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四職ししき

四職とは?

四職とは、室町幕府で侍所さむらいどころ(京都の警察と裁判にあたる役所)の長官(頭人とうにん)を出した赤松あかまつ一色いっしき京極きょうごく山名やまなの四家を指す家格のことです。管領を出す細川・斯波しば・畠山の三家を三管領さんかんれいと呼び、この二つを合わせて「三管四職」と総称します。といっても、役職が四つあったわけではありません。侍所の頭人の席は一度に一つで、そこに主にこの四家が代わる代わる就きました。

1381年、一色詮範あきのりが侍所の頭人になり、一色氏が四職家に数えられる始まりです。赤松義則よしのりが1388年から頭人を務め、その前後には京極氏も頭人の席に就きます。山名も頭人を出す家として並び、四家がそろいます。
管領は細川・斯波・畠山の三家から、侍所の頭人は赤松・一色・京極・山名の四家から出て、七つの家が幕府を支える守護の中心にいました。検断と呼ばれた訴えの裁きだけは、管領も口を挟めない四家の領分でした。
1391年、一族で11か国の守護を持ち「六分の一殿」と呼ばれた山名氏清うじきよが京都に攻め入り、敗死します。功のあった一色氏は丹後、赤松氏は美作の守護を得ます。
1440年、将軍・足利義教よしのりが一色義貫よしつらを殺させ、翌1441年、義教は赤松の屋敷で殺されます。赤松は幕府軍に討たれ、播磨は山名持豊もちとよのものになります。
1467年、赤松と京極は東軍、山名と一色は西軍につきます。丹後では一色が守護職を一度失い、播磨では赤松政則まさのりが三国を取り戻します。
1523年に京極が浅井に実権を奪われ、1580年に但馬の山名が秀吉に滅ぼされ、1582年に一色が滅び、1585年に赤松が播磨を離れます。頭人を出す四家は、これでそろって守護の家ではなくなります。

侍所と四家——一つしかない頭人の席に、四家が交代で就いた

侍所の仕事を、当時の言葉で検断けんだんという。その長官が頭人で、所司しょしとも呼ぶ。1381年4月までに、若狭・三河の守護だった一色詮範がこの頭人に任じられ、一色氏が四職家に数えられる始まりになった。

仕事 京都の一揆を、頭人が撃退した

1428年、侍所の頭人だった赤松満祐みつすけは、京都の周辺で起きた正長の土一揆を撃退した。満祐は播磨・備前・美作三国の守護でもあり、翌1429年には本国の播磨で起きた土一揆も鎮めている。

兼帯 頭人が山城の守護も兼ねた

1416年までに頭人になった一色義範よしのり(義貫)は、1418年10月、頭人のまま山城やましろ(京都のある国)の守護にも任じられた。このとき山城の守護代は、300余騎を率いてよど(今の京都市伏見区)に入った。

四家と、その守護国

守護国
赤松氏 播磨を本国に、備前・美作の守護も兼ねた三国の家。
一色氏 若狭・三河・丹後と尾張の知多郡。海に面した国を多く持った足利氏の分家。
京極氏 近江を本国に、飛騨・出雲・隠岐の守護も持った家。
山名氏 但馬・因幡・伯耆など山陰を中心に、一族で11か国の守護を持った家。

三管四職——管領を出す三家と、侍所の頭人を出す四家

管領は細川・斯波・畠山の三家から将軍が一人を選び、侍所の頭人は赤松・一色・京極・山名の四家から出た。三管領も四職も役職の名ではなく、その役に就く家柄の呼び名である。

三管領 政務——管領が将軍の命令を守護に伝えた

管領は、将軍の意思を受けて各地の守護に命令を伝え、幕府の政務全体を取り仕切った。1376年に細川頼之よりゆきが信濃の守護に宛てた文書は、土地を不当に押さえた者を退けて正当な相手に引き渡せという命令だった。

四職 検断——頭人が京都の訴えを裁いた

侍所の頭人は、京都で起きた争いを取り締まり、持ち込まれた訴えを裁いた。この検断の裁定には、管領も将軍も原則として口を挟めなかった。

明徳の乱——六分の一殿の山名が削られ、一色と赤松が国を得た

四家の中で、14世紀の終わりに最も大きかったのは山名氏である。山名氏清のとき、一族で全国66か国のうち11か国の守護を持ち、「六分の一殿ろくぶんのいちどの」と呼ばれた。「六分一衆」とも呼ぶ。3代将軍・足利義満よしみつは、この山名の力を削ろうと一族を挑発した。この乱で国が動いたのは、四家のうち山名・一色・赤松の三家である。

1391年12月 内野の合戦——氏清が京都に攻め入り、敗死した

1391年12月、それまで北朝方だった山名氏清は、幕府に背いて南朝なんちょう(京都の朝廷と対立していた、もう一つの朝廷)に降伏を申し入れ、その味方として兵を挙げ、京都に攻め入った。内野うちの(京都の大内裏の跡地)での戦いで敗れ、氏清は48歳で戦死した。山名氏は守護の国を減らされ、但馬などを一族で分けて持つ家になった。

恩賞 一色は丹後、赤松は美作を得た

同じ戦いで、一色詮範は子の満範みつのりとともに参陣して氏清の首を取り、翌1392年、満範が山名の旧領だった丹後の守護になった。一色氏はこれから約200年、丹後を治める。赤松義則も弟を失いながら戦い、1392年正月に美作の守護を得て、播磨・備前と合わせた三国の守護になった。

嘉吉の変——将軍義教が一色を殺させ、赤松に殺され、播磨は山名へ移った

6代将軍・足利義教は、有力な守護を次々に押さえ込み、「万人恐怖」と言われた。その矛先は四職の家にも向き、1440年から1441年にかけて、一色・赤松・山名の三家の立場が続けざまに入れ替わる。義教が殺された事件が嘉吉の変かきつのへんで、幕府の体制はこれを境に揺らぎはじめる。

1440年5月 一色義貫の謀殺——若狭と三河を失った

1440年5月、大和に出陣していた一色義貫は、義教の密命を受けた武田信栄のぶひで(安芸の武田氏の当主。甲斐の武田とは別の家)に朝食に招かれ、陣所で襲われて自害した。一色氏の国のうち若狭と知多郡は武田信栄に、三河は細川持常もちつねに与えられ、丹後だけが甥の一色教親のりちかに認められて、家の断絶は免れた。

1441年6月 義教の殺害——赤松の屋敷で将軍が討たれた

1441年6月、将軍・足利義教は、赤松満祐の子・教康のりやすに屋敷へ招かれ、宴の席で殺された。満祐・教康父子は播磨に下り、幕府軍に追われる。9月2日に坂本城(播磨の守護所、今の姫路市書写)から城山城きのやまじょう(播磨の山城)に移った父子は、10日ほどで自害した。将軍を討った赤松の本家は、ここで一度滅びる。

1441年閏9月 播磨は山名持豊へ——四職の中で国が動いた

1441年閏9月、赤松の討伐で功のあった山名持豊(のちの宗全そうぜん)が播磨の守護になり、山名氏は赤松の旧領だった播磨・備前・美作を手に入れた。1444年には、赤松の一族・満政みつまさが持っていた三郡も没収している。明徳の乱で削られた山名は、嘉吉の変で赤松の国を得て力を取り戻した。

応仁の乱——赤松・京極は東軍、山名・一色は西軍に分かれた

将軍・足利義政よしまさの跡継ぎをめぐって細川勝元かつもとと山名宗全が対立し、1467年に応仁の乱が始まった。宗全は西軍の主将で、四職の一家がそのまま一方の大将になった戦いでもある。宗全は但馬の此隅山城このすみやまじょうに2万6千余騎を集めて京都へ上ったと伝わる。京都の合戦は5月に始まり、戦線はやがて四家の領国にも広がった。

東軍 赤松と京極——京極勢が敗れ、翌日赤松勢が救援した

1467年5月26日、西軍についた斯波しば義廉よしかどの軍が、東軍の細川勝久かつひさの屋敷を攻めた。東軍は京極勢を援軍に送ったが、斯波方の朝倉孝景たかかげらに敗走させられた。翌日、赤松勢が救援に駆けつけると、戦い疲れた斯波義廉しば よしかどの軍は廬山寺ろざんじ(京都の寺)の西まで追い立てられ、戦いはいったん小休止になった。東軍についた赤松の当主・政則は、嘉吉の変のあと加賀半国の守護として再興を許されており、この乱で播磨・備前・美作を回復した。

西軍 山名と一色——宗全が主将、一色の兵は相国寺を攻めた

1467年10月、西軍の主将・山名宗全は、東軍が拠る相国寺しょうこくじ(京都の禅寺)を取り返そうと、畠山・大内・土岐・六角・一色などの兵で攻め、数時間の激戦になった。若狭では山名方の一色の牢人ろうにん(主家を離れた武士)が蜂起し、信栄の弟で若狭の守護を継いだ武田信賢のぶかたが国に戻って追い払った。

丹後 一色は守護職を一度失い、5年後に取り戻した

1469年4月、幕府が西軍の一色義直よしなおから丹後の守護職を取り上げて東軍の武田信賢に与えると、武田の部将たちが丹後に攻め入った。山名持豊は但馬から援軍を送り、武田勢は山名の援軍が陣取った山を攻めて敗れた。その後は武田・細川勢が丹後をほぼ制圧したまま、5年後の1474年閏5月ごろに守護職は一色氏に返された。幕府が返した理由は、史料では確定できない。

戦国の四家——浅井に奪われ、秀吉に滅ぼされ、細川に討たれ、播磨を離れ、頭人を出す家が残らなかった

応仁の乱のあと、幕府は全国への影響力を失った。四家の領国でも、家臣や守護代が守護と並ぶ力を持つようになる。京極の家臣だった浅井氏、赤松の重臣だった浦上うらがみ氏がそれにあたる。

京極氏 1523年に近江の実権を浅井へ渡し、1568年に信長に従った

1523年、京極氏は当主の高清たかきよの跡目をめぐって一族が割れ、家中が二つに分かれて戦った。勝った側の家臣・浅井亮政すけまさが北近江の実権を握り、1525年ごろに小谷城を築いた。以後の北近江は、浅井氏三代の国になる。近江の外では、出雲・隠岐を守護代の尼子あまご氏が応仁の乱後に握り、飛騨も1582年に、もとは京極の家来だった三木氏が制した。1568年、京極高吉たかよしは北近江の守護職としての家柄を捨てて織田信長おだ のぶながに従った。

山名氏 1580年、但馬の守護家は秀吉に滅ぼされ、翌年鳥取城も落ちた

1569年8月、織田軍が但馬に攻め入り、但馬の守護・山名祐豊すけとよの本城・此隅山城が落ちた。祐豊は堺へ逃れたのち信長の許しを得て帰国し、1574年に有子山城ありこやまじょう(但馬・出石の山城)を築く。1575年に毛利氏と同盟したが、1577年から羽柴秀吉はしば ひでよしが但馬に攻め入り、1580年4月から5月に但馬一国を制圧した。但馬の守護家はここで終わった。因幡では、1540年代から但馬の山名と争っていた山名豊国とよくにが1573年に鳥取城を本城にしたが、1580年5月に秀吉へ降伏し、毛利方についた重臣たちに城を追われて国を失った。鳥取城が落ちたのは翌1581年10月である。

一色氏 1582年、最後の当主が宮津城で殺され、丹後の一色は滅んだ

1516年8月から、丹後の守護・一色義清よしきよは実権を失い、重臣と守護代が衝突する内乱が始まった。若狭の武田氏はその前後から何度も丹後へ攻め入ったが、国は一色氏の手に残った。内乱がいつ収まり、この60年余りの丹後を誰が動かしていたのかは分からない。1579年、織田信長は明智光秀あけち みつひでと細川藤孝・忠興ただおき父子に丹波・丹後の平定を命じた。翌1580年、丹後に入った細川藤孝は、娘を最後の当主・一色五郎に嫁がせて和睦した。ところが1582年6月の本能寺の変のあと、一色氏は光秀の側につき、細川氏は羽柴秀吉の側について、両家は再び対立した。同年9月、細川方は宮津城(丹後の細川の本城)内の重臣屋敷で開いた宴に五郎を呼び出して殺し、一色氏は滅んだ。

赤松氏 1585年、則房が阿波へ移され、置塩城は廃城になった

1469年、赤松政則は播磨守護に戻るのに合わせて置塩城おきしおじょう(今の姫路市にあった山城)を築いたと伝わり、以後、義村よしむら晴政はるまさ義祐よしすけ則房のりふさの本城になった。応仁の乱のあとも、赤松氏は但馬の山名氏や重臣の浦上氏との争いを繰り返し、天文年間(1532〜55年)には尼子氏の進出で一時淡路へ逃れている。備前は浦上氏、さらに宇喜多氏に奪われた。1580年に播磨を平定した羽柴秀吉は翌年、置塩城などの破却を命じ、1585年に則房が阿波へ移されるまでに置塩城は廃城になった。

頭人の席 1585年までに、頭人を出す家がなくなった

侍所の頭人の席に就いた四つの家は、1523年から1585年までの間に、そろって守護の家でなくなった。最後に頭人になったのが誰で、その席がいつから空いたままになったのかは、史料では確定できない。

四職の疑問に答える

山名宗全は、なぜ西軍についた?

宗全自身の理由を書いた資料は確かめられない。分かっていることは二つある。一つは将軍家の後継で、足利義政あしかが よしまさの妻・日野富子とみこは、実子・義尚よしひさの後見を宗全に頼み、義政の弟・義視よしみを推す細川勝元ほそかわ かつもとと対立した。もう一つは領国で、山名は嘉吉の変のあと赤松の旧領・播磨・備前・美作を持っていたが、その赤松の政則は東軍につき、乱の中で三国を回復した。

将軍義教を殺したのは、赤松満祐?

記録では、実行したのは子の教康である。当時の貴族の日記には、教康が関東征伐の祝宴と称して将軍を自邸に招いたと書かれ、満祐は前年から蟄居していて、その時刻には別の宿所にいた。「赤松満祐が義教を殺した」という言い方は、当主の名で家の行動をまとめて呼んだものだ。

四家のほかに、侍所の頭人になった家はある?

ある。赤松義則が頭人を務めた1388年前後は、四家に入らない土岐氏も頭人になっており、席は土岐・京極・一色と短い期間で代わっていた。四職は、そのうち代々頭人を出すようになった四家の呼び名だ。

現地に何が残っている?

京都市上京区の山名町には「山名宗全邸址」の石標が立ち、町の名も宗全の屋敷にちなむ。姫路市の置塩城跡は播磨最大の山城で、発掘で屋敷跡や櫓に似た建物の跡が見つかっている。豊岡市出石町の此隅山城跡と有子山城跡は国の史跡で、宮津市の旧宮津城本丸の入り口近くには、一色氏を祀る一色稲荷がある。米原市の京極氏遺跡(京極氏城館跡・弥高寺跡)も国の史跡である。15世紀末に高清が北近江の政治の拠点とした京極氏館は、この史跡の一部にあたる。

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参考にした資料