要点
- 会津征伐の「その後」に起きた戦い。家康が小山で引き返したあと、上杉は空いた手で隣の最上領へ攻め込んだ。会津で家康と戦うはずだった上杉軍の戦場は、出羽になった。
- 上杉軍は二方向から攻めた。兼続の率いる本隊は米沢方面から、別働隊は当時上杉領だった庄内方面から、山形城を目指して侵攻した。最上方は支城を次々に失い、山形盆地の入口まで攻め込まれた。
- 長谷堂城が最後の防衛線になった。山形城の西南を守る長谷堂城には志村光安が入り、圧倒的な兵力差の中で猛攻を約半月食い止めた。この粘りが、東北の勢力図を分けた。
- 義光は伊達政宗を頼った。義光は甥にあたる政宗に援軍を求め、伊達勢が山形へ送られた。政宗は上杉と最上の共倒れも計算に入れつつ、母の実家である最上を見捨てなかった。
- 決着をつけたのは関ヶ原の報せだった。9月15日の西軍敗北が伝わると、兼続は撤退を決断。最上・伊達勢の追撃を受けながらの撤退戦は激戦になったが、兼続は軍をまとめて米沢へ帰り着いた。
侵攻から撤退まで
- 017月、家康が小山で反転。上杉の矛先が変わる
会津征伐が中止になり、上杉軍は家康と戦わないまま兵を残した。景勝と兼続は、東軍についた隣国の最上義光へ矛先を向けた。
- 029月上旬、上杉軍が最上領へ侵攻
兼続率いる本隊が米沢方面から、別働隊が庄内方面から攻め込んだ。2万を超えたと伝わる上杉軍に対し、最上方の兵力は大きく劣った。
- 03畑谷城が落ち、長谷堂城に迫る
山形への道をふさぐ畑谷城は、城主・江口光清らが降伏を拒んで玉砕。上杉軍は山形城の目前、長谷堂城を包囲した。義光は支城を捨てて山形城に兵を集め、政宗に援軍を求めた。
- 049月中旬〜下旬、長谷堂城の攻防
志村光安の守る長谷堂城は、少ない兵で上杉の猛攻を約半月しのいだ。伊達の援軍も山形近くに着陣し、上杉軍は城を抜けないまま時間を失った。
- 059月末、関ヶ原の敗報が届く
本戦はとっくに終わっていた。9月15日の西軍敗北が出羽に伝わると、上杉軍が最上領に留まる理由は消えた。
- 0610月1日、撤退開始。追撃戦へ
兼続は撤退を決め、最上・伊達勢が追撃した。義光自身も先頭に立って追ったと伝わる激戦の末、兼続は軍を崩さず米沢へ引き揚げた。
この戦いの中心人物
| 立場 | この戦いでは | その後 | |
|---|---|---|---|
| 直江兼続 | 上杉軍の大将。米沢方面から侵攻 | 長谷堂城を抜けず、敗報を受けて撤退。追撃下の退き際は敵からも評価されたと伝わる | 米沢30万石となった上杉家の立て直しを担う |
| 最上義光 | 山形城主。東軍につく | 支城で時間を稼ぎ、山形城に兵を集めて持ちこたえる。撤退戦では自ら追撃したと伝わる | 庄内などを得て57万石。徳川・豊臣を除き全国屈指の大大名に |
| 志村光安 | 最上家臣。長谷堂城の守将 | 寡兵で約半月、上杉の猛攻を食い止めた。この戦いの最大の功労者 | 戦後、庄内の東禅寺(酒田)城主に取り立てられる |
| 伊達政宗 | 義光の甥。東軍につく | 叔父の求めに応じて援軍を派遣。自身は南の白石方面で上杉領を攻めた(白石城の戦い) | 戦後加増は白石など限定的。「百万石のお墨付き」は果たされず |
| 上杉景勝 | 会津120万石の当主 | 会津から全体を指揮。家康との決戦は起きないまま、戦場は出羽になった | 米沢30万石へ減封。家名は幕末まで続く |
義光と政宗の関係は、義光の妹・義姫が政宗の母という叔父・甥の間柄。ふだんは領地を争ってきた両家が、この戦いでは上杉という共通の敵を前に手を組んだ。
語られる場面と、確かめられること
伝承 語られてきた場面
追撃の先頭に立った義光の兜に敵の銃弾が当たったという場面や、「兼続の退き際の見事さは敵味方に賞賛され、家康も褒めた」という話が有名。義光所用と伝わる、弾痕の残る兜が山形の最上義光歴史館に伝来しており、伝承に実物の裏づけがある珍しい例になっている。
史料 確かめられること
上杉軍が米沢・庄内の二方向から侵攻したこと、長谷堂城が落ちないまま関ヶ原の敗報で上杉軍が撤退したこと、戦後に最上が57万石へ大加増され、上杉が米沢30万石へ減封されたことは記録から確かめられる。個々の武勇の場面は後世の軍記によるものが多く、細部は差し引いて読む。
- 「北の関ヶ原」は本戦より長く戦っていた。関ヶ原本戦は一日で終わったが、出羽では9月上旬から10月まで戦いが続いた。本戦の結果が届くまでの時間差が、この戦いの独特の緊張を生んでいる。
- 長谷堂城は「戦うための城」だった。独立した丘全体が城で、土塁や曲輪の遺構が今も残る。斜面に植えられたシャガ(葉が滑りやすい植物)は敵を登りにくくするためと伝わり、統治の城・山形城との役割分担がよく分かる。
長谷堂から、関ヶ原と東北を読む
- 関ヶ原の勝敗が、戦っていない場所の運命も決めた。長谷堂城は落ちず、上杉軍は負けて撤退したわけではない。それでも上杉が120万石を失ったのは、勝敗が出羽ではなく美濃で決まったから。地方戦の損得は現地の勝ち負けではなく中央の結果で決まる――それがこの年の戦の構造だった。
- 守り切った側が、東北の勝者になった。義光の57万石は、戦場での勝利というより「東軍側で持ちこたえた」ことへの恩賞だった。政宗の加増が小さかったことと並べると、家康が戦後の東北をどう設計したかが見える。
- 上杉の会津時代は3年で終わった。秀吉が会津120万石に置いた上杉は、この戦いのあと米沢30万石へ移された。直江状から始まった1600年の上杉の一年は、家康と一度も直接戦わないまま、家の規模を4分の1にして終わった。