要点
- 信長の背後を突く、琵琶湖西岸からの奇襲だった。1570年9月、信長が摂津で三好・本願寺と戦っている隙に、姉川で敗れたはずの浅井・朝倉軍約3万が琵琶湖の西岸を南下し、京都を突く構えを見せた。迎え撃ったのは、湖西の要地・宇佐山城を守る森可成。可成は城下の坂本で奮戦したが討死し、信長の弟・織田信治も戦死した。それでも宇佐山城は落ちなかった。
- 浅井・朝倉は比叡山に立てこもり、延暦寺は警告を拒んだ。急報を受けた信長は摂津から取って返し、浅井・朝倉軍は比叡山へ上がった。信長は山を包囲し、延暦寺に「味方するか中立なら山門領(延暦寺の領地)を返す、敵に付くなら焼き払う」と通告したが、延暦寺は応じない。両軍は冬まで対陣を続け、消耗していった。
- 和睦で終わったが、翌年の焼き討ちの種が残った。12月、将軍足利義昭と朝廷の仲介で講和が成立し、浅井・朝倉は帰国した。しかし信長には、重臣と弟を殺され、敵をかくまった延暦寺が警告を拒んだ、という事実が残る。9か月後の1571年9月、信長は予告どおり比叡山を焼いた。
姉川から勅命講和まで
- 011570年6月、姉川の戦い
信長・家康連合軍が浅井・朝倉軍を破った。しかし両家の戦力は健在で、戦いは終わっていなかった。
- 028〜9月、信長は摂津へ
三好三人衆の反攻と石山本願寺の参戦(石山合戦の始まり)で、信長は主力を率いて摂津の野田・福島へ出陣した。京都と近江の守りは手薄になる。
- 039月、坂本の戦い——森可成の討死
浅井・朝倉軍が湖西を南下。宇佐山城主の森可成は城を出て坂本でこれを迎え撃ち、奮戦の末に討死した。「攻めの三左」と呼ばれた槍の名手で、のちの森蘭丸の父になる。信長の弟・織田信治も同じ戦いで散った。城兵は宇佐山城を守り抜き、敵の京都侵入を食い止めた。
- 04信長の急反転と比叡山包囲
信長は摂津の陣を畳んで京都経由で坂本へ急行。浅井・朝倉軍は決戦を避けて比叡山に上がった。信長は宇佐山城を本陣に山を囲み、延暦寺に中立か味方を求めて、拒めば焼くと警告した。
- 05膠着の3か月
山上の浅井・朝倉は下りず、織田軍も攻め上がれない。その間も各地で反信長の動きが続き、信長は複数の戦線を同時に支える苦しい持久戦を強いられた。雪で朝倉軍の帰国路が閉ざされる前に、というあせりは両軍にあった。
- 0612月、講和——そして翌年へ
義昭と朝廷の仲介で講和が成立し、浅井・朝倉は越前・北近江へ帰った。信長はこの3か月で「包囲される怖さ」を骨身に刻み、翌1571年、警告どおり比叡山を焼き、湖西の抑えとして光秀に坂本城を築かせることになる。
信長最大の危機だったのか
志賀の陣から、何が見えるのか
- 焼き討ちは「突発的な暴挙」ではなく「予告された報復」になった。重臣と弟を殺され、警告を拒まれ、3か月苦しめられた——この経緯を挟むと、翌年の焼き討ちは怒りにまかせた蛮行ではなく、通告済みの処罰として実行されたことが分かる。比叡山焼き討ちを読む前提が、この対陣にある。
- 戦線は一つではなく、つながっていた。浅井・朝倉が動けたのは、本願寺と三好が信長の主力を摂津に釘付けにしたからになる。志賀の陣は単独の戦いではなく、石山合戦の開始と連動した包囲網の共同作戦だった。信長がのちに敵を各個撃破の順番で潰していくのは、この経験の裏返しといえる。
- 宇佐山城の「落ちなかった」が、歴史を分けた。城主を失いながら城兵が持ちこたえたことで、浅井・朝倉は京都に入れず、時間を失った。派手な合戦のない防衛戦が戦局を決めた例として、城の価値がよく分かる一件になる。