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明石全登

明石全登とは?

今の岡山県岡山市にあった岡山城を本拠とする宇喜多秀家に仕え、家臣の名簿のなかで最も大きな知行ちぎょう(家臣に与えられた土地)を与えられた組頭くみがしらで、主家の改易ののち大坂城に入った武将です。

明石家は、宇喜多氏が備前で力を伸ばす前、浦上うらがみ氏に仕えていた時代には、宇喜多氏より家格が上の有力な国人だったと位置づけられています。
記録に現れるのは「明石掃部頭かもんのかみ」「明石掃部助」という通称で、実名として確かめられるのは守重もりしげです。
慶長のはじめの家臣名簿では、知行は三万三千百十石。組を率いる六人のなかで最も大きな数字です。
加増前は一万二千五百石でした。文禄3年に一万石、慶長3年に千石と九千六百十石が加えられ、最後の分は美作の荒れ地だったとみられます。
「明石守重」の名で出された書状が残り、上方で人を召し抱えることを扱っています。関ヶ原の戦いの一か月前にあたります。
主家の宇喜多家が改易されて浪人となり、1614年に大坂城へ入り、翌年の夏の陣ののち行方が分からなくなったと伝わります。

浦上のころ——宇喜多氏より、家格が上だった家

浦上氏に仕えていた時代の明石家は、のちに台頭する宇喜多氏よりも家格が上の有力な国人こくじん(その土地に根を張った領主)だったと位置づけられている。宇喜多氏の傘下に入ったあとも、この来歴は家中での扱いに残った。この来歴を持つ明石家は、大きな組を率いる六人の一人にも数えられている。

六人の内訳 出自の系統が、三つに分かれていた

大きな組を率いた六人は、来歴で三つに分かれる。戸川肥後守、岡越前守、長船吉兵衛尉、花房志摩守は代々仕えてきた重臣。浮田左京亮は一門の重鎮。明石掃部頭は、浦上氏の時代の有力国人である。同じ重臣という言葉でくくられていても、宇喜多家に加わるまでの道筋は同じではなかった。

国人という来歴 仕える前から、地盤を持っていた

国人は、大名の家臣になる前から自分の土地と家来を持つ領主を指す。明石家もそうした家の一つで、浦上氏のもとでは宇喜多氏と並ぶ、あるいはそれ以上の位置にあったとされる。宇喜多家の家臣となったあとも、明石家はこの来歴を背景とする重臣として位置づけられている。

掃部頭と守重——名前は、資料によって書き方が分かれる

文禄3年(1594)と推定される4月16日付の文書には「明石掃部助」、慶長のはじめの家臣名簿には「明石掃部頭」と、同じ人物が異なる書き方で記される。役所の名から来た呼び名である通称つうしょうは文書によって表記が揺れる一方、実名として確かめられるのは守重である。

士帳 名前と知行を並べた、家中の名簿

宇喜多家の家臣の名前と知行を並べた名簿が「慶長初年宇喜多秀家士帳さむらいちょう」で、金沢の文庫に伝わる。原本の所在は分かっておらず、写本が数多く残る。写本ごとに書かれている内容が食い違うため長く扱いにくい資料とされてきたが、写本どうしの比較検討によって、この一本が最も原本に近いと結論づけられた。

いつの姿か 慶長5年初めの家中を、写している

この名簿は、慶長5年(1600)初めの家中の姿を土台に、同じ年の夏ごろまでの動きを注記として書き足した簿冊と推察されている。明石掃部頭の知行の数字も、その時点の状態を示している。

三万三千百十石——名簿のなかで、最も大きな知行

慶長4年ごろの宇喜多家全体の石高は約四十七万四千石とされ、大きな組を率いる六人の知行を合わせると家臣全体の四割におよぶ。そのなかで最も大きいのが、名簿に記された明石掃部頭の三万三千百十石である。この六人が、宇喜多家の軍事の中核をなしていた。

明石組の中身 名前の載る与力よりきは、一人だけ

組頭分の三万三千百十石に対して、名前を記された与力(組頭に預けられた家臣)は明石四郎兵衛尉ひとり、千石である。ほかに四十人で八百石の鉄炮衆が付き、軍役ぐんやく(石高に応じて課される兵の負担)のかからない無役分二千石を差し引いた三万二千九百十石が、組の合計として記されている。戸川組の与力は九十二名、岡組は百三十二名、長船組は九十五名で、明石組の少なさは際立っている。

三星城の城領 千石は全額が、城を保つための土地

明石四郎兵衛尉の千石は、全額が美作の三星城(今の岡山県美作市明見)の城領じょうりょう(城の維持にあてる領地)で、「千石無役 但三星城領」と書かれる。名簿のなかで城領の記載があるのは三例だけである。自身の知行を別に持たないことから、四郎兵衛尉は明石掃部頭の家臣、つまり陪臣ばいしんだった可能性が指摘されている。荒れた城領の立て直しも、組頭に託されていたとみられる。

加増の中身——一万石近くが、荒れ地だったとみられる

三万三千百十石のうち、二万六百十石は加増によるもので、加増前は一万二千五百石だった。内訳は、文禄3年(1594)に一万石、慶長3年(1598)に千石、同じ慶長3年に「山之内」で九千六百十石である。十年ほどで知行は二倍を超えている。

1598年9月9日 荒地を渡し、開発を命じる文書

明石掃部頭の「九千六百拾石 慶三山之内加」は、山内分が別に書き分けられていることから、預ケ置あずけおきだったと推測されている。同じ慶長3年、戸川肥後守も美作の山内・高田付近の五千百石を「預ケ置」という形で渡され、その文書には、いま荒地になっている所は来年から開発させよ、百姓をいたわり田地を荒らすなという指示が付き、三年は半分の軍役でよいとされている。

加増と負担 石高が増えれば、軍役も増える

二度の朝鮮出兵で家臣は減り、領国は疲弊していた。秀家は重臣の知行地を大きく入れ替え、加増という名目で荒れた土地や持ち主のいない土地を割り当てて、その立て直しと軍役の確保を重臣に負わせている。加増は褒賞であると同時に、負担の追加でもあった。この負担のかたよりが、のちに重臣の多くが秀家を見限る一因とみられている。

1600年8月19日——上方で、人を集めていた

慶長5年8月19日付で「明石守重」の名の書状が残り、上方(今の京都・大阪を中心とする地域)で新しく人を召し抱えることを扱っている。関ヶ原の戦いは、その一か月足らずのちである。この時期、宇喜多家では一門と宿老が秀家に反旗を翻し、家中を退去する動きが起きていた。慶長4年ごろから対立が深まり、慶長5年の初めに戸川達安はそのまま離れ、岡越前守、浮田左京亮、花房秀成はいったん戻ったのち、同年6月前後に再び退去する。明石掃部頭は家中に残っていた。

名簿が止まる 書き込みは、慶長5年の夏で途絶えた

重臣が再び退去したあと、家臣の組み替えや加増は名簿に書き込まれなくなった。改訂版が作られようとしたのか、作りかけのまま関ヶ原を迎えたのかは分かっていない。その後の家中の姿を、名簿から追うことはできない。

関ヶ原ののち——主家を失い、大坂城へ入った

慶長5年9月15日の関ヶ原の戦いに敗れ、宇喜多秀家は改易された。浪人となった明石掃部頭(守重)は、以後「全登」の名で広く知られる。1614年に大坂城へ入り、キリシタンの浪人を率いて戦ったと伝わり、翌年の大坂夏の陣ののち行方が分からなくなったとされる。生死については説が分かれたまま残っている。

明石全登について、資料はどこまで言えるか

公的機関の資料でたどれる明石全登は、宇喜多家の家臣名簿に載る数字と、一通の書状の存在に集まっている。よく知られている呼び名や逸話とは、たどれる範囲が重なっていない。

キリシタン 呼び名と、確かめられる立場

全登はキリシタンとして知られ、当サイトでもキリシタン大名の一覧に名を挙げている。一方、学術的な検討で扱われるのは宇喜多秀家の家臣、組の一つを率いる立場としての姿で、独立した領国を持つ大名としては現れない。洗礼名や信仰の具体像を伝える公的機関の資料は、今回は見つかっていない。

数字は残る 石高も、加増の年ごとの内訳も

名簿には、三万三千百十石という本人の知行、加増の年ごとの内訳、与力の人数と石高、無役分の差し引きまでが書き込まれている。家臣一人の経済的な立場をここまで細かく追える例は多くない。

明石全登の疑問に答える

明石全登は大名だった?

学術的な検討で扱われる立場は、宇喜多秀家の家臣、組を率いる組頭である。知行三万三千百十石は家臣名簿のなかで最大だが、自分の領国を持つ大名として現れる場面はない。

なぜ、それほど大きな知行を持てた?

明石家は浦上氏の時代、宇喜多氏より家格が上の有力な国人だった。その来歴を背負ったまま宇喜多家の重臣として遇され、文禄3年と慶長3年の加増で一万二千五百石から三万三千百十石まで増えている。ただし加増分には荒れた土地が含まれ、開発と軍役の確保が同時に課されていた。

本名は「全登」?

家臣名簿と書状で確かめられる実名は守重である。掃部頭は役所の名から来た通称で、文書によっては掃部助とも書かれる。「全登」という名も広く伝わるが、慶長期の宇喜多家の記録に現れるのは守重である。

名前の読み方は決まっている?

読み仮名を示す資料は今回の範囲では確認できなかった。

大坂の陣での働きを知りたい

陣の経過は大坂冬の陣と大坂夏の陣のページで日付を追ってたどれ、浪人が大坂城へ集まった事情は大坂の陣の浪人衆のページで整理している。全登個人の部隊の動きや戦功を裏づける公的機関の資料は、今回は見つかっていない。

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参考にした資料