人物ページ / 生年不詳〜1592年か93年・豊臣家臣団(もと徳川家康の重臣)

石川数正いしかわかずまさ

石川数正とは?

徳川家康の人質時代からともに過ごし、岡崎城を預かって西三河の武士をまとめた重臣でしたが、1585年に大坂へ出奔しゅっぽんして豊臣秀吉の家臣となり、1590年に信濃松本(今の長野県松本市)の城主として松本城と城下町の整備に着手した武将です。

家康の人質生活をともに送り、独立後は岡崎城(今の愛知県岡崎市)の城代と西三河の旗頭はたがしらを務めます。
1585年11月13日、一族を連れて岡崎から大坂へ出奔し、秀吉の配下に入ります。
和泉国で10万石を得て、1590年、小笠原氏(それまでの松本城主)のあとの松本8万石に入ります。
息子の康長やすながとともに、小笠原貞慶さだよしが手をつけた城と城下町の整備を進めます。
1592年か翌93年、朝鮮出兵(文禄の役)に出兵中、滞在先で没します。

家康の重臣——人質時代をともにし、岡崎城の城代と西三河の旗頭を務めた

石川数正は、徳川家康の家臣です。出奔のあった1585年当時、家康は浜松城(今の静岡県浜松市)を居城としていました。家康の生まれた城である岡崎城(今の愛知県岡崎市)は、数正に任せていました。

人質時代 人質生活を、ともに送った

家康は松平家の跡取りとして今川家の人質になり、少年期をそこで過ごしました。数正はその人質生活をともに送り、独立前から仕えていた家臣です。

岡崎城の城代 西三河の旗頭を務めた

数正は城代(城主に代わって城を預かる役)として岡崎城を守り、西三河の旗頭(西三河の武士たちを一つの軍にまとめる役)を務めました。1585年の出奔まで、その立場にありました。

出奔——秀吉の人質要求を家康が断った翌月、一族を連れて大坂へ

1584年の小牧・長久手の戦いのあと、家康は秀吉と和議を結び、その条件として秀吉へ人質を出していました。翌1585年、秀吉は7月11日に関白となり、家康への攻勢を強めます。

  • 9月、秀吉が家康に新たな人質を求める。家康は10月、諸将を集めた評定(会議)で、新たな人質は出さないと決めました。
  • 11月13日、数正が出奔する。一族を連れて大坂へ向かい、秀吉の配下に入りました。なぜ去ったのかは、史料では確定できません。

数正は、徳川の軍制(軍の編成の決まり)にも通じた家臣でした。この出奔のあと、家康は徳川の軍制を武田流(武田家の軍のやり方)に改めたと言われます。

和泉国から松本へ——10万石の秀吉家臣が、小笠原氏のあとの8万石に入った

数正が秀吉の家臣として過ごしていた間、松本では、それまでの城主だった小笠原貞慶が城と城下町の整備に手をつけていました。その小笠原氏は、古河(今の茨城県古河市)へ移ります。

和泉国 秀吉の家臣として10万石を与えられた

出奔のあと、数正は和泉国(今の大阪府南西部)で10万石を与えられました。1590年に松本へ移るまで、秀吉の家臣としての所領はここでした。

1590年 小笠原氏のあとに、松本8万石で入った

秀吉は1590年、小笠原氏が去った松本へ数正を入れました。松本城は、甲府城・高島城・上田城・小諸城・沼田城とともに、関東へ移った家康を監視する江戸包囲網の一つといわれる城です。石高は8万石で、10万石から減った理由は史料からは分かりません。

城と城下町の整備——貞慶の工事を父子で引き継いだ

工事の中身は、松本藩の公式記録『信府統記しんぷとうき』が、父の代と子の代に分けて伝えています。数正が手をつけ、康長が建物を建てていく順です。

数正の代 ただちに改修に着手し、二の曲輪に慰み所をつくった

数正は1590年に松本に入ると、ただちに改修に着手しました。その仕事は「二の曲輪くるわに慰み所なぐさみどころをつくり城普請ふしんを催す」と伝わります。曲輪は城の中の区画、慰み所はくつろぐための場所、城普請は城の土木工事のことです。

康長の代 天守を建て、総堀を広げ、門と塀と屋敷を整えた

康長は「父の企てた城普請を継ぎ天守を建て」たと伝わります。総堀そうぼり(一番外側の堀)を広げて石垣を築き、黒門・太鼓門に門楼(門の上の櫓)を建て、塀を掛け直し、曲輪の内と外に士屋敷(武士の屋敷)を建てました。

出兵中の死——松本に入ってまもなく、文禄の役の途中で没した

数正は、秀吉の朝鮮出兵(文禄の役)に出兵しました。松本の城の工事は、まだ途中でした。

没年 1592年か、翌1593年か

没年は文禄元年(1592年)とも文禄2年(1593年)とも伝わり、1年の幅があります。松本に入ってから、2年か3年のことでした。

没地 「出兵中の滞在先」とだけ伝わる

数正が亡くなった場所は「出兵中の滞在先」とだけ伝わり、地名は分かりません。松本の城主は、息子の康長に替わりました。

数正が残したもの——国宝の天守、康長の改易、豊臣方に付いた次男

数正のあとの石川氏は、康長の代で松本を失います。

国宝の天守 父子の創建とされる三棟が、現存する

大天守・乾小天守いぬいこてんしゅ・渡櫓わたりやぐらの三棟は数正・康長父子の創建とされ、松本城天守は国宝に指定されています。建築は数正の死後、康長の代に急ピッチで進み、三棟は1593〜94年(文禄2〜3年)の築造とされます。この三棟を1594〜99年の造営とみる説もあります。

康長の改易 関ヶ原で徳川方に加わったのち、大久保長安事件に連座した

跡を継いだ康長の石川氏は、1600年の関ヶ原の戦いで徳川方に加わりました。しかし1613年、康長は大久保長安事件(家康の家臣・長安の死後、一族が不正の疑いで処分された事件)に連座れんざ(関係者として罰を受けること)し、改易かいえき(領地の没収)になりました。松本城主を約20年務めた末の、御家断絶おいえだんぜつでした。

次男・康勝 改易の翌年、大坂冬の陣で豊臣方に加わった

数正の次男・康勝やすかつは、1614年の大坂冬の陣で豊臣方に加わりました。兄の康長が改易された翌年のことで、なぜ豊臣方に付いたのかは、史料では分かりません。

石川数正の疑問に答える

なぜ数正は、家康のもとを出奔した?

史料では確定できません。秀吉の人質要求を家康が断った翌月に、一族を連れて大坂へ向かった、という経過だけが分かっています。

松本城の天守は、数正が建てた?

建てたのは、息子の康長です。数正は1590年に松本へ入ってただちに改修に着手しましたが、1592年か翌93年に出兵先で没します。天守の建築はそのあと康長の代に急ピッチで進み、大天守・乾小天守・渡櫓の三棟は1593〜94年の築造とされます。

改易のあとの康長と、豊臣方に付いた康勝はどうなった?

どちらも、その後の行方は史料では分かりません。松本藩主としての石川家は、数正・康長の2代で終わっています。

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参考にした資料