金ヶ崎の戦いとは?
1570年4月、越前の朝倉義景を攻めて敦賀の金ヶ崎城を落とした織田信長が、浅井長政の離反で挟み撃ちの危機に陥り、京都へ撤退した戦い。この撤退は「金ヶ崎の退き口」と呼ばれる。
越前攻め——上洛命令の無視が、攻める口実になった
1570年の正月、信長は将軍足利義昭の名で諸国の大名に上洛を命じ、従わない者を討つ大義名分を得た。越前の朝倉義景は、この命令を無視する。義昭はかつて朝倉を頼って一乗谷に迎えられたが、義景は義昭を奉じて上洛せず、代わって信長が義昭を将軍に担いだ。両家にはそういう前史がある。4月20日、信長は京都を出て琵琶湖の西岸を北上し、若狭を経て、越前の入口にあたる港町・敦賀へ攻め込んだ。
敦賀の攻略——三つの城が、次々に落ちる
攻略はわずか2日で決まった。落ちた順に並べる。
- 天筒山城——4月25日に落城。敦賀の町を見下ろす山城で、最初の攻撃目標になった。
- 金ヶ崎城——翌26日、降伏して開城。海に突き出した岬の城で、天筒山城の隣にある。この城の名前が、戦い全体の名前になった。
- 疋壇城——峠のふもとも織田の手に。木ノ芽峠のふもとを押さえる城。ここを抜ければ、朝倉の本拠・一乗谷へ続く峠道だった。
長政の離反——海津を塞がれ、挟み撃ちの形に
敦賀を制し、木ノ芽峠を越えて朝倉領の中心部へ攻め入ろうとした矢先、同盟相手・浅井長政が離反したという報せが届いた(離反の理由は諸説あり、浅井・朝倉との決裂で整理しています)。浅井軍は琵琶湖の北西岸・海津に出兵する。挟み撃ちの形は、こうなっていた。
前をふさぐ朝倉 木ノ芽峠の本隊
峠の先には朝倉の本隊が控える。峠周辺の尾根筋には城砦群が置かれており、力押しで越前の中心部へ抜けるのは難しかった。
後ろをふさぐ浅井 海津で退路を断つ
海津は、織田軍が行きに通った道の北の出口にあたり、浅井の領地・江北からは目と鼻の先になる。京都への帰り道は、ここで断たれた。
金ヶ崎の退き口——軍を残し、朽木谷を抜けて京都へ
4月27日、信長は越前攻めを捨てて撤退を決めた。帰り道は選べなかった。若狭の海沿いには敵対する勢力がおり、琵琶湖岸には浅井・朝倉の手が回っている。残されたのは、朽木谷(今の滋賀県高島市朽木。琵琶湖の西の山あいを通る谷道)を抜ける山道だけだった。
信長は殿(退却する軍の最後尾を守る役)を残し、わずかな供回りだけを連れてこの道を抜け、4月30日に京都へ帰り着いた。金ヶ崎を発ってから、3日ほどの脱出行になる。
殿を務めた者たち 秀吉ひとりではない
秀吉が殿を務めて信長を逃がした、という出世譚が有名になる。ただし同時代の書状に残るのは池田勝正や明智光秀らの名で、秀吉ひとりの功として語るのは後世の記録によるところが大きい。
道を開けた男 朽木元綱
朽木谷の領主。当時の高島の武士たちは浅井の勢力下にあり、信長を通す保証はなかったが、元綱は通行を認め、道案内までつけた。朽木家は代々足利将軍家に仕えた家で、将軍義昭の後ろ盾である信長を助けたのではないかと考えられている。
金ヶ崎の戦いが残したもの——浅井との戦争と、語り継がれる退き口
越前攻めは、三つの城を落としながら中断に終わった。
金ヶ崎の戦いの疑問に答える
「金ヶ崎の戦い」と「金ヶ崎の退き口」はどう違う?
同じ事件の前半と後半になる。敦賀の城をめぐる攻防までが「戦い」、浅井の離反を受けた撤退戦が「退き口」と呼ばれる。退き口は退却路・退却戦を指す言葉で、この撤退の有名さから事件全体を「金ヶ崎の退き口」と呼ぶことも多い。
落とした城は、そのあとどうなった?
信長の撤退で、敦賀と三つの城は、ふたたび朝倉方の手に戻った。
金ヶ崎って、今のどこ?
福井県敦賀市になる。敦賀湾に突き出た岬で、敦賀の市街地と港のすぐ北東にあたる。琵琶湖の北から山をひとつ越えた、越前の入口の港町だった。
現地に何か残っている?
金ヶ崎城跡は国指定史跡として敦賀市に残り、隣の天筒山とあわせて歩ける。岬の先端の月見御殿跡が本丸と考えられている場所で、敦賀湾を一望できる。城内では江戸時代に焼けた米(炭化米)が出土していて、信長の朝倉攻めに由来するという説も伝わる。
お市の方が小豆の袋で危機を知らせたって本当?
両端を縛った小豆の袋を信長に送り、挟み撃ちを暗示したという有名な逸話がある。ただし同時代の史料で確かめることはできず、伝承として読むのが適切になる。
家康も一緒に戦っていた?
『信長公記』などが家康の同行を記すが、いずれも後世にまとめられた史料で、同時代の一次史料では確認されていない。若狭の美浜町には家康の陣所と伝わる場所が残るものの、同行そのものを含めて、伝承として読むのが適切になる。