけ記される。二つの表記が同じ人物のものだと明記した公的資料は、今回は確認できなかった。

大坂の陣——冬・夏の陣に出陣し、豊臣家が滅んだあとは京都と向き合った

直孝が当主となった慶長19年(1614)の出陣が、そのまま大坂冬の陣への参加だった。翌元和元年(1615)の大坂夏の陣で豊臣家は滅んだ。

彦根の備え 徳川方が最大の兵粮米を蓄えた城だった

彦根に築かれた堅固な城郭は、徳川方が最大の兵粮米を備蓄する軍事拠点だった。井伊家の軍勢は、畿内と西国の諸勢力への押さえという役割を持っていた。

交渉役 朝廷など京都周辺の勢力と、新しい関係を築いた

豊臣家の滅亡後、徳川幕府は朝廷など京都周辺の勢力と新たな関係を築こうとした。このとき彦根にいた直孝が、京都周辺の勢力との交渉役を務めている。

彦根城の二期工事——幕府の普請が終わったあと、井伊家が城下町を作った

彦根城の工事は、直孝が当主となる前に始まっている。関ヶ原の合戦の後、大坂城の豊臣方との戦いに備えて築城が始まり、戦いに備える間は、城主の御殿も守りの堅い天守のそばに置かれた。工事は二段階に分かれ、前半と後半で進める主体が違う。

分岐点の土地 二つの街道が分かれ、琵琶湖の水運が通う

佐和山と彦根の周辺は、古代の東山道(江戸時代の中山道)と北陸道(同じく北国街道)が分岐する要衝の地で、琵琶湖水運の拠点でもあった。戦国時代までは佐和山城が拠点だったが、井伊家が佐和山に入るとまもなく新しい城の建設が計画され、慶長8年(1603)に彦根山へ築城することが決定した。

一期工事 幕府が奉行を出し、周りの国から人を集めた

彦根城は幕府主導の公儀普請(幕府が命じて行う工事)で築かれた。慶長9年(1604)からの一期工事では、幕府から奉行が派遣され、周辺の国々から人が集められている。慶長12年(1607)までに、いくさに備えた城郭の主要部分ができあがり、公儀普請はここで終了した。

二期工事 表御殿を建て、町の区画を引いた

元和元年(1615)、大坂夏の陣の後に再開された二期工事は、井伊家主体で進められた。城の役割は、戦いに備えることから政治を行うことへと移る。家臣が集まって話し合うための大きな御殿が必要になり、山の麓に新しく表御殿(現在の彦根城博物館)がつくられた。あわせて城下町の町割も整えられ、彦根藩の城下町として武家や町人らが住む都市が創り出された。

家光の後見——秀忠の遺言で江戸に留まり、幕政を大局から判断した

寛永9年(1632)、直孝に転機が訪れる。

1632年 秀忠が、直孝と松平忠明に遺言した

寛永9年(1632)、徳川秀忠は死の直前、直孝と松平忠明まつだいら ただあき(徳川家康の外孫)を枕元に呼び、3代将軍・徳川家光の政務を後見して幕政に参与するよう遺言した。直孝はこれを受け、その後は亡くなるまでほとんど江戸を離れることなく、家光と4代将軍・徳川家綱を補佐する。万治2年(1659)に死去し、その役割は3代直澄に受け継がれた。

役割の中身 将軍の決定を、大局から支える立場だった

直孝が任された役割は、老中(幕府の政務を取り仕切る役職)らの進める政務を大局的に判断し、将軍の決定権を補佐するものだった。確定した役職名はないものの、のちに井伊家が勤めた大老職の起源ということができる。直孝の役割を受け継いだ3代直澄の次、4代直興が、これを再編した「大老」に就いた。

転換点の決断 武力の時代から、法で秩序を保つ時代へ

3代家光から4代家綱の初期は、武力を背景とした時代から、将軍の威光のもと法制度により社会秩序を保とうとする文治政治へと移行した時期だった。直孝は、末期養子(当主が死ぬ間際に決める跡継ぎ)の禁の緩和、清に滅ぼされた明の遺臣(助けを求めて日本に渡った家臣)からの出兵要請の拒否、殉死の禁など、時代の転換点を象徴する決断に深く関わっている。将軍家の世継ぎの成長儀礼など各種の儀礼でも、筆頭家臣として重要な役目を担った。

直孝が残したもの——溜詰筆頭の家、代わらなかった城主、江戸に置かれた墓所

井伊家は彦根を治める大名として、幕府の中で決まった位置を与えられた。井伊家は初代の直政から最後の当主・直憲まで14代にわたり、一度の国替えもなく彦根を治めている。

溜詰筆頭 江戸城で、将軍のいちばん近くに詰めた

井伊家は譜代(徳川に古くから仕えた家臣の家)の筆頭とよく言われるが、江戸城では将軍のいちばん近くに詰めて補佐する「溜詰」という役割を担っていた。溜詰の中でも「常溜」と呼ばれる会津藩松平家・彦根藩井伊家・高松藩松平家の3家の一つで、井伊家はそのリーダーにあたる溜詰筆頭という立場にあった。

代わらなかった城主 城も土地も、幕府から預かるものだった

江戸時代、城も土地も、大名が幕府から預かるものだった。政治に失敗して地域が不安定になると、新しい大名に城と土地が預け替えられることがよくあった。国宝になっている5城でも、姫路城は5回、松本城は6回、城主である大名が代わっている。井伊家は将軍を補佐する特別な立場にあり、彦根城は築城から幕末まで城主が代わらなかった。

江戸の墓所 江戸表の菩提寺、世田谷の豪徳寺に葬られた

井伊家歴代の墓所は、彦根の清凉寺、東近江の永源寺、世田谷の豪徳寺の三か所にある。国許の彦根の墓所が清凉寺、江戸表の墓所が豪徳寺で、豪徳寺は寛永年間に世田谷が彦根藩領へ組み込まれたことから江戸表の菩提寺とされた。直孝は豪徳寺に葬られた6人の藩主の一人で、初代の直政は国許の清凉寺に葬られている。

井伊直孝の疑問に答える

井伊直孝は「大老」だった?

直孝が秀忠の遺言で任された役割には、確定した役職名がなかった。役職としての「大老」は、直孝の役割を受け継いだ3代直澄の次、4代直興が再編して就いた。大老に就いた歴代当主の数は、5人が6回とする書き方と4人が計5回とする書き方があり、資料によって分かれる。

彦根城を完成させたのは誰?

工事が二段階に分かれているため、一言では答えられない。慶長9年(1604)から慶長12年(1607)までの一期工事は幕府主導の公儀普請で、直政が亡くなった後、兄の代に進んだ。直孝が主体として関わったのは元和元年(1615)からの二期工事で、表御殿の造営と城下町の町割にあたる部分である。完成の時期は、直孝がさらに工事を続けて元和8年(1622)にほぼ完成した、という書き方をする資料もある。

彦根藩は三十万石? 三十五万石?

資料によって書き方が分かれる。江戸初期と幕末を除いて30万石をかぞえたという書き方、直孝の代に30万石の大名となったという書き方があり、一方で江戸時代を通じて彦根三十五万石を領したという書き方もある。

ひこにゃんは、直孝と関係がある?

彦根市のキャラクター「ひこにゃん」は、彦根藩井伊家2代当主である井伊直孝を寺の門前で手招きして雷雨から救ったと伝えられる招き猫と、井伊軍団のシンボルである赤備え(武具を朱塗りにそろえた部隊)の兜を合体させて生まれた。招き猫の話は、彦根市自身が伝えられている話として紹介している。

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参考にした資料