佐和山城とは?
今の滋賀県彦根市の佐和山にあった境目の城で、丹羽長秀・石田三成らの居城を経て、関ヶ原の直後に落城し、彦根城の築城で廃城になった。
場所は彦根城の東約2km、中山道(当時の東山道)と琵琶湖の港を足もとに見下ろす標高約233mの山です。南の六角氏と北の京極氏・浅井氏の勢力の境にあって奪い合いになる城、つまり境目の城でした。
境目の城——六角・京極・浅井が、郡境の山を奪い合った
城の始まりは鎌倉時代初期、佐々木定綱の六男・時綱が麓に館を構えたことと伝える。近江源氏の佐々木氏が南の六角氏(南近江の守護の家)と北の京極氏(北近江の守護の家)に分かれて争うようになると、南の犬上郡と北の坂田郡の境(郡境の一帯は今の彦根市)にあるこの山は、両勢力の境目に当たった。
六角の城 15世紀後半、六角高頼が家臣を城主に置いた
佐和山城は、応仁・文明のころ(1467〜1486年)に六角高頼が犬上郡を支配下に置き、家臣の小川氏を城主にしたときから、六角氏の北の備えになった。本丸からは北東に伊吹山、南西に繖山が見える。伊吹山の麓には京極氏の上平寺城、繖山には六角氏の観音寺城があり、南北の本拠が両方とも見える位置だった。
三つ巴 1535年から、六角・京極・浅井が取っては取られた
1535年、六角定頼が京極氏と浅井氏を攻めて佐和山城を手に入れ、1552年には京極高広が反撃して奪い返した。浅井氏はもともと京極氏の家来で、1523年に初代の浅井亮政が主家の相続争いに乗じて台頭し、京極氏に代わって北近江を動かす家になっていた。その浅井氏が佐和山城を引き継ぎ、1559年、浅井長政が家臣を城代(城主に代わって城を預かる家臣)に置いて六角氏と向き合った。
浅井の城代 1561年、磯野員昌が城代になった
1561年、六角氏が佐和山城を攻め、浅井の城代は戦死した。浅井長政は城を奪い返し、重臣の磯野員昌を城代に置く。1568年、浅井氏と同盟した織田信長は、足利義昭を連れた上洛の途中でこの城に入った。
織田の城——8か月の籠城の末に開き、安土城ができるまで近江の中心になった
1570年、浅井長政は信長との同盟を破り、朝倉氏と組んで反旗を翻した。同年6月の姉川の戦いで敗れた浅井方は、北の小谷城と南の佐和山城に立てこもる。信長は小谷城の押さえに秀吉を配置し、佐和山城には自ら軍を寄せた。
1570年7月・包囲 四方の山に武将を置き、通路を止めた
1570年7月、信長は佐和山城の東の鳥居本に丹羽長秀、北の物生山に市橋長利、南の里根山に水野信元、西の彦根山に河尻秀隆を布陣させ、城を取り囲んで出入りの道をふさいだ。城の周りを囲むように陣城(攻めるために築く臨時の城)が築かれ、城代の磯野員昌は籠城に入った。
1571年・開城 磯野員昌が降伏し、丹羽長秀が入った
磯野員昌は約8か月籠城したが、1571年、信長に降伏して城を明け渡した。信長は重臣の丹羽長秀を城に入れる。姉川の後に押さえた横山城(小谷城の南の城)とこの佐和山城で、信長は浅井氏の南下を止め、岐阜と京都を結ぶ道を確保した。
1573年から 安土城ができるまで、近江支配の中心だった
1573年に小谷城が落ちて浅井氏が滅ぶと、信長は近江の全域を押さえた。丹羽長秀が入った佐和山城は、安土城が築かれるまで、信長の近江支配の中心だった。安土城ができた後も、長秀は城主を続けた。
1582年・本能寺の変 武田元明が攻め落とし、城は秀吉の側へ移った
1582年、本能寺の変に乗じて若狭(今の福井県西部)の武田元明がこの城を攻め落とし、明智光秀が家臣を入れた。このとき長秀が城にいたかどうかは史料では確定できないが、長秀がこの城の城主に戻ることはなかった。光秀が入れた家臣が城にいたのも短い間で、城は同じ年のうちに秀吉の側へ移る。
三成の城——代官から城主へ、城下まで二重の堀で囲む城になった
1582年の清洲会議で佐和山城主になったのは、秀吉の将・堀秀政だった。1585年、秀政は北国征伐(秀吉の北陸への出兵)に備えて城を修築する。その後、堀尾吉晴が城主となり、1590年に浜松へ移った。翌1591年4月、石田三成が秀吉直轄地を管理する代官として入城し、1595年8月には湖北4郡19万4000石を治める城主になる。
1596年・大改修 山上に五つの曲輪、山下は二重の堀
1596年、三成は佐和山城を大改修した。山上には本丸から二の丸・三の丸・太鼓丸・法華丸の曲輪が連なり、本丸には五層の天守が建っていたと伝わる。山下は東山道に面して大手門が開き、二重に巡らせた堀の内側に侍屋敷・足軽屋敷・町屋が並ぶ城下町ができた。城下町ごと堀で囲むこの構えを「佐和山惣構」と呼ぶ。
湖への口 西の麓にも屋敷と米蔵、松原の湊へ百間橋
三成の時代の佐和山城は、琵琶湖に面した西の麓にも侍屋敷や米蔵を置いていた。城の北端には東山道と松原内湖(琵琶湖につながる内湖)を結ぶ道が東西に走り、この道は百間橋を渡って松原の湊につながり、城の搦め手(裏口)だったとみられる。
1599年・引退 七将襲撃の後、三成はこの城に退いた
1599年、前田利家の死後に福島正則らの襲撃を受けた三成は、奉行職を離れて佐和山城に引退した。この城では二の丸に兄の正澄が詰め、三成自身の屋敷は南西の麓の谷にあったと推定される。翌1600年、三成はここから関ヶ原へ向かった。
落城——関ヶ原の2日後、父と兄が守る城が包囲された
1600年9月15日、三成は関ヶ原で敗れ、湖北へ逃走した。城主が不在の佐和山城には、父の正継を主将に、兄の正澄らが残っていた。落城までの経過は、江戸時代に書かれた軍記類の記述によって伝わる。
関ヶ原の2日後 小早川秀秋ら寝返り組が、三方から攻めた
関ヶ原の2日後、小早川秀秋ら関ヶ原で東軍に寝返った大名を主力とする軍が、佐和山城を包囲した。大手からは小早川秀秋・脇坂安治ら、水の手(水を汲む口)からは田中吉政、西の松原口からも兵が攻めかかり、家康自身は佐和山の南の正法寺山に陣を置いたとされる。攻め手は1万5000、城兵は2800余と伝わる。
守り 正継と正澄が、少数で持ちこたえた
1600年9月、石田正継と正澄は少ない兵で守りを固め、執拗な攻撃によく耐えたと伝わる。しかし城内から小早川方に内通する者が出て形勢が傾き、包囲から間もなく城は落ちた。天守に火が放たれ、正継と正澄ら石田一族は城内で自刃したと伝わる。
落城後 家康が家臣に城を預け、代官を置いた
1600年の落城後、家康は三人の家臣に佐和山城を管理させ、城下の治安のために代官を置いた。城主を決めるまでの、家康の暫定の城だった。
井伊の城——直政は1年で死に、家老が新しい城を家康に諮った
関ヶ原の手柄の褒美として、佐和山城は井伊直政に与えられた。1601年正月、直政は上野(今の群馬県)の高崎城から佐和山に入り、彦根藩の初代藩主となった。二の丸には家老の木俣守勝が詰めたと伝える。
1602年・直政の死 鉄砲傷が悪化し、佐和山城内で死去した
井伊直政は1602年、関ヶ原で受けた鉄砲傷が悪化して佐和山城内で死去した。入城の翌年のことだった。麓には墓所として清凉寺が創建された。佐和山に入ってまもなく立てた新しい城の計画は、この死の翌年に動き出す。
1603年・彦根山に決定 佐和山・彦根山・磯山の三つから選んだ
木俣守勝は1603年、城を移す計画を徳川家康に諮った。佐和山、彦根山、磯山(今の米原市の山)の三つを候補に、家康の指示で彦根山への移転が決まる。戦の形が山城を拠点とするものから平地での集団戦に変わり、城のまわりに城下町が広がったことが考慮されて、平山城(平地の小山に築く城)を築ける彦根山が選ばれたとみられる。
彦根城へ——1604年の着工で役目を終え、石垣と建物が運ばれた
1604年7月1日、佐和山城の西約2kmの彦根山で、新しい城の工事が始まった。幕府から6人の奉行が派遣され、近隣の大名が工事を手伝う天下普請(幕府が大名に命じて行う工事)で、西国への押さえの拠点として完成が急がれた。彦根城の天守が完成した1606年ごろ、直政の子・直継が彦根城へ移り、佐和山城は廃城になった。
運ばれたもの 石垣の石から、櫓・城門まで
1604年からの彦根城の工事で、佐和山城からは石垣の石から櫓や城門までが使われたと伝わる。彦根城下の宗安寺の赤門は、佐和山城の大手門を移したものと伝える。佐和山城の本丸にあった天守台は、井伊家の破城(城を使えないように壊すこと)で九間(約16m)とも七間(約13m)とも切り落とされたと、1727年に彦根藩が行った聞き取りに記されている。
移った町 城下の本町は、彦根城下のキャッスルロードへ
佐和山城下の「本町」は、彦根城の城下町を建てるとき、名前を残したまま京橋口から伸びる道の両側に移された。この道が今のキャッスルロードだ。東山道の宿場も、佐和山の東の麓の小野から、街道を北へ進んだ鳥居本に移り、中山道の宿場町・鳥居本宿として整えられた。
検証 建物は残らないが、規模は測れる
佐和山城跡は、天守や櫓などの建物がまったく残らず、石垣もほとんど無いとされてきた。しかし2004年度から続く測量と発掘で、大手の土塁が幅13m・高さ2m・総延長165m、内堀の幅が約22mで安土城の堀と同じ規模だと分かった。城下町からは、金属を溶かして加工する職人の道具も出土している。五層の天守と伝わる豪華さは確かめられないが、城と城下がどれだけ大きかったかは、残る遺構から分かる。
佐和山城の疑問に答える
「三成に過ぎたるもの」って何?
「三成に過ぎたるものが二つあり、島の左近と佐和山の城」と歌われたと伝わる言葉で、家臣の島左近と佐和山城が、三成の身分には立派すぎると評されたという意味だ。誰がいつ歌ったかは、史料では確定できない。
彦根城の天守は、佐和山城の天守を移したもの?
違う。彦根城の天守は、大津城の天守を移したものと伝わる。佐和山城から彦根城へ移されたと伝わるのは、石垣の石や櫓、城門である。
佐和山城跡には、今何が残っている?
山頂の本丸跡に土塁と算木積み(角を長い石と短い石で交互に組む積み方)の隅石垣、本丸の北東に二の丸と幅約10m・深さ約6mの大堀切、西の丸の土塁、籠城の水源だった千貫井(千貫の値打ちがある井戸という意味で名付けられたとみられる)が残る。東の麓には大手門跡と、内堀の跡を示すおまん川、城下の本町筋・百々町筋の道筋が田んぼの中に残る。山は龍潭寺と清凉寺の所有地なので、登山道は龍潭寺側から、案内に従って歩く。
龍潭寺と清凉寺は、佐和山城とどう関係する?
どちらも佐和山の麓にある、井伊家ゆかりの寺だ。龍潭寺は井伊家発祥の地・遠江(今の静岡県西部)井伊谷の菩提寺と同じ名の寺で、彦根にも建てられた。井伊家の菩提寺でありながら石田三成の菩提も弔い、境内に三成の供養碑があって、ここから佐和山城跡への登山道が続く。清凉寺は1602年、直政の死をきっかけに墓所として創建され、彦根で亡くなった歴代藩主7人を含む井伊家の墓所(国の史跡)がある。
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参考にした資料
- 滋賀県教育委員会・彦根市教育委員会「佐和山城跡」埋蔵文化財活用ブックレット(位置と交通・六角・京極・浅井の争奪・1570年7月の包囲の布陣と秀吉の小谷城配置(信長公記の引用)・1582年の武田元明の攻略・三成期の縄張りと城下・落城の経過(軍記による)・落城後の家康の暫定管理と代官・直政の入城から彦根山の選定・破城の聞き取り・遺構と発掘成果・年表・宗安寺の赤門・本町の移転・鳥居本宿・龍潭寺と清凉寺の藩主7人の墓所)
- 彦根市「彦根市歴史的風致維持向上計画 第1章 彦根市の歴史的風致形成の背景」(佐和山の標高・丹羽長秀と安土城の機能・三成の入城年と石高・落城時の守将・直政の入城と死去・木俣守勝と3山の候補・1604年7月1日の着工と天下普請・古城からの材木と石材・清凉寺の創建)
- 彦根市「文化観光推進計画 資料3」(歴代城主・「三成に過ぎたもの」の評・家康の指示による彦根山への移転・残る遺構)
- 彦根市文化財課「佐和山城」(佐保時綱の館・境目の城・磯野員昌の8か月の籠城・佐和山惣構・近年判明した遺構)
- 彦根市「武士の夢 佐和山」(五層の天守の伝承・建物の移築の伝承・私有地であること)
- 彦根市「特別史跡彦根城跡」(直政の入城と死去・木俣守勝の相談・着工日・天下普請)
- 彦根市「彦根城の特徴」(佐和山城などからの石垣・櫓・城門の転用の伝承・大津城天守の移築)
- 彦根城博物館「彦根藩の歴史Q&A」(1603年の築城決定・1604年着工・1606年の天守完成・大津城天守の移築・龍潭寺の由来)
- 彦根城博物館「佐和山古城図」(廃城から100年以上後に伝承をもとに描かれた絵図であること)
- 彦根城博物館「彦根藩主井伊家」(入城後まもなく新城が計画されたこと・1603年の決定・直継への引き継ぎ)
- 文化庁 文化遺産オンライン「彦根城跡」(特別史跡・築城の経過)
- 滋賀県「三成ゆかりの地めぐり」(「三成に過ぎたるもの」の歌・龍潭寺の供養碑と登山道)
- 滋賀県教育委員会「信長の城と戦国近江」(1570〜71年の開城と、横山城・佐和山城を押さえた意味)
- 奈良文化財研究所 全国遺跡報告総覧「佐和山城跡」彦根市埋蔵文化財調査報告書(所在地・標高・城主の変遷・鳥居本宿)
- 国立国会図書館 レファレンス協同データベース「近江の戦国大名浅井氏の概要について知りたい」(浅井氏が京極氏の被官だったこと・1523年に亮政が相続争いに乗じて台頭したこと)
- 国立国会図書館 レファレンス協同データベース「佐和山城について築城の時期と築城者、三成が領有した経緯を知りたい」(最古の記録・1595年の三成城主)