要点
- 六角氏の本拠だった。鎌倉以来の近江守護・六角氏が南北朝期に築き、戦国時代に大規模に整備した。六角定頼の時代には、将軍足利義晴を迎える政治の中心となった。
- 山全体に曲輪が広がる。繖山の山頂から中腹にかけて、家臣の屋敷跡とみられる曲輪が数多く残る。城に家臣を住まわせた、戦国の山城としては早い例とされる。
- 石垣が早かった。戦国の山城は土を削って作るものが多いなかで、観音寺城は石垣を多用した。安土城より前の時代の石垣が残り、石垣技術の先駆けとして注目される。
- 城下に楽市があった。山麓の石寺に1549年、六角定頼が楽市を認めた。楽市令の史料上の初見とされる。
- 信長の上洛で捨てられた。1568年、織田信長の上洛軍が支城の箕作城を落とすと、六角義賢・義治は観音寺城を捨てて甲賀へ退いた。城はそのまま使われなくなった。
観音寺城は、どう使われてきたのか
- 01南北朝期:築城
六角氏が繖山に城を構えたとされる。当初は詰めの城だった。
- 0215世紀末:幕府の六角征伐
将軍足利義尚・義材が六角高頼を攻め、高頼は観音寺城を離れて甲賀に退いた。
- 031520〜50年代:定頼の整備
六角定頼が城を大規模に整備し、石垣を築いた。将軍義晴を迎え、政治の中心となる。
- 041549年:石寺の楽市
城下の石寺に楽市令が出される。
- 051563年:観音寺騒動
重臣の後藤氏殺害に家臣が反発し、六角義賢・義治が一時城を追われた。
- 061568年:信長の上洛で放棄
信長軍が支城を落とすと、六角氏は城を捨てて甲賀へ退いた。
- 071576年:安土城の築城
信長が隣の安土山に安土城を築く。観音寺城の役目は終わった。
観音寺城と安土城は、どうつながるのか
- 隣の山だった。観音寺城の繖山と安土城の安土山は、尾根続きの隣の山である。信長は六角氏の本拠のすぐそばに、新しい城を築いた。
- 石垣の技術がつながった可能性。観音寺城には安土城より古い石垣が残り、安土城の石垣技術が観音寺城の影響を受けたとする見方がある。近江の石工集団(穴太衆)が両方に関わったともいわれる。
- 「捨てられた城」の評価が変わった。信長に一蹴された印象が強かったが、滋賀県の調査で石垣や曲輪の規模が明らかになり、戦国の山城として日本屈指と評価されている。