大久保長安とは?
徳川家康の鉱山を任された家臣で、佐渡の相川(今の新潟県佐渡市)に奉行所と鉱山町を築きました。
石見銀山の監督——1600年、家康が鉱山の専門家に任せた
1600年、徳川家康は石見銀山の支配権を得た。このとき家康が銀山の監督に据えたのが、最も信頼できる部下の一人とされた大久保長安である。長安は、鉱業に熟練した管理者であり専門家として知られていた人物である。
長安は銀の産出が豊富な坑道を複数開き、銀山最大の繁栄期の基礎を築いたと評価されている。その坑道の一つは、今も本人の名を冠して大久保間歩(間歩は鉱山の坑道)と呼ばれている。
大久保間歩 石見銀山で最大の坑道
大久保間歩は石見銀山で最大の坑道で、1896年まで採掘が続いた。当初はノミやハンマーで掘られ、その跡が本坑の壁面の滑らかな部分に残る。1800年代後半にはトロッコ用に拡張され、より荒々しい掘削の跡も見える。採掘は1500年代後半に始まったとされる一方、この坑道を長安が開いたと書く資料もある。
昇進の順序 石見の実績が、佐渡と伊豆につながった
家康は長安の働きに感銘を受け、のちに佐渡島や伊豆の金鉱山など、幕府で最も貴金属が豊富な鉱山の多くで監督者に引き上げた。石見で結果を出したから次の鉱山を任された、という順序が資料の側にも書かれている。
佐渡代官——相川に奉行所を建て、台地の上に町を引いた
1603年、長安は徳川家康から佐渡代官に任じられた。在職は1603年から、死ぬ1613年までの10年である。同じ1603(慶長8)年、長安は相川に陣屋を建てた。これがのちの佐渡奉行所で、佐渡の鉱山経営と行政の中心を担う。長安はここに、石見銀山で使っていた技術や経営方法を相川鶴子金銀山へ持ち込んだ。
長安の手は坑道の外にも及んだ。鉱山への道路と、金銀の積み出し港である小木港を整備し、海に面した台地の上に計画的な町を築いた。長安の代に金銀の産出量はそれまでで一番になり、相川は大変なにぎわいを見せた。
佐渡奉行所跡 1603年の陣屋が、復元されて残る
1603(慶長8)年に長安が建てた陣屋は、のちの佐渡奉行所として佐渡の鉱山経営と行政の中心になった。跡地は2000(平成12)年に安政年間当時の姿へ復元され、国史跡・重要文化的景観になっている。
相川上町 金銀山と奉行所を結ぶ通り
長安が台地上に築いた鉱山町が相川上町である。金銀山と奉行所を結ぶ通り沿いには、江戸時代の町家や、近代の鉱山労働者の社宅など、鉱山のあゆみを物語る各時代の建物が立ち並ぶ。重要文化的景観に選ばれている。
道と港 鉱山への道路と小木港を整備
長安は鉱山への道路と、金銀の積み出し港である小木港を整えた。相川で生産された金の一部は小判に加工され、銀とともに小木港から江戸へ運ばれ、幕府はこれを政治や外国との貿易の資金に使った。
兼任の体制——甲斐、石見、伊豆、佐渡を一人で掛け持ちした
長安は佐渡代官のほかに、甲斐奉行・石見奉行・伊豆奉行なども兼ねていた。甲斐は今の山梨県、石見は島根県の西部、伊豆は静岡県の東部で、いずれも佐渡から遠い。徳川家の直轄地と鉱山の要所を、一人の家臣が掛け持ちで受け持つ体制だった。
技術が移った理由 同じ人が、両方を見ていた
長安は石見奉行と佐渡代官を同じ人物として兼ねていた。掛け持ちは負担であると同時に、一方の鉱山で身につけた方法をもう一方へ運ぶ経路にもなった。
甲斐奉行 兼ねていたことだけが分かる
長安が甲斐奉行を兼ねていたことは資料で確認できる。ただし甲斐でどのような仕事をしたのか、いつからいつまで務めたのかについては、今回参照した資料には見当たらない。長安の名が具体的な仕事とともに残っているのは、今回確認できた範囲では石見・佐渡と、関東の八王子である。
八王子宿——山の城下町を、平地の宿場へ移した
長安は徳川氏の代官頭でもあった。代官頭として関東で残した仕事が、八王子宿の整備である。北条氏照が八王子城下に築いていた城下町、横山・八日市・幡の三宿と領民を、今の八王子市の中心市街地にあたる場所へ移し、新たに八王子宿として整えた。北条氏の城の足元にあった町が、そのまま徳川の宿場へ組み替えられた。
移された三宿 城下町が、そっくり動いた
横山・八日市・幡の三宿は、もともと八王子城の城下に置かれた町だった。長安はこの三宿と領民をまとめて移し、八王子宿として整備した。江戸時代の八王子十五宿は、現在の八王子市の中心市街地の基盤になっている。
宿の西方 甲州口の守りが置かれた
八王子宿の西方、今の千人町にあたる場所には、武田氏の旧臣などからなる千人同心が置かれた。千人同心は、徳川家康の江戸入府にともない、当初は甲州との国境警備や、八王子城落城後の地域の治安回復にあたった。
死後の嫌疑——横領と謀反、7人の息子と部下の自害
大久保長安は1545年に生まれ、1613年に69歳で世を去った。死去した時点で、実際の埋葬地というよりも、業績をたたえる記念碑にあたる立派な墓がすでに複数建てられていた。
ところが死後、長安は横領と謀反の嫌疑をかけられる。7人の息子と部下は自害を余儀なくされ、財産はすべて押収された。
かけられた嫌疑 横領と、謀反
嫌疑の中身は、財産の横領と、謀反である。ただし、この告発は政治的な動機であった可能性があるとも書かれており、理由を一つに絞る書き方はされていない。処分の記録が残っている一方で、告発が事実にもとづくものだったかどうかは、公的資料の側でも断定されていない。
一族に及んだ範囲 息子7人と、部下
処分は長安個人にとどまらなかった。7人の息子と部下が自害を余儀なくされ、財産はすべて押収された。石見・佐渡・伊豆の鉱山と直轄地を掛け持ちしていた家が、当主の死のあとにまとめて取りつぶされた。
そのあと——1794年の墓石と、102人の佐渡奉行
嫌疑がかけられたあと、生前に建てられていた記念碑は取り壊され、あるいは見向きもされなくなった。180年ほどのちの1794年、石見銀山の人々が新しい墓石を立て、この墓石は現在も残っている。
長安が手をつけた佐渡の鉱山経営も、一代で完結したわけではない。江戸時代を通じて、幕府から佐渡に派遣された奉行は102人に達した。
産出量の時間軸 40トンと1,800トンは江戸時代の累計
相川金銀山では江戸時代を通じて金がおよそ40トン、銀がおよそ1,800トン生産され、日本最大の金銀山だった。この数字は江戸時代全体の累計で、長安が佐渡代官を務めた10年間の実績とは別のものである。長安の代には産出量がそれまでで一番になったと記録されている。
後任の奉行 荻原重秀と石谷清昌
荻原重秀は1690年から1712年まで、石谷清昌は1756年から1759年まで佐渡奉行を務め、湧き水を海へ流す南沢疎水道の掘削や、製錬業者を奉行所内の「寄勝場」に集める再編を進めた。長安は、その最初期の一人にあたる。
大久保長安の疑問に答える
なぜ一人で石見・佐渡・伊豆の鉱山を任された?
順序としては、石見銀山での働きが先にある。1600年に銀山の監督を任された長安は坑道を複数開き、銀山最大の繁栄期の基礎を築いたと評価された。その実績を受けて、家康はのちに佐渡や伊豆の鉱山監督にも長安を引き上げた。複数を任せたのは、一つで結果が出たあとである。
死後の処分は、何が理由だった?
横領と謀反の嫌疑がかけられ、一族と家臣も処分を受けた。ただし、この告発は政治的な動機であった可能性があるとも書かれており、理由を一つに絞る書き方はされていない。処分が実際に行われたことと、告発の中身が事実だったかどうかは、分けて読む必要がある。
佐渡の金銀山は、長安一人の功績?
長安の代に産出量がそれまでで一番になったことは書かれているが、鉱山経営はそこで終わっていない。佐渡奉行は江戸時代を通じて102人に達し、長安のあとも後任の奉行たちが引き継いだ。
大久保間歩には入れる?
大久保間歩は石見銀山で最大の坑道で、1896年まで採掘が続いた。坑道内は湿った環境のため、レールを留めていた19世紀の犬釘が錆びずに残り、枕木も腐らずに残っている。4月から11月の金・土・日・祝日に開催されるガイドツアーで、こうした坑道の中を見学することができる。
参考にした資料
- 新潟県「相川金銀山」(1603年の佐渡代官任命・奉行在職1603〜1613年・甲斐奉行と石見奉行と伊豆奉行の兼任・石見銀山の技術と経営方法の導入・1603年の陣屋建設と佐渡奉行所跡の復元・相川上町・鉱山への道路と小木港・長安の代に産出量が最高になったこと・小判の加工と江戸への輸送・江戸時代を通じての産出量・佐渡奉行102人・荻原重秀と南沢疎水道・石谷清昌と寄勝場)
- 国土交通省 文化財多言語解説整備事業データベース「大久保長安墓所」(1545〜1613年の生没年・1600年の石見銀山監督への任命・鉱業の専門家としての評価・大久保間歩など坑道の開拓と繁栄期の基礎・佐渡と伊豆への昇進の経緯・69歳での死去・生前に建てられた複数の墓・死後の横領と謀反の嫌疑・7人の息子と部下の自害と財産の押収・政治的な動機であった可能性・1794年の墓石)
- 八王子市「其の五 八王子宿と千人同心」(代官頭・大久保長安が横山・八日市・幡の三宿と領民を今の中心市街地へ移して八王子宿として整備したこと・八王子十五宿が現在の中心市街地の基盤であること・宿の西方に置かれた千人同心の構成と役目)
- 石見銀山世界遺産センター「大久保間歩紹介」(大久保間歩が石見銀山最大の坑道であること・1500年代後半から1896年までの採掘・ノミやハンマーの掘削跡とトロッコ用の拡張・坑道に残る犬釘と枕木・ガイドツアーの開催時期)