関東管領とは?
関東管領とは、鎌倉公方を補佐した室町幕府の役職のことです。上杉氏が代々務めましたが、関東管領の任命権は幕府にあったため、鎌倉公方としばしば衝突しました。戦国時代には北条氏に押されて衰え、1561年に上杉憲政が越後の長尾景虎(上杉謙信)へ職を譲ります。
関東執事——鎌倉公方の補佐役として始まり、上杉氏が四家に分かれた
1336年に足利尊氏が幕府を開くと、関東を治めるために鎌倉に役所「鎌倉府」が置かれ、長官の鎌倉公方には尊氏の子が就いた。その補佐役として置かれたのが関東執事で、のちに関東管領と呼ばれるようになる。初代鎌倉公方・足利基氏が鎌倉に下ると、上杉憲顕が執事として関東の政務を取り仕切った。
仕組み 任命するのは公方ではなく、幕府だった
関東管領は鎌倉公方の下に置かれた役だが、任命権は幕府・将軍にあった。公方の補佐役であると同時に、幕府から任じられて関東に置かれた役でもある。公方と幕府の間がこじれたとき、この役は幕府の側に立つことになる。
上杉四家 鎌倉の屋敷の名で分かれた
上杉氏は室町時代のうちに、鎌倉に構えた屋敷の場所の名から、山内・犬懸・扇谷・宅間の四家に分かれた。憲顕の家が山内上杉家で、鎌倉の山内には今も「管領屋敷」の地名が残る。
山内の独占——禅秀の乱で犬懸が滅び、関東管領は山内の家になった
1416年(応永23年)、前の関東管領で犬懸上杉家の上杉禅秀(氏憲)が、鎌倉公方・足利持氏に反乱を起こした。犬懸上杉家は、山内上杉家と敵対する関係にあった。
禅秀の乱 一時は鎌倉府を制圧した
禅秀の軍は一時鎌倉府を制圧したが、幕府の命を受けた軍に敗れ、禅秀は自害した。犬懸上杉家はこの敗北で滅び、四家のうち関東管領を出せる家は山内だけになった。
四家のその後 山内が宗家、扇谷が次ぐ家に
以後、山内上杉家が上杉氏の宗家として関東管領を独占し、上野を本拠に武蔵・伊豆にも勢力を持った。実務は家宰(当主を支える筆頭家臣)の長尾氏が担い、上野・武蔵の守護代も兼ねた。扇谷上杉家は山内に次ぐ家として続き、のちに家宰・太田道灌の働きで山内と並ぶ勢力に育っていく。宅間上杉家は相模の永谷(今の横浜市)に拠り、小さな家として残った。
公方との衝突——補佐役と主君が、二度戦った
4代・足利持氏の代から、鎌倉公方は幕府との対立を深めていた。幕府から任命される補佐役は、そのたびに幕府の側に立つことになる。
1438年 永享の乱——憲実が平井城へ退いた
幕府と対立を深める鎌倉公方・足利持氏を諫めた関東管領・上杉憲実は、持氏とも決裂して身の危険を感じ、鎌倉から本拠の上野・平井城に退いた。平井城はこのとき築かれたと伝わる。幕府は憲実を支持して兵を送り、翌1439年、持氏は自害した。
1454年 享徳の乱——憲忠が殺され、28年の内戦に
持氏の遺児・足利成氏が鎌倉公方に復帰すると、今度は成氏が関東管領・上杉憲忠を殺害した。上杉方は幕府に訴え、28年に及ぶ内戦になる。上杉方は武蔵の五十子に陣を構え、古河に移った成氏と18年にわたって対峙した。
衰退——内紛で削られ、河越で敗れ、平井城を失った
享徳の乱のさなかから、関東管領の力は内側から削られていく。そこへ、伊豆から興った北条氏が南から迫った。
内紛 家宰の反乱と、山内対扇谷
1476年、家宰の職を継げなかった長尾景春が反乱を起こし(長尾景春の乱)、鎮圧に働いた扇谷上杉家の家宰・太田道灌の活躍で、扇谷上杉家が山内と並ぶ勢力に育つ。1487年からは山内と扇谷が関東管領の座をめぐって数十年争い(長享の乱)、永正の乱では山内の当主・顕定が越後で討死した。そのあとも家督争いが続き、関東管領は勢力を少しずつ削られながら、上野と武蔵の一部を保っていた。
北条の北上 1537年、扇谷の本拠・河越城を奪われた
伊豆・相模を平定した北条氏は、武蔵へ北上する。1537年、北条氏綱は扇谷上杉家の居城だった河越城を攻略した。上杉憲政の代の関東管領は、南に北条、東に古河公方、北に越後の長尾、西に信濃を平定した武田と、四方を囲まれる形になっていた。
1546年 河越合戦——8万の連合軍が、8千に敗れた
関東管領・上杉憲政は、対立していた古河公方や扇谷上杉家と手を結び、奪われた河越城を取り戻すため、約8万と伝わる大軍で包囲した。北条氏康は8千の精鋭で奇襲をかけ、連合軍は壊滅。扇谷上杉の当主・朝定は討死し、憲政は3千余の兵を失って平井城へ退いた。「河越夜戦」と呼ばれてきたが、夜戦ではなかったと考えられるようになっている。
1552年 平井城落城——憲政は越後へ逃れた
翌1547年、信濃へ出兵して武田晴信(信玄)に大敗。武蔵・上野の家臣が次々と北条氏に付き、側近の馬廻衆まで離れていく。1552年3月、平井城は落城し、憲政は関東を捨てて、もとは家臣筋で外戚でもある越後の長尾景虎を頼った。
謙信へ——最後の関東管領と、途絶えた山内上杉家
越後に逃れて9年、1561年、憲政は景虎を嗣子として関東管領の職と、山内上杉家の家督・系図・重宝を譲った。将軍・足利義輝の内諾も得て、景虎は上杉政虎——のちの上杉謙信と名乗る。
関東管領の疑問に答える
京都の管領と、何が違う?
仕える相手と担い手が違う。京都の管領は将軍の補佐役で、細川・斯波・畠山の三家から将軍が一人を選んだ。関東管領は鎌倉公方の補佐役で、上杉氏が世襲した。名前と役割の型は同じで、鎌倉府が京都の幕府の仕組みを写したものになる。
上杉謙信は、なぜ関東管領になれた?
職だけでなく、山内上杉家そのものを譲られたからになる。もとの名は長尾景虎で、上杉氏の家宰を務めた長尾家の出身。越後に逃れてきた憲政を保護し、1561年に嗣子として家督・系図・重宝ごと職を受け継いで、上杉政虎と名乗った。
現地に何か残っている?
本拠だった平井城跡(群馬県藤岡市)は住宅街の中に土塁が残り、公園として整備されている。憲政が晩年を過ごした御館の跡は上越市の御館公園になっている。鎌倉の山内には、山内上杉家の屋敷にちなむ「管領屋敷」の地名が残る。
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参考にした資料
- 水資源機構 群馬用水「上野国・戦国時代その1 関東の名家・山内上杉家」(関東執事の名と任命権・山内の名の由来・禅秀の乱後の独占・永享の乱・河越合戦・平井城落城・謙信への譲渡・憲政の最期・歴代の関東管領)
- 水資源機構 群馬用水「上野国・戦国時代その2 関東管領上杉家家宰・長尾一族」(家宰の長尾氏・守護代・景春の乱・五十子の対陣18年)
- 横浜市港南区「永谷に住んだ宅間の殿様」(上杉四家が鎌倉の屋敷の名で分かれたこと)
- 横浜市旭区「中丸山古戦場跡」(1416年の上杉禅秀の乱)
- 藤岡市「関東管領 上杉氏」(関東管領の設置・憲実と持氏の決裂)
- 藤岡市「平井城跡」(憲実の退去と平井城)
- 埼玉県立文書館「室町時代の文書を読む」(1336年の幕府開設と鎌倉府の設置・幕府が憲実を支持したこと・享徳の乱)
- 本庄市「中世・近世(本庄地域)」(関東管領山内上杉が五十子陣を構えたこと)
- 川越市「河越合戦について」(1545〜46年の経過・兵数・「夜戦ではなかった」とする見方)
- 上越市公式観光情報サイト「年表で見る上杉謙信公の生涯」(1552年の憲政の越後逃亡・1561年の相続と関東管領就任)
- 上越市公式観光情報サイト「御館公園(御館跡)」(御館の由来と御館の乱)
- 厚木市「No.26 上杉謙信(長尾景虎)」(将軍義輝の内諾を得て職を引き継いだこと)