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伊達氏だてしとは

伊達氏だてしは、鎌倉時代のはじめから続く陸奥の名門です。1189年、源頼朝の奥州攻めで手柄を立てた中村一族が伊達郡(現在の福島県伊達市のあたり)を与えられ、伊達と名乗ったのが始まり。梁川、桑折西山、米沢と本拠を移しながら南奥羽に根を張り、17代の政宗が仙台62万石の藩を開きました。戦国前半の親子の内戦「天文の乱」、政宗の急拡大と秀吉への臣従、分家の宇和島藩まで、約450年を一本の家でたどれます。

1189年、伊達郡から 発祥の地は福島県伊達市 17代政宗で仙台へ 仙台藩と宇和島藩

要点

  • 始まりは頼朝の恩賞。1189年の奥州合戦(厚樫山の戦い)で活躍した中村念西の一族が伊達郡を与えられ、高子岡に城を築いて伊達を名乗った。福島県伊達市が「伊達氏発祥の地」とされる。
  • 本拠を南から北へ移しながら大きくなった。高子岡→梁川→桑折西山→米沢→岩出山→仙台。居城の移り変わりが、そのまま家の成長の地図になっている。
  • 戦国前半の主役は「親子げんか」だった。14代稙宗は婚姻と養子で奥羽中に縁を広げた外交の名手だったが、子の晴宗と衝突し、奥羽の大名を巻き込む内戦(天文の乱、1542〜48)になった。
  • 政宗で最大になり、秀吉に削られた。17代政宗は摺上原で蘆名を滅ぼして伊達氏史上最大の領土を築いたが、秀吉に会津などを没収され、1591年には発祥の地・伊達郡まで失った。
  • 家は二つに増えて幕末まで続いた。関ヶ原後、政宗は仙台62万石を開き、長男の秀宗は宇和島10万石の藩主に。仙台藩と宇和島藩の二つの伊達家が、ともに幕末まで続いた。
成り立ち

伊達氏は、どうやって陸奥の家になったのか

  • 鎌倉幕府とともに生まれた家。頼朝が奥州藤原氏を攻めた1189年、伊達郡の厚樫山の合戦で戦功を挙げた中村念西一族が伊達郡を拝領。姓を伊達に改め、守り神として亀岡八幡宮を祭った。八幡宮はのちの本拠・梁川や桑折、仙台にも建てられ、家の移動とともに動いている。
  • 南北朝では南朝側で戦った。7代行朝は北畠顕家を支えた南朝の有力武将で、伊達郡の霊山が奥州側の拠点になった。
  • 「もう一人の政宗」が家を興した。9代政宗は伊達家中興の祖と呼ばれ、妻は室町将軍・足利義満の叔母という中央とのつながりを持った。独眼竜で知られる17代政宗の名は、この9代にあやかって付けられている。
  • 11代持宗から梁川城が本城に。現在の伊達市梁川町にあった平山城で、稙宗の代に桑折西山城へ移るまで約100年、伊達氏の中心だった。
戦国前半

稙宗の外交と、天文の乱

やったこと結果
14代 稙宗息子や娘を近隣の大名家へ養子・嫁として送り込み、縁戚の網で勢力を拡大。1522年に陸奥国守護となり、1536年には分国法「塵芥集」を制定南奥羽の家の多くが伊達の親戚になったが、縁の広げすぎが火種にもなった
天文の乱(1542〜48)三男・実元を越後上杉家へ養子に出す計画などをめぐり、子の晴宗が稙宗を幽閉。縁戚の大名たちが両陣営に分かれ、奥羽全体の内戦に晴宗が勝ち、本拠を米沢へ移した。稙宗は丸森城に隠退
15代 晴宗・16代 輝宗乱で乱れた家中を立て直し、米沢を本拠に態勢を整える。輝宗は最上義守の娘・義姫を妻に迎えたこの義姫が政宗の母。最上家との縁が、のちの関ヶ原(長谷堂への援軍)まで効いてくる

天文の乱は「よくある父子の対立」が、稙宗の張りめぐらせた縁戚の網を伝って奥羽全体に燃え広がったもの。縁組は平時には力になるが、内輪もめのときは戦火を運ぶ回路になる——伊達氏の前半戦がそれをよく示している。

政宗の時代

最大の版図から、仙台62万石へ

  • 18歳で家督、5年で奥州の覇者。1584年に輝宗から家督を継いだ政宗は、1589年の摺上原の戦いで蘆名氏を滅ぼし、福島県の中通り・会津から山形県南部、宮城県中南部に及ぶ、伊達氏歴代で最大の領土を築いた。
  • 秀吉に二度削られた。1590年の小田原参陣で臣従した政宗は会津などを没収され、翌1591年には発祥の地である伊達郡・信夫郡まで取り上げられて岩出山城(宮城県大崎市)へ移された。
  • 関ヶ原で故郷を取り戻そうとした。1600年、白石城を攻め取った政宗は、先祖以来の地・伊達郡の奪回を狙って梁川城を攻めた。しかし上杉方の抵抗が固く、夢は果たせなかった。仙台へ移ったあと、再び故郷を攻めることはなかった。
  • 戦えない時代は、都市で勝負した。1603年に仙台城へ移った政宗は城下町を整備し、大崎八幡宮や瑞巌寺の造営に当時最高の技術を注いだ。仙台藩62万石は幕末まで続く。

伊達氏の家系図

天文の乱の稙宗から、仙台藩と宇和島藩まで。実線が親子、細い線が婚姻、赤い点線が対立。義姫(最上義光の妹)と愛姫(田村氏)という二人の妻の縁が、伊達家の外交そのものになっている。

伊達氏の家系図伊達稙宗と晴宗は天文の乱で争い、晴宗が米沢へ。輝宗と義姫の子が政宗と小次郎。政宗と愛姫の子の忠宗が仙台藩二代、五郎八姫は松平忠輝の妻。側室の子・秀宗は宇和島藩10万石の初代。 だて たねむね伊達稙宗十四代・陸奥守護・塵芥集を制定 だて はるむね伊達晴宗十五代・乱に勝ち米沢へ だて てるむね伊達輝宗十六代・1585年に非業の死 よしひめ義姫最上義光の妹 だて まさむね伊達政宗十七代・仙台藩初代 めごひめ愛姫正室・田村氏の娘 だて こじろう伊達小次郎政宗の弟・1590年に死 だて ひでむね伊達秀宗長男・宇和島藩10万石の初代 だて ただむね伊達忠宗二代・仙台藩は幕末まで いろはひめ五郎八姫長女・松平忠輝の妻 天文の乱(1542〜48)で争う 家督 長男・家督(1584) 次男 長男(側室の子) 二代藩主へ 長女
この図で見てほしいのは、いちばん下の段で家が二つに増えていることです。忠宗の仙台藩62万石と、秀宗の宇和島藩10万石。戦国のはじめは天文の乱という親子げんかで揺れた家が、政宗の代で「二つの藩」という形に落ち着いて幕末まで続いた。義姫の線(最上家との縁)が、1600年の長谷堂への援軍につながっている点にも注目。

図の人物:伊達政宗だて まさむね最上義光もがみ よしあき長谷堂城の戦い白石城の戦い

人物

伊達氏をめぐる人物

立場この家との関わり
伊達稙宗14代当主婚姻外交と塵芥集。天文の乱で子の晴宗に敗れる
伊達晴宗15代当主天文の乱に勝ち、本拠を米沢へ移す
伊達輝宗16代当主義姫を妻に迎え、政宗に家督を譲った翌年、非業の死を遂げる
伊達政宗だて まさむね17代当主・仙台藩初代摺上原で最大版図→秀吉に削られ→仙台62万石を開く
義姫輝宗の妻・政宗の母最上義光の妹。伊達と最上をつなぐ縁になった
最上義光もがみ よしあき山形城主・政宗の伯父ふだんは領地を争い、関ヶ原では共に東軍で戦った
伊達秀宗政宗の長男大坂の陣ののち宇和島10万石の藩主に。分家の伊達家が四国に生まれる
よくある疑問

伊達氏についてのよくある疑問

伊達氏発祥の地はどこか?

福島県伊達市です。1189年に頼朝から伊達郡を与えられた一族が、伊達市内の高子岡に最初の城を築いて伊達を名乗りました。仙台のイメージが強い伊達氏ですが、家の名前のもとになった土地は福島県にあります。

政宗は失った故郷を取り戻そうとしなかったのか?

一度だけ、本気で取り返しに行っています。関ヶ原の年の1600年、政宗は白石城を落としたあと、先祖以来の地・伊達郡を狙って梁川城を攻めました。しかし上杉方の城代・須田長義らに阻まれて果たせず、仙台に移ってからは二度と故郷を攻めていません。後年、政宗はかつての敵・須田と会ったとき、懐かしんで太刀を贈ったと伝わります。

「伊達者」という言葉は政宗が語源か?

政宗の軍勢の派手な装いが語源とよく言われますが、仙台市博物館の解説によれば、実際にはそれ以前から使われていた言葉のようです。政宗のイメージと結びついて広まった、と考えるのが穏当です。

宇和島の伊達家とは何か?

政宗の長男・秀宗を初代とする分家です。愛媛県の宇和島10万石を治め、仙台藩とは別の大名家として幕末まで続きました。政宗の代で伊達家は「仙台と宇和島の二つ」に増えた形です。

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参考にした資料