事件・合戦ページ / 謙信の死後、上杉家を二つに割った1578年から1579年

御館の乱おたてのらん

御館の乱は、1578年に上杉謙信うえすぎ けんしんが急死した後、二人の養子である上杉景勝うえすぎ かげかつと上杉景虎うえすぎ かげとらが上杉家の後継を争った内乱です。景勝は越後の上田長尾氏(越後長尾氏の分家)につながり、景虎は小田原北条氏の子として謙信の養子になっていました。どちらにも上杉家を継ぐ理由があり、越後の家臣や国衆くにしゅう、北条・武田など周辺の大名まで巻き込む争いになります。景虎の拠点・御館(今の新潟県上越市)を失い、鮫ヶ尾城さめがおじょう(今の新潟県妙高市)で自害すると景勝が当主となり、直江兼続なおえ かねつぐとともに会津・米沢へ続く上杉家の時代が始まります。

1578 - 1579上杉家の後継争い御館と鮫ヶ尾城景勝と景虎
鮫ヶ尾城跡の遠景
鮫ヶ尾城跡遠景 / Wikimedia Commons / 柴錬アワー / CC BY-SA 4.0

御館の乱とは?

  • 1578年、謙信の死後に二人の養子が後継を争った。上田長尾氏出身の景勝と、北条氏出身の景虎が上杉家の家督をめぐって戦った。
  • 景虎は御館に拠った。前関東管領・上杉憲政のりまさの屋敷である御館を拠点に、景勝の春日山城(同じ上越市)と向かい合った。
  • 武田勝頼が景勝についた。北条氏の弟である景虎を攻めるため、景勝は勝頼に領地と金を贈って味方につけ、甲越同盟が結ばれた。
  • 景虎は鮫ヶ尾城で自害した。1579年、御館が落ち、逃れた景虎は鮫ヶ尾城で自害。景勝が当主となった。
  • 上杉氏は弱体化した。内戦で多くの家臣と国衆を失い、織田軍の北陸侵攻を許した。武田氏と北条氏の同盟も破れた。

御館の乱を最初にどう覚える?

謙信の死後に起きる

1578年、上杉謙信が後継を明確に定めないまま亡くなります。ここから争いが始まります。

景勝と景虎が争う

景勝も景虎も謙信の養子です。一人が正しく、もう一人が無関係だった争いではありません。

越後が割れる

家臣や国衆は、どちらの側につくかを選びます。上杉家の中だけで終わらない、領国全体の内乱です。

景勝が勝って次の時代へ

景虎の自害で景勝が当主になります。直江兼続を重臣に置き、のちの会津・米沢へつながります。

まずは一本の流れで置く

  1. 謙信が景勝と景虎を養子にする
  2. 1578年、謙信が急死する
  3. 景勝が春日山城、景虎が御館を拠点にして対立する
  4. 越後の家臣・国衆、北条・武田など周辺の大名が関わる
  5. 景虎が御館から救援を求める
  6. 1579年、景勝側が御館を攻略する
  7. 景虎が鮫ヶ尾城へ退き、自害する
  8. 景勝が上杉家を継ぎ、直江兼続なおえ かねつぐと領国を立て直す

ざっくり年表

1570年代
北条氏康ほうじょう うじやすの子・景虎が越後に入り、上杉謙信の養子になります。景勝も謙信の養子です。
1578年3月
上杉謙信が急死。正式な後継をめぐり、景勝と景虎が対立します。
1578年
景勝は春日山城、景虎は御館を拠点にします。御館を拠点にしたことが、乱の名前の由来です。
1578 - 79
越後の家臣や国衆が分かれ、北条・武田など周辺の大名も関わります。景虎は御館から救援を求める書状を出します。
1579年
景勝側が御館を攻略。景虎は鮫ヶ尾城へ退き、自害します。
その後
景勝が上杉家の当主となり、兼続を重臣として越後の再建を進めます。

人物と場所を置く

上杉謙信うえすぎ けんしん二人の養子を残し、後継を明確に定めないまま1578年に死去します。
上杉景勝うえすぎ かげかつ謙信の甥で養子。春日山城を拠点に、御館の乱を勝ち抜きます。
上杉景虎うえすぎ かげとら北条氏康の子で謙信の養子。御館を拠点に景勝と争います。
直江兼続なおえ かねつぐ景勝側で御館の乱を支える重臣。勝利後の上杉家を動かす中心になります。
武田勝頼たけだ かつより甲斐の大名。御館の乱をめぐる越後の情勢に関わり、景勝側との関係も戦局に影響します。
北条氏景虎の実家。関東の大名として、景虎を通じて越後の後継争いに深く関わります。
御館景虎が拠点にした場所。上杉憲政うえすぎ のりまさの居館として建てられ、謙信も政庁として使用しました。
鮫ヶ尾城景虎が最後に退いた山城。御館の乱の勝敗が決まる場所になります。

二人とも、なぜ後継候補だった?

景勝: 謙信の甥

景勝は謙信の姉の子で、越後の上田長尾氏につながります。上杉家の中に近い血縁と地域の基盤がありました。

景虎: 北条の子で養子

景虎は北条氏康の子ですが、越後へ入り謙信の養子になっています。北条とのつながりを持つ上杉家の一員でした。

養子は仮の立場ではない

戦国時代の養子は、家を継ぐための大切な仕組みです。二人とも養子だったからこそ、後継の候補になりえました。

謙信が決めなかった問題

どちらを正式な後継にするかが定まらなかったことで、謙信の死後に家臣たちが選択を迫られます。

御館の乱を、二人の決闘にしない

御館の乱は、景勝と景虎が一対一で戦った出来事ではありません。越後の家臣や国衆がそれぞれの事情で両者に分かれ、城、兵糧、道、周辺の大名との関係までが勝敗を左右します。

景虎は北条につながり、景勝は越後の上田長尾氏につながる。武田勝頼の動きも、越後の争いに影響しました。誰が「強い」かだけでなく、誰がどの地域とどの家臣に支えられるかを考えると、御館の乱が見えやすくなります。

御館と鮫ヶ尾城を並べる

御館: 政治の中心に近い拠点

御館は関東管領・上杉憲政の居館として建てられ、謙信も政庁として使いました。景虎は上杉家の中心に近い場所で戦います。

鮫ヶ尾城: 最後の山城

御館を失った景虎が退いた城です。越後と信濃の境に近く、御館の乱の最後の局面になります。

御館: 助けを待つ場所

景虎の書状には、景勝の攻撃で苦しくなった中、御館から救援を求める姿が見えます。

鮫ヶ尾城: 戦いの痕跡が残る場所

鮫ヶ尾城跡では焼けた遺物などが出土し、当時の軍事的緊張と最後の戦いを考える手がかりになります。

景勝が勝った後、すぐ安定した?

景勝が御館の乱に勝ったからといって、上杉家がすぐ安定したわけではありません。内乱で家臣団は傷つき、越後の中でも後始末が必要でした。周辺には織田、武田、北条などの大名がいて、景勝は外の圧力にも向き合うことになります。

だから景勝は、御館の乱を勝ち抜いた後に兼続を重く用い、領国を立て直していきます。御館の乱は景勝の物語の終わりではなく、会津120万石、会津征伐、関ヶ原、米沢へ向かう長い物語の最初の難所です。

ここだけ覚える

  • 御館の乱は、1578年から1579年に起きた上杉家の後継争い。
  • 謙信の養子である景勝と景虎が、どちらも後継候補として争った。
  • 越後の家臣・国衆だけでなく、北条・武田など周辺大名も関わった。
  • 景虎は御館を拠点に戦ったが、1579年に鮫ヶ尾城で自害した。
  • 景勝が上杉家を継ぎ、直江兼続とともに後の会津・米沢へ進む。

御館の乱についてのよくある疑問

なぜ謙信は後継者を決めていなかったのか?

謙信は実子がなく、景勝と景虎の二人を養子にしていました。どちらを後継とするか明確に定めないまま急死したため、争いになりました。謙信が景虎を後継と考えていたとする見方もありますが、確かめられません。

武田勝頼はなぜ景勝についたのか?

景虎の実家・北条氏は武田氏の同盟相手で、当初勝頼は景虎を助けるために出陣しました。しかし景勝が領地の割譲と多額の金を申し出たため、勝頼は景勝と和睦して引き返しました。この選択で北条氏との同盟が破れ、武田氏は孤立を深めました。

直江兼続は御館の乱でどう動いたのか?

兼続はこのとき20歳ほどで、景勝の側近として乱に関わったとみられますが、具体的な働きは史料で確かめにくいとされます。乱の後、景勝の重臣だった直江信綱が殺害され、兼続が直江家を継いで景勝の右腕になりました。

御館の乱のあと、上杉氏はどうなったのか?

景勝は当主となりましたが、内戦で家臣団が割れ、新発田重家の反乱(1581〜87年)も起きました。織田軍は北陸から越中へ攻め込み、1582年には上杉氏は滅亡の危機に陥りましたが、本能寺の変で救われました。その後、景勝は秀吉に従い、五大老の一人となります。

5問クイズ

Q1. 御館の乱が始まる直接のきっかけは?

A. 上杉謙信が後継を明確に定めないまま亡くなったことです。

Q2. 御館の乱で争った二人の養子は?

A. 上杉景勝と上杉景虎です。

Q3. 景虎が拠点にした、乱の名前の由来になる場所は?

A. 御館です。

Q4. 景虎が最後に退いた城は?

A. 鮫ヶ尾城です。

Q5. 御館の乱の後に上杉家を継いだ人物は?

A. 上杉景勝です。

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参考にした資料