朝比奈氏と掛川城
掛川城は、今川氏が遠江へ進出する過程で家臣の朝比奈氏に命じて築かせたとされる城です。当時の文書では「懸河」「懸川」と書かれることが多く、「掛川」の表記は時代が下ってからのものです。
泰朝は「懸河」の朱印を使い、掛川城の城代として周辺を治めました。今川氏の家臣で自分の印を使った武将は泰朝だけとされ、宿老としての重さがうかがえます。越後の上杉氏との外交にも関わりました。
武田氏の駿河侵攻が迫る緊迫した時期、泰朝はこの印を押した文書で、天竜川沿いの奥山郷から犬居の天野氏のもとへ運ぶ兵粮を、森や二俣などどこでも通すよう命じています。非常時だったためかもしれませんが、泰朝の権限は天野・奥山という国衆の領域や、天竜川・太田川にかかわる広い範囲に及んでいたと考えられます。
掛川城で今川家を支える
1568年、武田信玄が駿河へ侵攻すると、氏真は朝比奈泰朝が守る掛川城へ入ります。徳川家康は遠江へ進出して掛川城を包囲し、今川・朝比奈軍は半年近く抵抗しました。
籠城中の1569年2月、城内の今川一門が浜名湖東岸の堀江城主・大沢氏へ送った手紙には、詳しいことは泰朝らが伝えると書かれています。1569年5月、和議によって氏真は掛川城を家康に明け渡し、北条氏を頼って小田原へ移りました。泰朝のページから読むと、今川家の領国喪失を当主だけでなく家臣団の側から追えます。
参考にした資料
- 掛川市講演会資料「懸川城の朝比奈氏・今川氏・徳川氏」(大石泰史、2023年)(泰朝が「懸河」の朱印を使い懸河城代として領域を治めたこと、上杉氏との外交への関与、駿府を逃れた氏真の保護、今川氏の家臣で印を使ったのは泰朝のみであること、奥山郷から犬居への兵粮の通過を命じた印判状、永禄12年2月の大沢氏宛の手紙、同年5月の城の明け渡しを記載)
- 掛川市「家康が遠江に侵攻、今川家は滅亡(1568から1569)」(1568年の信玄の駿河侵攻、氏真の朝比奈氏の掛川城への籠城、家康による包囲と今川・朝比奈軍の半年近い抵抗、和議と氏真の小田原落ちを記載)
- 掛川市「掛川城の歴史」(今川氏が遠江進出のため朝比奈氏に命じて掛川城を築かせたこと、1568年からの半年にわたる攻防で家康が城を手に入れたことを記載)