義元の死後、三つの危機が重なる
1560年、今川義元が桶狭間の戦いで戦死すると、氏真が家督を継ぎました。しかし今川家は、単に当主を交代すれば立て直せる状況ではありませんでした。三河では松平元康が岡崎を拠点に自立へ動き、遠江では有力な国衆の離反や反乱への対応が続きます。父の代に広がった領国を、氏真は守る側として引き受けることになります。
三河
松平元康が今川家から距離を取り、のちの徳川家康として三河をまとめ始めます。
遠江
今川方への反発や国衆の動揺が起こり、領国の西側を安定させにくくなりました。
駿河
今川家の本拠であり続けましたが、武田との関係が崩れると直接の脅威にさらされます。
「弱い当主」だけでは見えないこと
氏真は、今川家の衰退と結び付けて語られがちです。ただし、義元戦死後もただちに領国が消えたわけではありません。遠江の反乱を抑え、駿河・遠江の支配を数年にわたって維持しようとしたことは、当時の感状などからも確認できます。氏真の時代を見ると、戦国大名の力は当主個人だけで決まるものではなく、国衆・家臣団・周辺大名との関係によって支えられていたことが分かります。
駿河を失い、掛川城へ
1568年、武田信玄が駿河へ侵攻すると、今川方は大きく動揺します。氏真は駿河を離れ、重臣・朝比奈泰朝が守る掛川城へ入りました。さらに徳川家康が遠江へ進出し、掛川城は今川・徳川・武田の勢力が交わる要地になります。
掛川城での攻防は半年に及び、1569年に開城しました。ここで今川氏は駿河・遠江を領国として支配する戦国大名ではなくなります。ただし氏真本人は滅ぼされたわけではなく、北条氏を頼り、のちには徳川家康のもとで生き残りました。
領国を失った後の氏真
掛川開城後、氏真は北条氏を頼り、のちに徳川家康に仕えました。今川家は、氏親・義元の時代のように駿河・遠江を支配する大名ではなくなります。一方で氏真の系統は江戸時代に高家として続きます。氏真の生涯は、領国を築いた祖父・今川氏親、それを大きく広げた義元、そして戦国の勢力図が変わる中で家を残した氏真という、三代の違いを考える入口になります。
桶狭間から掛川開城まで、九年の流れ
領国の崩壊を、氏真一人の能力で説明しない
氏真の時代には、父と有力家臣を一度に失った直後から、三河の自立、遠江国衆の動揺、武田・徳川の同時侵攻が重なりました。父・義元が築いた広域支配は、各地域の国衆と城を結ぶ関係の上にあり、中心が揺れると離反が連鎖しやすい構造でした。氏真の判断には批判される点があっても、三国の喪失を「蹴鞠好きの弱い当主」だけで説明するのは不十分です。