場所ページ / 滋賀県彦根市・彦根城の東約2km

佐和山城さわやまじょう

佐和山城とは?

今の滋賀県彦根市の佐和山にあった境目の城で、丹羽長秀・石田三成らの居城を経て、関ヶ原の直後に落城し、彦根城の築城で廃城になった。

場所は彦根城の東約2km、中山道(当時の東山道とうさんどう)と琵琶湖の港を足もとに見下ろす標高約233mの山です。南の六角氏と北の京極氏・浅井氏の勢力の境にあって奪い合いになる城、つまり境目の城でした。

15世紀後半、六角氏が家臣を置いた城です。1535年から六角・京極・浅井の三つ巴の奪い合いが続き、1561年に浅井長政あざい ながまさが磯野員昌を城代に置きます。
1570年、姉川の戦いの後に信長が四方から包囲し、約8か月の籠城の末、1571年に開城します。丹羽長秀が入り、安土城ができるまで近江支配の中心になります。
本能寺の変の後は堀秀政ほり ひでまさ堀尾吉晴ほりお よしはるが城主となり、1591年に石田三成が代官として入城、1595年に19万4000石の城主になります。1596年の大改修で、城下まで二重の堀で囲む城になります。
1600年9月、関ヶ原の戦いの2日後に小早川秀秋こばやかわ ひであきらが包囲します。三成の父・正継と兄・正澄が守りますが落城し、二人は自刃します。
1601年正月に井伊直政が入りますが、翌1602年に城内で死去します。家老の木俣守勝が家康に諮り、彦根山への移転が決まります。
1604年7月、彦根城の築城が始まります。佐和山城は壊されて石垣や建物が運ばれ、彦根城の天守が完成した1606年ごろに廃城になります。

境目の城——六角・京極・浅井が、郡境の山を奪い合った

城の始まりは鎌倉時代初期、佐々木定綱さだつなの六男・時綱ときつなが麓に館を構えたことと伝える。近江源氏の佐々木氏が南の六角氏(南近江の守護の家)と北の京極氏(北近江の守護の家)に分かれて争うようになると、南の犬上郡いぬかみぐんと北の坂田郡さかたぐんの境(郡境の一帯は今の彦根市)にあるこの山は、両勢力の境目に当たった。

六角の城 15世紀後半、六角高頼が家臣を城主に置いた

佐和山城は、応仁・文明のころ(1467〜1486年)に六角高頼たかよりが犬上郡を支配下に置き、家臣の小川氏を城主にしたときから、六角氏の北の備えになった。本丸からは北東に伊吹山、南西に繖山きぬがさやまが見える。伊吹山の麓には京極氏の上平寺城じょうへいじじょう、繖山には六角氏の観音寺城があり、南北の本拠が両方とも見える位置だった。

三つ巴 1535年から、六角・京極・浅井が取っては取られた

1535年、六角定頼さだよりが京極氏と浅井氏を攻めて佐和山城を手に入れ、1552年には京極高広たかひろが反撃して奪い返した。浅井氏はもともと京極氏の家来で、1523年に初代の浅井亮政すけまさが主家の相続争いに乗じて台頭し、京極氏に代わって北近江を動かす家になっていた。その浅井氏が佐和山城を引き継ぎ、1559年、浅井長政が家臣を城代(城主に代わって城を預かる家臣)に置いて六角氏と向き合った。

浅井の城代 1561年、磯野員昌が城代になった

1561年、六角氏が佐和山城を攻め、浅井の城代は戦死した。浅井長政は城を奪い返し、重臣の磯野員昌いそのかずまさを城代に置く。1568年、浅井氏と同盟した織田信長おだ のぶながは、足利義昭あしかが よしあきを連れた上洛の途中でこの城に入った。

織田の城——8か月の籠城の末に開き、安土城ができるまで近江の中心になった

1570年、浅井長政は信長との同盟を破り、朝倉氏と組んで反旗を翻した。同年6月の姉川の戦いで敗れた浅井方は、北の小谷城と南の佐和山城に立てこもる。信長は小谷城の押さえに秀吉を配置し、佐和山城には自ら軍を寄せた。

1570年7月・包囲 四方の山に武将を置き、通路を止めた

1570年7月、信長は佐和山城の東の鳥居本とりいもと丹羽長秀にわながひで、北の物生山むしやま市橋長利いちはしながとし、南の里根山さとねやま水野信元みずののぶもと、西の彦根山に河尻秀隆かわじりひでたかを布陣させ、城を取り囲んで出入りの道をふさいだ。城の周りを囲むように陣城(攻めるために築く臨時の城)が築かれ、城代の磯野員昌は籠城に入った。

1571年・開城 磯野員昌が降伏し、丹羽長秀が入った

磯野員昌は約8か月籠城したが、1571年、信長に降伏して城を明け渡した。信長は重臣の丹羽長秀を城に入れる。姉川の後に押さえた横山城(小谷城の南の城)とこの佐和山城で、信長は浅井氏の南下を止め、岐阜と京都を結ぶ道を確保した。

1573年から 安土城ができるまで、近江支配の中心だった

1573年に小谷城が落ちて浅井氏が滅ぶと、信長は近江の全域を押さえた。丹羽長秀が入った佐和山城は、安土城が築かれるまで、信長の近江支配の中心だった。安土城ができた後も、長秀は城主を続けた。

1582年・本能寺の変 武田元明が攻め落とし、城は秀吉の側へ移った

1582年、本能寺の変に乗じて若狭(今の福井県西部)の武田元明もとあきがこの城を攻め落とし、明智光秀あけち みつひでが家臣を入れた。このとき長秀が城にいたかどうかは史料では確定できないが、長秀がこの城の城主に戻ることはなかった。光秀が入れた家臣が城にいたのも短い間で、城は同じ年のうちに秀吉の側へ移る。

三成の城——代官から城主へ、城下まで二重の堀で囲む城になった

1582年の清洲会議で佐和山城主になったのは、秀吉の将・堀秀政ほりひでまさだった。1585年、秀政は北国征伐(秀吉の北陸への出兵)に備えて城を修築する。その後、堀尾吉晴ほりおよしはるが城主となり、1590年に浜松へ移った。翌1591年4月、石田三成が秀吉直轄地を管理する代官として入城し、1595年8月には湖北こほく4郡19万4000石を治める城主になる。

1596年・大改修 山上に五つの曲輪、山下は二重の堀

1596年、三成は佐和山城を大改修した。山上には本丸から二の丸・三の丸・太鼓丸たいこまる法華丸ほっけまる曲輪くるわが連なり、本丸には五層の天守が建っていたと伝わる。山下は東山道に面して大手門が開き、二重に巡らせた堀の内側に侍屋敷・足軽屋敷・町屋が並ぶ城下町ができた。城下町ごと堀で囲むこの構えを「佐和山惣構そうがまえ」と呼ぶ。

湖への口 西の麓にも屋敷と米蔵、松原の湊へ百間橋

三成の時代の佐和山城は、琵琶湖に面した西の麓にも侍屋敷や米蔵を置いていた。城の北端には東山道と松原内湖まつばらないこ(琵琶湖につながる内湖)を結ぶ道が東西に走り、この道は百間橋ひゃっけんばしを渡って松原の湊につながり、城の搦め手からめて(裏口)だったとみられる。

1599年・引退 七将襲撃の後、三成はこの城に退いた

1599年、前田利家まえだ としいえの死後に福島正則ふくしま まさのりらの襲撃を受けた三成は、奉行職を離れて佐和山城に引退した。この城では二の丸に兄の正澄まさずみが詰め、三成自身の屋敷は南西の麓の谷にあったと推定される。翌1600年、三成はここから関ヶ原へ向かった。

落城——関ヶ原の2日後、父と兄が守る城が包囲された

1600年9月15日、三成は関ヶ原で敗れ、湖北へ逃走した。城主が不在の佐和山城には、父の正継まさつぐを主将に、兄の正澄らが残っていた。落城までの経過は、江戸時代に書かれた軍記類の記述によって伝わる。

関ヶ原の2日後 小早川秀秋ら寝返り組が、三方から攻めた

関ヶ原の2日後、小早川秀秋こばやかわひであきら関ヶ原で東軍に寝返った大名を主力とする軍が、佐和山城を包囲した。大手からは小早川秀秋・脇坂安治わきざかやすはるら、水の手(水を汲む口)からは田中吉政たなかよしまさ、西の松原口からも兵が攻めかかり、家康自身は佐和山の南の正法寺山しょうぼうじやまに陣を置いたとされる。攻め手は1万5000、城兵は2800余と伝わる。

守り 正継と正澄が、少数で持ちこたえた

1600年9月、石田正継と正澄は少ない兵で守りを固め、執拗な攻撃によく耐えたと伝わる。しかし城内から小早川方に内通する者が出て形勢が傾き、包囲から間もなく城は落ちた。天守に火が放たれ、正継と正澄ら石田一族は城内で自刃したと伝わる。

落城後 家康が家臣に城を預け、代官を置いた

1600年の落城後、家康は三人の家臣に佐和山城を管理させ、城下の治安のために代官を置いた。城主を決めるまでの、家康の暫定の城だった。

井伊の城——直政は1年で死に、家老が新しい城を家康に諮った

関ヶ原の手柄の褒美として、佐和山城は井伊直政いいなおまさに与えられた。1601年正月、直政は上野こうずけ(今の群馬県)の高崎城から佐和山に入り、彦根藩の初代藩主となった。二の丸には家老の木俣守勝きまたもりかつが詰めたと伝える。

1602年・直政の死 鉄砲傷が悪化し、佐和山城内で死去した

井伊直政は1602年、関ヶ原で受けた鉄砲傷が悪化して佐和山城内で死去した。入城の翌年のことだった。麓には墓所として清凉寺せいりょうじが創建された。佐和山に入ってまもなく立てた新しい城の計画は、この死の翌年に動き出す。

1603年・彦根山に決定 佐和山・彦根山・磯山の三つから選んだ

木俣守勝は1603年、城を移す計画を徳川家康とくがわ いえやすに諮った。佐和山、彦根山、磯山いそやま(今の米原市の山)の三つを候補に、家康の指示で彦根山への移転が決まる。戦の形が山城を拠点とするものから平地での集団戦に変わり、城のまわりに城下町が広がったことが考慮されて、平山城(平地の小山に築く城)を築ける彦根山が選ばれたとみられる。

彦根城へ——1604年の着工で役目を終え、石垣と建物が運ばれた

1604年7月1日、佐和山城の西約2kmの彦根山で、新しい城の工事が始まった。幕府から6人の奉行が派遣され、近隣の大名が工事を手伝う天下普請てんかぶしん(幕府が大名に命じて行う工事)で、西国への押さえの拠点として完成が急がれた。彦根城の天守が完成した1606年ごろ、直政の子・直継なおつぐが彦根城へ移り、佐和山城は廃城になった。

運ばれたもの 石垣の石から、櫓・城門まで

1604年からの彦根城の工事で、佐和山城からは石垣の石から櫓や城門までが使われたと伝わる。彦根城下の宗安寺そうあんじの赤門は、佐和山城の大手門を移したものと伝える。佐和山城の本丸にあった天守台は、井伊家の破城はじょう(城を使えないように壊すこと)で九間(約16m)とも七間(約13m)とも切り落とされたと、1727年に彦根藩が行った聞き取りに記されている。

移った町 城下の本町は、彦根城下のキャッスルロードへ

佐和山城下の「本町」は、彦根城の城下町を建てるとき、名前を残したまま京橋口から伸びる道の両側に移された。この道が今のキャッスルロードだ。東山道の宿場も、佐和山の東の麓の小野おのから、街道を北へ進んだ鳥居本に移り、中山道の宿場町・鳥居本宿として整えられた。

検証 建物は残らないが、規模は測れる

佐和山城跡は、天守や櫓などの建物がまったく残らず、石垣もほとんど無いとされてきた。しかし2004年度から続く測量と発掘で、大手の土塁が幅13m・高さ2m・総延長165m、内堀の幅が約22mで安土城の堀と同じ規模だと分かった。城下町からは、金属を溶かして加工する職人の道具も出土している。五層の天守と伝わる豪華さは確かめられないが、城と城下がどれだけ大きかったかは、残る遺構から分かる。

佐和山城の疑問に答える

「三成に過ぎたるもの」って何?

「三成に過ぎたるものが二つあり、島の左近と佐和山の城」と歌われたと伝わる言葉で、家臣の島左近しまさこんと佐和山城が、三成の身分には立派すぎると評されたという意味だ。誰がいつ歌ったかは、史料では確定できない。

彦根城の天守は、佐和山城の天守を移したもの?

違う。彦根城の天守は、大津城の天守を移したものと伝わる。佐和山城から彦根城へ移されたと伝わるのは、石垣の石や櫓、城門である。

佐和山城跡には、今何が残っている?

山頂の本丸跡に土塁と算木積みさんぎづみ(角を長い石と短い石で交互に組む積み方)の隅石垣、本丸の北東に二の丸と幅約10m・深さ約6mの大堀切ほりきり、西の丸の土塁、籠城の水源だった千貫井せんがんい(千貫の値打ちがある井戸という意味で名付けられたとみられる)が残る。東の麓には大手門跡と、内堀の跡を示すおまん川、城下の本町筋・百々町筋の道筋が田んぼの中に残る。山は龍潭寺りょうたんじと清凉寺の所有地なので、登山道は龍潭寺側から、案内に従って歩く。

龍潭寺と清凉寺は、佐和山城とどう関係する?

どちらも佐和山の麓にある、井伊家ゆかりの寺だ。龍潭寺は井伊家発祥の地・遠江とおとうみ(今の静岡県西部)井伊谷いいのやの菩提寺と同じ名の寺で、彦根にも建てられた。井伊家の菩提寺でありながら石田三成の菩提も弔い、境内に三成の供養碑があって、ここから佐和山城跡への登山道が続く。清凉寺は1602年、直政の死をきっかけに墓所として創建され、彦根で亡くなった歴代藩主7人を含む井伊家の墓所(国の史跡)がある。

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参考にした資料