事件ページ / 関ヶ原の直前、家康が会津へ向かった理由

会津征伐

会津征伐は、1600年に徳川家康が会津の上杉景勝を討つために始めた軍事行動です。景勝は会津120万石を治め、神指城の築城も始めていました。家康は景勝を警戒して大軍を率い会津へ向かいますが、途中の小山で石田三成らの挙兵を知り、西へ引き返します。つまり会津征伐は、会津での大決戦ではなく、関ヶ原という全国規模の戦いを始めるきっかけになった出来事です。

1600年徳川家康と上杉景勝小山から西へ引き返す関ヶ原の導火線
会津盆地の地形図
会津盆地の地形図 / Wikimedia Commons / NASA SRTM data / Public domain

会津征伐の要点

家康は「上杉家が従わない」「会津で大きな城をつくっている」と警戒し、会津へ軍を進めます。だが、家康が畿内を離れた間に三成らが挙兵。家康は小山で西へ向きを変え、関ヶ原へ向かいました。

  • 立場:会津の景勝を家康が警戒
  • 注目点:会津では本戦にならない
  • 次につながる:小山から関ヶ原へ
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会津征伐を最初にどう覚える?

会津の大名を討つ計画

家康が、会津120万石の上杉景勝を討つために諸大名を集め、北へ軍を進めた行動です。

理由は一つではない

景勝の上洛問題、直江兼続とのやり取り、城づくりや軍備への警戒など、いくつもの緊張が重なります。

会津で決戦しない

家康軍は小山まで進みますが、西の三成らが動いたため引き返します。家康軍と景勝軍の会津での大決戦は起きません。

関ヶ原へ直結する

家康が西へ戻ることで、諸大名は東軍・西軍のどちらへつくかを迫られます。会津征伐は関ヶ原の前半戦です。

まずは一本の流れで置く

  1. 1598年、上杉景勝が会津120万石へ移る
  2. 1600年、景勝が神指城をつくり始める
  3. 徳川家康が景勝に上洛を求め、緊張が高まる
  4. 家康が諸大名を集め、会津へ出陣する
  5. 小山で石田三成らの挙兵を知る
  6. 家康が西へ引き返す
  7. 関ヶ原の戦い

ざっくり年表

1598
上杉景勝が会津へ移り、120万石を治めます。秀吉はこの年に死去します。
1600年初め
景勝が会津で神指城の築城を始めます。阿賀川の水運も見据えた、新しい領国の中心づくりでした。
1600年春
家康は景勝に上洛を求めます。上杉側とのやり取りを通じて、両者の緊張が強まります。
1600年6月
家康が大坂を出て、上杉景勝を討つため会津へ向かいます。
1600年7月
家康軍は下野国小山まで進み、ここで三成らの挙兵を知ります。
小山の後
家康は会津へ進むのをやめ、西へ引き返して関ヶ原へ向かいます。
1600年9月
関ヶ原で東軍が勝利。翌年、景勝は会津から米沢へ移されます。

人物と場所を置く

上杉景勝会津120万石を治めた大名。家康が征伐の対象にした人物です。
直江兼続景勝の重臣。上洛をめぐる家康側とのやり取りで名前が出る人物です。
徳川家康会津征伐を始めた人物。小山で西の挙兵を知り、進路を変えます。
石田三成家康が会津へ向かう間に、西で挙兵する中心人物の一人です。
小山家康が会津へ向かう途中で軍議を開いたと伝わる場所。西へ戻る判断につながります。
神指城景勝が1600年に築き始めた未完成の城。会津征伐の動きで工事が中断します。

なぜ家康は景勝を警戒した?

会津120万石の大きさ

景勝は北日本に大きな領地を持ち、家康にとって無視できない存在でした。大名の力関係を見ると、会津はただの地方ではありません。

上洛をめぐる対立

家康は景勝に上洛を求めます。上杉側がすぐに従わなかったことが、家康側の警戒を強めます。

神指城の築城

城づくりは領国経営のためにも必要です。一方で、巨大な拠点と軍備を整える景勝を家康が警戒したことは自然です。

豊臣政権の主導権

秀吉の死後、誰が豊臣政権を動かすのかが定まっていませんでした。景勝への対応は、家康の立場そのものを試す問題でもありました。

会津では「戦わなかった」ことが重要

会津征伐という名前から、家康軍と上杉軍が会津で大規模に戦ったように思いやすいです。けれど家康軍は会津へ着く前に西へ引き返します。会津での本格的な決戦が起きなかったことこそが、この出来事の大事なところです。

家康が北へ進んだことで、畿内とその周辺は手薄になります。そこを見て三成らが動き、家康は西へ戻るしかなくなりました。会津征伐は「未完に終わった遠征」ですが、その未完が関ヶ原を生みました。

小山で何が変わった?

家康の目的が変わる

最初の目的は景勝を討つことでした。しかし小山の時点で、家康は西の三成らと向き合う必要が生まれます。

大名の判断が必要になる

家康軍に参加していた大名は、このまま家康に従って西へ戻るのか、自分の領地を守るのかを決める場面になります。

会津は北の戦線になる

景勝は会津に残り、伊達・最上などとの北日本の緊張に備えます。関ヶ原の本戦だけが戦場ではありません。

関ヶ原が全国の戦いになる

会津、伏見、上田、関ヶ原など、別々の場所の動きが同時に重なります。小山での転換がそれらをつなぎます。

ここだけ覚える

  • 会津征伐は、家康が上杉景勝を討つために始めた1600年の軍事行動。
  • 景勝は会津120万石を治め、神指城の築城も始めていた。
  • 家康は会津へ向かう途中、小山で三成らの挙兵を知った。
  • 家康は会津へ進まず西へ引き返し、関ヶ原へ向かった。
  • 会津征伐は、会津での大決戦ではなく関ヶ原の導火線。

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5問クイズ

Q1. 会津征伐で家康が討とうとした大名は?

A. 上杉景勝です。

Q2. 景勝が1600年に築き始めた城は?

A. 神指城です。

Q3. 家康は会津へ向かう途中、どこで西の挙兵を知った?

A. 小山です。

Q4. 家康軍は会津で大決戦をした?

A. いいえ。会津へ着く前に西へ引き返しました。

Q5. 会津征伐の後に起きる大きな戦いは?

A. 関ヶ原の戦いです。

参考にした資料