要点
- 相手は三河の本願寺系寺院。本證寺・上宮寺・勝鬘寺の「三河三か寺」を中心に、門徒が立ち上がった。
- きっかけは寺の特権をめぐる対立。寺院が持っていた「領主の役人が立ち入れない」特権を、家康方が侵したことが発端とされる。三河統一を進める家康と、自立を保ちたい寺院の衝突だった。
- 家臣団が二つに割れた。家臣の多くが門徒であり、本多正信、夏目吉信、渡辺守綱らが一揆方についた。主君への忠義と信仰の板挟みになった家臣もいた。
- 和議で収め、寺院を追放した。1564年に和議が成立。家康は一揆に加わった家臣を赦免する一方、寺院を破却し、本願寺教団を三河から追放した。
- 徳川家臣団の結束の原点になった。帰参した家臣はその後、家康を支える中核となった。分裂を乗り越えた経験が、主従の結びつきを強めたといわれる。
三河一向一揆は、どう進んだのか
- 01背景:三河統一の途中
桶狭間の戦いのあと岡崎に戻った家康は、今川家から自立して三河の統一を進めていました。そのなかで、寺院が持つ特権や領地は、領国を一つにまとめるうえでの壁になっていました。
- 021563年:一揆の発生
家康方が寺院の境内や蔵に手を出したことをきっかけに、三河三か寺を中心とする門徒が蜂起しました。家臣の一部や、家康に反発する国衆もこれに加わります。
- 03家臣団の分裂
門徒である家臣の多くが一揆方につき、松平家臣どうしが戦う事態になりました。一方で、門徒でありながら家康方に残った家臣もおり、信仰と主従のどちらをとるかが一人ひとりに問われました。
- 041564年:和議と寺院の追放
半年あまりの戦いののち和議が成立します。家康は一揆に加わった家臣を赦免しましたが、寺院に対しては厳しく、堂舎を破却して本願寺教団を三河から追放しました。三河で本願寺の寺院が再興を許されるのは、約20年後のことです。
この一揆が徳川家に残したもの
- 領国の一元化が進んだ。寺院の特権を取り除いたことで、三河は家康のもとで一つにまとまりやすくなった。
- 家臣団が「選び直された」。一揆方から戻った家臣を赦免したことで、主従の関係は改めて結び直された。本多正信はのちに家康の側近として幕府の基礎づくりを担う。
- 宗教勢力との向き合い方を学んだ。信長の石山本願寺との戦いに先立つ経験として、家康は門徒の力と、それを抑える難しさを知った。