引馬城主 / 遠江国衆 / 1565年没

飯尾連龍

飯尾連龍は、現在の浜松市中心部にあった引馬城を拠点とし、今川氏の遠江支配を支えた領主です。桶狭間後には今川氏真と対立し、一度は城攻めをしのいだものの、駿府へ呼び出されて殺害されました。連龍の死は、今川氏が遠江の有力者を統制しようとした処置でありながら、結果として徳川家康の遠江進出を進める一因にもなりました。

引馬城今川氏の遠江支配氏真と対立浜松城以前
浜松城以前の地域拠点

飯尾氏は三代にわたって引馬城を治めた

今川氏親が1517年に遠江を平定すると、掛川の朝比奈氏などと同じく、各地の要所へ一門・有力家臣を配置しました。浜松市の歴史的風致維持向上計画では、引馬城には飯尾賢連が入り、乗連、連龍と三代続いたと整理されています。連龍は突然現れた反乱者ではなく、今川氏による遠江支配の一角を長く担った家の当主でした。

軍事の拠点

引馬城は東海道と浜名湖周辺を押さえる位置にあり、遠江西部を守る今川方の重要拠点でした。

地域支配の拠点

飯尾乗連・連龍が寺院へ出した古文書が残り、城主が地域の寺社や人びとと関係を結んだことが分かります。

文化交流の拠点

飯尾氏のもとには連歌師や高僧が訪れ、日記に引馬の様子を残しました。城は合戦の施設だけではありませんでした。

桶狭間後の遠江

家康との接近を疑われ、氏真と戦う

1560年の桶狭間の戦いで今川義元が戦死すると、松平元康は三河で自立を進めました。浜松市の計画書は、連龍も勢力を弱めた今川氏を見限り、元康と通じようとしたと説明しています。これを知った今川氏真は永禄5年(1562)に引馬城を攻めましたが、落とせず、いったん和睦しました。

この対立は「忠臣だった連龍が急に裏切った」という話ではありません。連龍には引馬の所領と家臣を守る責任があり、氏真には離反が連鎖する前に遠江を統制する必要がありました。大名家の求心力が落ちた時、地域領主が次の後ろ盾を探し、大名側がそれを反逆とみなす構図です。

1560年
桶狭間で義元が戦死。元康が三河で今川氏から離れ、遠江の国衆にも動揺が広がります。
1562年
氏真が引馬城を攻撃。城を落とせず、飯尾方と和睦します。
1565年
氏真は連龍を駿府へ呼び寄せ、殺害します。城攻めで従わせられなかった相手を、交渉の場で排除した形になりました。
1568年
家康が遠江へ侵攻し、引馬城を接収。今川氏の西遠江支配は大きく後退します。
処罰の逆効果

連龍を倒しても、引馬の安定は戻らなかった

氏真から見れば、連龍の排除は遠江支配を守るための処置でした。しかし、浜松市の計画書は、残された家臣団が動揺し、むしろ家康の遠江侵攻が前進したと評価しています。有力な現地領主を失わせても、その土地を治める人員と信頼関係まで自動的に今川方へ戻るわけではなかったからです。

井伊直親も同じ時期に離反を疑われ、今川方に討たれました。飯尾氏と井伊氏の処罰を並べると、氏真が何もせず領国を失ったのではなく、統制を回復しようとして強い手段を取り、その手段が地域の不安をさらに深めた面が見えてきます。

引馬から浜松へ

家康は飯尾氏の城を捨てず、支配拠点として使った

家康は1568年から遠江へ進み、引馬城を押さえました。1570年には岡崎からこの地へ本拠を移し、城域を西側へ広げて浜松城と改称します。現在見られる浜松城の姿は後世の改修を重ねたものですが、その出発点には飯尾氏が整えた引馬城がありました。

浜松市の発掘調査では、旧引馬城域で土塁に囲まれた平坦部や、かわらけを用いた武家儀礼の痕跡が確認されています。連龍のページを浜松城の「前史」として読むと、家康が何もない場所へ新城を築いたのではなく、今川期の城と地域支配を引き継いで再編したことが分かります。

分かること・伝わったこと

飯尾連龍を読む時の三つの注意

  • 名前は「連龍」「連竜」とも表記されます。 同じ人物を指し、自治体資料でも字体が分かれます。
  • 駿府で殺害されたという大筋と、細かな最期の場面は分けて見ます。 呼び出しの名目や殺害方法などは、後世の記録によって語り方が異なります。
  • 妻・お田鶴の方が城を守った話は有名ですが、人物関係や落城までの細部には伝承が重なります。 1565年の連龍殺害、1568年の徳川軍による引馬城接収という確認しやすい年代の骨格を先に押さえるのが安全です。

一方、飯尾乗連・連龍が向宿受龍庵(現在の寿量院)へ発給した古文書は浜松市指定文化財として伝わります。連龍は「反乱して殺された人」だけでなく、文書を出して地域を治めた実在の城主として捉える必要があります。

飯尾連龍が重要な三つの理由

  • 桶狭間後、武田・徳川の本格侵攻より前から今川氏の遠江支配が揺れていたと分かる。
  • 国衆の処罰が、必ずしも大名の支配回復につながらなかったことを具体的に見られる。
  • 家康の浜松城が、飯尾氏の引馬城と今川期の地域基盤を引き継いで成立したと分かる。

参考にした資料