志賀の陣とは?
1570年9月、浅井・朝倉軍約3万が琵琶湖の西岸を南下して坂本で織田方を破り、京都の手前・醍醐・山科まで迫ったが、急ぎ戻った信長を前に比叡山へ上がり、3か月のにらみ合いの末、和睦で終わった戦い。
朝倉の出陣——義景みずから3万で、琵琶湖の西岸を南下
1570年9月13日、朝倉義景がみずから2万余を率いて一乗谷を出陣した。浅井軍と合流し、約3万で琵琶湖の西岸を南下する。6月の姉川の戦いで敗れてから3か月後の攻勢で、これが可能だった理由は3つある。
理由1 信長は摂津にいた
8月に三好三人衆が四国から摂津へ上陸し、信長は主力を率いて野田・福島を攻めていた。9月には隣の石山本願寺も参戦する(石山合戦の始まり)。本拠の岐阜からも京都からも離れた摂津で、織田の主力は動けなくなっていた。
理由2 湖西は延暦寺の土地
進路にあたる琵琶湖の西岸には延暦寺の領地が広がり、織田の領地ではなかった。坂本は延暦寺の門前町(大きな寺社の門前に発達した町)で、馬借(運送業者)が行き交う、湖西で一番にぎわう町だった。浅井・朝倉にとっては通りやすい道になる。
理由3 織田の備えは一城だけ
信長がこの方面に置いていた備えは、坂本を見下ろす山に新しく築いた宇佐山城と、城将の森可成だけだった。約3万の軍を、この一城で受ける形になった。
坂本の戦い——森可成と、信長の弟が討たれる
9月20日、越前勢の先鋒(大将は、姉川でも朝倉軍を率いた朝倉景健)が坂本に到達した。宇佐山城主の森可成は城にこもらず、城の下の坂本の町へ出て迎え撃つ。奮戦の末に可成は討死し、ともに戦った信長の弟・織田信治も倒れた。
城主を失った宇佐山城は、しかし落ちなかった。城兵が攻撃をはね返し、浅井・朝倉軍は城の攻略をあきらめて素通りする。敵の城を背後に残したまま、京都へ向かうことになった。
討死 森可成
宇佐山城主。「攻めの三左」と呼ばれた槍の名手で、信長が湖西の守りを任せた古参の重臣になる。本能寺で信長と共に死ぬ森蘭丸は、可成の息子。
討死 織田信治
信長の弟。坂本の戦いで森可成とともに討死した。志賀の陣で信長は、重臣と弟を同じ日に失ったことになる。
京都へ迫る——大津を焼き、醍醐・山科に火を放つ
坂本を抜けた浅井・朝倉軍は大津を焼き、国境の山を越えて近江国から山城国へ入った。京都の手前にあたる醍醐・山科まで進み、火を放つ。市中には入っていないが、都の東の入口まで敵の大軍が来たことになる。
このときの京都の緊張は、記録に残っている。京都の大寺社や町人たちは、いち早く越前勢と接触して禁制(「ここは攻撃しない」と約束してもらう保護の証文)を手に入れた。戦火が市中へ及ぶことを、都は本気で警戒していたことになる。
信長の帰還——浅井・朝倉は比叡山へ上がる
急報を受けた信長は、攻めかけていた野田・福島をあきらめ、摂津の陣を畳んで京都へ急行し、9月23日に帰着した。攻めていた戦線を放り出してまで、戻る必要のある事態だった。
信長が近江へ進むと、浅井・朝倉軍は戦わずに比叡山へ上がった。決戦を避けた理由は、3つ考えられる。
理由1 野戦では分が悪い
坂本で破ったのは留守部隊で、信長の本隊ではない。3か月前の姉川の戦いでは、その本隊に野戦で敗れている。平地での決戦は、同じ負けを繰り返しかねなかった。
理由2 深入りした位置
醍醐・山科は京都の目前まで伸び切った位置になる。信長の本隊に回り込まれれば、退路を断たれて帰れなくなるおそれがあった。
理由3 比叡山は味方の山
攻め上るのが難しい地形のうえ、麓の坂本ごと延暦寺の勢力圏で、延暦寺は浅井・朝倉の側に立った。逃げ込む先として、これ以上の場所はなかった。
比叡山包囲——京都への道の取り合いが、3か月続く
大津と京都を結ぶ街道は、山中越と白鳥越の2本になる。両軍はこの2本の道を1本ずつ押さえて、向かい合った。
山の上 浅井・朝倉
山上の峰から麓の坂本まで、山のかたまり全体に布陣した。壺笠山(比叡山の峰のひとつ)の陣で白鳥越を押さえる。味方の延暦寺の懐で、攻め上がられる心配はほぼなかった。
山の下 織田
宇佐山城を本陣に、山を囲んだ。開幕で攻められた城が、今度は信長の司令部になる。山中越を押さえ、壺笠山の陣とは直線約3kmで向かい合った。攻め上がれば大損害が避けられない。
信長の打った手は、すべて塞がれた
- 延暦寺への通告——拒否。「味方するか中立なら山門領(延暦寺の領地)を返す。敵に付くなら焼き払う」。延暦寺は応じず、浅井・朝倉の側に立ち続けた。
- 義景への和睦申し入れ——拒否。山上の戦いで兵力を失うことを恐れた信長は、義景に和睦を持ちかけた。義景は受けず、対陣を続けた。
- 湖上からの締め上げ——失敗。湖西の港町・堅田の地侍が信長方に通じたのを受けて、織田方は堅田に部隊を入れた。しかし11月26日、逆に越前勢に攻められて大将の坂井政尚が戦死し、堅田は朝倉軍の占領下に入った(堅田の戦い)。
長引くほど、両軍とも苦しくなった
朝倉の事情 雪が帰り道を閉ざす
越前への帰国路は、冬になると雪で閉ざされる。当時の合戦には、真冬は戦いを休み、正月は本拠で迎えるという習慣もあった。山の上で年を越す選択は取りにくい。
信長の事情 敵は近江だけではない
摂津では三好三人衆と本願寺、伊勢では一向一揆が動いている。主力が近江に釘付けのままでは、ほかの戦線を支えられない。
和睦成立——全戦線まとめての休戦
転機は、堅田の戦いの2日後に来た。将軍足利義昭が、和議の斡旋のため近江へ向かう。和議に難色を示していた延暦寺も、山門領の安堵(領地をそのまま認めること)を保証されて矛を収めた。12月13日、信長と義景の和議が成立する。
止まったのは、近江の戦線だけではない。同じ年末、信長は各地の敵とまとめて手を打った。
- 近江——浅井・朝倉と和睦。12月15日、朝倉軍は越前へ帰り、浅井軍も北近江へ戻った。
- 摂津——三好三人衆と和睦。9月に投げ出したままだった戦線も、いったん手打ちになった。
- 大坂——本願寺との戦いも停止。始まったばかりの石山合戦も、ここで一度止まる。
志賀の陣が残したもの——焼き討ちの原因と、湖西の作り替え
勝者のいない引き分けで、休戦は解決ではなかった。浅井・朝倉も、延暦寺も、本願寺も健在のまま、戦いは翌年に持ち越される。信長にとっては金ヶ崎の退却と並ぶ危機で、信長包囲網が実際に機能した数少ない局面と語られる一戦になる。
志賀の陣の疑問に答える
「志賀」って、どこのこと?
戦場になった土地、近江国滋賀郡のことになる。琵琶湖の西岸、坂本から比叡山の麓にかけての一帯で、今の滋賀県の名前の元になった郡になる。「陣」は大坂の陣と同じく、特定の出陣・攻囲につく事件名の型になる。
現地に何か残っている?
宇佐山城跡と壺笠山城跡が、それぞれの山に残る。森可成の墓は、坂本の来迎寺にある。