四職とは?
四職とは、室町幕府で侍所(京都の警察と裁判にあたる役所)の長官(頭人)を出した赤松・一色・京極・山名の四家を指す家格のことです。管領を出す細川・斯波・畠山の三家を三管領と呼び、この二つを合わせて「三管四職」と総称します。といっても、役職が四つあったわけではありません。侍所の頭人の席は一度に一つで、そこに主にこの四家が代わる代わる就きました。
侍所と四家——一つしかない頭人の席に、四家が交代で就いた
侍所の仕事を、当時の言葉で検断という。その長官が頭人で、所司とも呼ぶ。1381年4月までに、若狭・三河の守護だった一色詮範がこの頭人に任じられ、一色氏が四職家に数えられる始まりになった。
仕事 京都の一揆を、頭人が撃退した
1428年、侍所の頭人だった赤松満祐は、京都の周辺で起きた正長の土一揆を撃退した。満祐は播磨・備前・美作三国の守護でもあり、翌1429年には本国の播磨で起きた土一揆も鎮めている。
兼帯 頭人が山城の守護も兼ねた
1416年までに頭人になった一色義範(義貫)は、1418年10月、頭人のまま山城(京都のある国)の守護にも任じられた。このとき山城の守護代は、300余騎を率いて淀(今の京都市伏見区)に入った。
四家と、その守護国
| 家 | 守護国 |
|---|---|
| 赤松氏 | 播磨を本国に、備前・美作の守護も兼ねた三国の家。 |
| 一色氏 | 若狭・三河・丹後と尾張の知多郡。海に面した国を多く持った足利氏の分家。 |
| 京極氏 | 近江を本国に、飛騨・出雲・隠岐の守護も持った家。 |
| 山名氏 | 但馬・因幡・伯耆など山陰を中心に、一族で11か国の守護を持った家。 |
三管四職——管領を出す三家と、侍所の頭人を出す四家
管領は細川・斯波・畠山の三家から将軍が一人を選び、侍所の頭人は赤松・一色・京極・山名の四家から出た。三管領も四職も役職の名ではなく、その役に就く家柄の呼び名である。
三管領 政務——管領が将軍の命令を守護に伝えた
管領は、将軍の意思を受けて各地の守護に命令を伝え、幕府の政務全体を取り仕切った。1376年に細川頼之が信濃の守護に宛てた文書は、土地を不当に押さえた者を退けて正当な相手に引き渡せという命令だった。
四職 検断——頭人が京都の訴えを裁いた
侍所の頭人は、京都で起きた争いを取り締まり、持ち込まれた訴えを裁いた。この検断の裁定には、管領も将軍も原則として口を挟めなかった。
明徳の乱——六分の一殿の山名が削られ、一色と赤松が国を得た
四家の中で、14世紀の終わりに最も大きかったのは山名氏である。山名氏清のとき、一族で全国66か国のうち11か国の守護を持ち、「六分の一殿」と呼ばれた。「六分一衆」とも呼ぶ。3代将軍・足利義満は、この山名の力を削ろうと一族を挑発した。この乱で国が動いたのは、四家のうち山名・一色・赤松の三家である。
1391年12月 内野の合戦——氏清が京都に攻め入り、敗死した
1391年12月、それまで北朝方だった山名氏清は、幕府に背いて南朝(京都の朝廷と対立していた、もう一つの朝廷)に降伏を申し入れ、その味方として兵を挙げ、京都に攻め入った。内野(京都の大内裏の跡地)での戦いで敗れ、氏清は48歳で戦死した。山名氏は守護の国を減らされ、但馬などを一族で分けて持つ家になった。
恩賞 一色は丹後、赤松は美作を得た
同じ戦いで、一色詮範は子の満範とともに参陣して氏清の首を取り、翌1392年、満範が山名の旧領だった丹後の守護になった。一色氏はこれから約200年、丹後を治める。赤松義則も弟を失いながら戦い、1392年正月に美作の守護を得て、播磨・備前と合わせた三国の守護になった。
嘉吉の変——将軍義教が一色を殺させ、赤松に殺され、播磨は山名へ移った
6代将軍・足利義教は、有力な守護を次々に押さえ込み、「万人恐怖」と言われた。その矛先は四職の家にも向き、1440年から1441年にかけて、一色・赤松・山名の三家の立場が続けざまに入れ替わる。義教が殺された事件が嘉吉の変で、幕府の体制はこれを境に揺らぎはじめる。
1440年5月 一色義貫の謀殺——若狭と三河を失った
1440年5月、大和に出陣していた一色義貫は、義教の密命を受けた武田信栄(安芸の武田氏の当主。甲斐の武田とは別の家)に朝食に招かれ、陣所で襲われて自害した。一色氏の国のうち若狭と知多郡は武田信栄に、三河は細川持常に与えられ、丹後だけが甥の一色教親に認められて、家の断絶は免れた。
1441年6月 義教の殺害——赤松の屋敷で将軍が討たれた
1441年6月、将軍・足利義教は、赤松満祐の子・教康に屋敷へ招かれ、宴の席で殺された。満祐・教康父子は播磨に下り、幕府軍に追われる。9月2日に坂本城(播磨の守護所、今の姫路市書写)から城山城(播磨の山城)に移った父子は、10日ほどで自害した。将軍を討った赤松の本家は、ここで一度滅びる。
1441年閏9月 播磨は山名持豊へ——四職の中で国が動いた
1441年閏9月、赤松の討伐で功のあった山名持豊(のちの宗全)が播磨の守護になり、山名氏は赤松の旧領だった播磨・備前・美作を手に入れた。1444年には、赤松の一族・満政が持っていた三郡も没収している。明徳の乱で削られた山名は、嘉吉の変で赤松の国を得て力を取り戻した。
応仁の乱——赤松・京極は東軍、山名・一色は西軍に分かれた
将軍・足利義政の跡継ぎをめぐって細川勝元と山名宗全が対立し、1467年に応仁の乱が始まった。宗全は西軍の主将で、四職の一家がそのまま一方の大将になった戦いでもある。宗全は但馬の此隅山城に2万6千余騎を集めて京都へ上ったと伝わる。京都の合戦は5月に始まり、戦線はやがて四家の領国にも広がった。
東軍 赤松と京極——京極勢が敗れ、翌日赤松勢が救援した
1467年5月26日、西軍についた斯波義廉の軍が、東軍の細川勝久の屋敷を攻めた。東軍は京極勢を援軍に送ったが、斯波方の朝倉孝景らに敗走させられた。翌日、赤松勢が救援に駆けつけると、戦い疲れた斯波義廉の軍は廬山寺(京都の寺)の西まで追い立てられ、戦いはいったん小休止になった。東軍についた赤松の当主・政則は、嘉吉の変のあと加賀半国の守護として再興を許されており、この乱で播磨・備前・美作を回復した。
西軍 山名と一色——宗全が主将、一色の兵は相国寺を攻めた
1467年10月、西軍の主将・山名宗全は、東軍が拠る相国寺(京都の禅寺)を取り返そうと、畠山・大内・土岐・六角・一色などの兵で攻め、数時間の激戦になった。若狭では山名方の一色の牢人(主家を離れた武士)が蜂起し、信栄の弟で若狭の守護を継いだ武田信賢が国に戻って追い払った。
丹後 一色は守護職を一度失い、5年後に取り戻した
1469年4月、幕府が西軍の一色義直から丹後の守護職を取り上げて東軍の武田信賢に与えると、武田の部将たちが丹後に攻め入った。山名持豊は但馬から援軍を送り、武田勢は山名の援軍が陣取った山を攻めて敗れた。その後は武田・細川勢が丹後をほぼ制圧したまま、5年後の1474年閏5月ごろに守護職は一色氏に返された。幕府が返した理由は、史料では確定できない。
戦国の四家——浅井に奪われ、秀吉に滅ぼされ、細川に討たれ、播磨を離れ、頭人を出す家が残らなかった
応仁の乱のあと、幕府は全国への影響力を失った。四家の領国でも、家臣や守護代が守護と並ぶ力を持つようになる。京極の家臣だった浅井氏、赤松の重臣だった浦上氏がそれにあたる。
京極氏 1523年に近江の実権を浅井へ渡し、1568年に信長に従った
1523年、京極氏は当主の高清の跡目をめぐって一族が割れ、家中が二つに分かれて戦った。勝った側の家臣・浅井亮政が北近江の実権を握り、1525年ごろに小谷城を築いた。以後の北近江は、浅井氏三代の国になる。近江の外では、出雲・隠岐を守護代の尼子氏が応仁の乱後に握り、飛騨も1582年に、もとは京極の家来だった三木氏が制した。1568年、京極高吉は北近江の守護職としての家柄を捨てて織田信長に従った。
山名氏 1580年、但馬の守護家は秀吉に滅ぼされ、翌年鳥取城も落ちた
1569年8月、織田軍が但馬に攻め入り、但馬の守護・山名祐豊の本城・此隅山城が落ちた。祐豊は堺へ逃れたのち信長の許しを得て帰国し、1574年に有子山城(但馬・出石の山城)を築く。1575年に毛利氏と同盟したが、1577年から羽柴秀吉が但馬に攻め入り、1580年4月から5月に但馬一国を制圧した。但馬の守護家はここで終わった。因幡では、1540年代から但馬の山名と争っていた山名豊国が1573年に鳥取城を本城にしたが、1580年5月に秀吉へ降伏し、毛利方についた重臣たちに城を追われて国を失った。鳥取城が落ちたのは翌1581年10月である。
一色氏 1582年、最後の当主が宮津城で殺され、丹後の一色は滅んだ
1516年8月から、丹後の守護・一色義清は実権を失い、重臣と守護代が衝突する内乱が始まった。若狭の武田氏はその前後から何度も丹後へ攻め入ったが、国は一色氏の手に残った。内乱がいつ収まり、この60年余りの丹後を誰が動かしていたのかは分からない。1579年、織田信長は明智光秀と細川藤孝・忠興父子に丹波・丹後の平定を命じた。翌1580年、丹後に入った細川藤孝は、娘を最後の当主・一色五郎に嫁がせて和睦した。ところが1582年6月の本能寺の変のあと、一色氏は光秀の側につき、細川氏は羽柴秀吉の側について、両家は再び対立した。同年9月、細川方は宮津城(丹後の細川の本城)内の重臣屋敷で開いた宴に五郎を呼び出して殺し、一色氏は滅んだ。
赤松氏 1585年、則房が阿波へ移され、置塩城は廃城になった
1469年、赤松政則は播磨守護に戻るのに合わせて置塩城(今の姫路市にあった山城)を築いたと伝わり、以後、義村・晴政・義祐・則房の本城になった。応仁の乱のあとも、赤松氏は但馬の山名氏や重臣の浦上氏との争いを繰り返し、天文年間(1532〜55年)には尼子氏の進出で一時淡路へ逃れている。備前は浦上氏、さらに宇喜多氏に奪われた。1580年に播磨を平定した羽柴秀吉は翌年、置塩城などの破却を命じ、1585年に則房が阿波へ移されるまでに置塩城は廃城になった。
頭人の席 1585年までに、頭人を出す家がなくなった
侍所の頭人の席に就いた四つの家は、1523年から1585年までの間に、そろって守護の家でなくなった。最後に頭人になったのが誰で、その席がいつから空いたままになったのかは、史料では確定できない。
四職の疑問に答える
山名宗全は、なぜ西軍についた?
宗全自身の理由を書いた資料は確かめられない。分かっていることは二つある。一つは将軍家の後継で、足利義政の妻・日野富子は、実子・義尚の後見を宗全に頼み、義政の弟・義視を推す細川勝元と対立した。もう一つは領国で、山名は嘉吉の変のあと赤松の旧領・播磨・備前・美作を持っていたが、その赤松の政則は東軍につき、乱の中で三国を回復した。
将軍義教を殺したのは、赤松満祐?
記録では、実行したのは子の教康である。当時の貴族の日記には、教康が関東征伐の祝宴と称して将軍を自邸に招いたと書かれ、満祐は前年から蟄居していて、その時刻には別の宿所にいた。「赤松満祐が義教を殺した」という言い方は、当主の名で家の行動をまとめて呼んだものだ。
四家のほかに、侍所の頭人になった家はある?
ある。赤松義則が頭人を務めた1388年前後は、四家に入らない土岐氏も頭人になっており、席は土岐・京極・一色と短い期間で代わっていた。四職は、そのうち代々頭人を出すようになった四家の呼び名だ。
現地に何が残っている?
京都市上京区の山名町には「山名宗全邸址」の石標が立ち、町の名も宗全の屋敷にちなむ。姫路市の置塩城跡は播磨最大の山城で、発掘で屋敷跡や櫓に似た建物の跡が見つかっている。豊岡市出石町の此隅山城跡と有子山城跡は国の史跡で、宮津市の旧宮津城本丸の入り口近くには、一色氏を祀る一色稲荷がある。米原市の京極氏遺跡(京極氏城館跡・弥高寺跡)も国の史跡である。15世紀末に高清が北近江の政治の拠点とした京極氏館は、この史跡の一部にあたる。
四職から次にたどる
参考にした資料
- 兵庫県立歴史博物館「ひょうご伝説紀行 用語解説(村・人・習俗)」(四職の定義と読み・三管四職の総称・赤松の播磨・備前・美作・嘉吉の変での没落と政則の再興・浦上氏・宇喜多氏に領国を奪われたこと・1580年の有子山城落城)
- 兵庫県立歴史博物館「ひょうご伝説紀行 用語解説(妖怪・自然)」(赤松が侍所所司に任じられる家柄であること・政則の加賀半国守護と東軍での三国回復・山名氏・浦上氏との抗争と淡路への脱出・山名の11か国と六分の一殿・嘉吉の変で赤松旧領を得たこと・但馬守護家の1580年の滅亡)
- 兵庫県立歴史博物館「前期赤松氏系図」(義則が1388年から侍所頭人として活動し当時の頭人が土岐・京極・一色と交代したこと・明徳の乱での弟の戦死と1392年の美作獲得・持豊の播磨守護と満政の三郡没収)
- 兵庫県立歴史博物館「赤松氏の年表」(1429年の播磨土一揆・1441年6月の教康による義教殺害・9月の満祐滅亡・閏9月の持豊の播磨守護獲得)
- 兵庫県立歴史博物館「城山城」(9月2日に坂本城から移り10日ほどで父子が自刃したこと)
- 姫路市「坂本城跡土塁」(坂本城が書写坂本に置かれた播磨の守護所で、所在地が姫路市書写であること)
- 兵庫県立歴史博物館 学芸員コラム「洞松院のころの置塩」(政則が応仁の乱の中で播磨・備前・美作の守護職を回復したこと)
- 姫路市「赤松氏城跡 置塩城跡」(1469年築城と伝わること・義村から則房までの本城・1581年の破却命令と1585年の則房の阿波移封・播磨最大の山城と発掘の成果)
- 国立国会図書館レファレンス協同データベース「赤松満祐は室町時代のいつ頃、左京大夫であったか」(1428年に侍所所司として正長の土一揆を撃退し翌年播磨の一揆を鎮圧したこと・侍所頭人の一覧があること)
- 国立国会図書館レファレンス協同データベース「室町幕府の管領・侍所の一覧」(侍所の頭人が一つの職として一覧化されていること)
- 学習院大学学術成果リポジトリ 村尾元忠「室町幕府管領制度について」(検断の訴訟が侍所の管轄で、実質の裁決権者が侍所頭人であること・三管領四職家が有力守護の中核だったこと)
- 国立歴史民俗博物館「室町幕府管領奉書」(1376年に管領・細川頼之が将軍義満の仰せを受けて信濃の守護に宛てた奉書の内容=押領を退けて土地を引き渡させる命令)
- 福井県文書館『福井県史』通史編2「一色氏の政治的地位の確立」(1381年4月までの詮範の侍所頭人就任と四職家の端緒・若狭と三河の守護・明徳の乱で氏清の首を取り満範が丹後守護になったこと)
- 福井県文書館『福井県史』通史編2「義範期の一色氏」(1416年までの義範の頭人就任・1418年の山城守護と、山城守護代300余騎の淀入部)
- 福井県文書館『福井県史』通史編2「一色義貫(義範)謀殺」(1440年5月、大和に出陣中の義貫が義教の密命を受けた武田信栄に朝食に招かれ陣所で襲われて自害したこと・若狭と知多郡が武田信栄、三河が細川持常へ・丹後が教親に認められたこと・「万人恐怖」)
- 福井県文書館 研究紀要「若狭武田氏の興亡一三〇年」(信栄・義貫の読み・甲斐武田と安芸武田が別の家であること・信栄の弟の信賢が若狭守護を継いだこと・応仁の乱で武田が東軍、一色が西軍についたこと)
- 福井県文書館『福井県史』通史編2「二大陣営の形成と乱の勃発」(1467年5月に東軍の京極勢が細川勝久邸の援軍として朝倉勢に敗走し、翌日赤松勢の救援で斯波義廉勢が廬山寺の西まで追い立てられ小休止になったこと・若狭での一色牢人の蜂起と武田信賢の放逐)
- 福井県文書館『福井県史』通史編2「戦線の地方への拡大」(1469年4月の丹後守護職の武田信賢への付与と討ち入り・山名持豊の但馬からの援軍と武田勢の敗北・武田・細川勢がほぼ制圧したまま1474年閏5月ごろに一色氏へ返付されたこと)
- 福井県文書館『福井県史』通史編2「武田元信の丹後出兵」(1516年8月からの丹後の内乱・守護一色義清の実権喪失と重臣・守護代の衝突・武田氏の丹後出兵が繰り返されたこと)
- 京都市「いしぶみデータベース KA160 山名氏清碑」(66か国中11か国の「六分一殿」・氏清が北朝方だったこと・義満の挑発・南朝への降伏申し入れと1391年12月の挙兵・戦死)
- 京都市「いしぶみデータベース 山名氏清碑 碑文の大意」(内野での戦死・享年48)
- 京都市「都市史14 応仁・文明の乱」(嘉吉の変を境に幕府体制が揺らいだこと・1467年10月の相国寺攻めに一色の兵が加わったこと・乱後に幕府が全国的影響力を失ったこと)
- 京都市上京区「応仁の大乱」(「嘉吉の変」の表記・義尚誕生で富子が宗全を後見にし細川と山名が対立したこと)
- 京都市「いしぶみデータベース KA079 山名宗全邸址」(石標の位置と山名町の名の由来)
- 豊岡市「国指定史跡 有子山城跡」(山名が赤松・一色・京極と並ぶ四職家であること・宗全の赤松討伐の功・此隅山城の2万6千余騎と伝わること・1569年に信長の家臣・羽柴秀吉に攻められた此隅山城の落城と祐豊の堺への出奔・1574年の有子山城築城)
- 文化庁 文化遺産オンライン「山名氏城跡 此隅山城跡 有子山城跡」(四職家の一つで最大級の大名・但馬・因幡・丹波・美作など11か国・明徳の乱で一族が相争ったこと・1569年8月の織田軍の但馬進攻で此隅山城が落ちたこと・国指定史跡)
- 鳥取県立博物館 企画展リーフレット「此隅山城」(「六分一衆」の呼称・15世紀末の但馬守護所)
- 鳥取県「因伯の守護大名山名氏(室町時代)」(山名氏が因幡・伯耆の守護だったこと)
- 鳥取市「鳥取市のなりたちとあゆみ」(1540年代の因幡山名と但馬山名の勢力争い・1573年に豊国が鳥取城を本城にしたこと・1581年の秀吉の鳥取城攻略)
- 鳥取県「織田信長の山陰出陣計画と秀吉」(1580年5月に秀吉が因幡へ攻め込み山名豊国を降伏させたこと・毛利氏の反撃が始まると毛利方についた重臣たちが豊国を鳥取城から追放したこと)
- 鳥取県立公文書館「秀吉の但馬・因幡進攻と垣屋氏」(1575年の毛利との同盟・1577年の秀吉の但馬進攻・1580年4〜5月の但馬制圧・1581年10月の鳥取城落城)
- 宮津市「第18回 慈光寺と一色氏」(一色氏が足利氏の分家で若狭・三河・尾張知多など海に面した国の守護だったこと・1392年の満範の丹後守護と約200年の領有・一色氏が四職として幕府の中核にいたこと)
- 京丹後市「地域学習副読本 京丹後市(第2版)」(1579年に信長が明智光秀と細川藤孝・忠興父子に丹波・丹後の平定を命じたこと・1582年の一色氏滅亡)
- 宮津市「第119回 一色稲荷の整備」(1580年の細川藤孝の丹後入国と一色五郎との和睦・1582年9月の宮津城内での殺害と一色氏の滅亡・一色稲荷の位置)
- 宮津市「明智光秀の首塚も!細川家の想いが託された盛林寺」(本能寺の変のあと一色氏が光秀方、細川氏が秀吉方につき両家が再び対立したこと・1582年9月に忠興が一色五郎を宮津城へ招いたこと)
- 江東区「峰山藩主京極家墓」(京極が侍所頭人に任じられる幕府の重臣(四職)だったこと・頭人の読み)
- 米原市「京極道誉」(1338年の近江守護と飛騨・出雲・隠岐の守護職)
- 米原市「京極氏遺跡(京極氏城館跡・弥高寺跡)」(15世紀末に高清が京極氏館を北近江の政治の拠点にしたこと・国指定史跡)
- 米原市「京極高次」(1568年に高吉が北近江守護職としての家柄をなげうって信長に従ったこと・高次が高吉の子で関ヶ原後に若狭へ移ったこと)
- 長浜市教育委員会「史跡小谷城跡保存管理計画書」(1523年に高清の跡目をめぐって京極の家中が二つに割れ、浅井亮政ら古くからの家臣の側が勝ったこと)
- 長浜市「浅井三姉妹の波乱の人生と小谷城落城」(1525年ごろの亮政の小谷城築城・京極氏の支配から独立した浅井氏三代の国になったこと)
- 島根県「島根県のプロフィール 誕生までのあらまし」(室町時代の出雲・隠岐守護が京極氏で、応仁の乱後に守護代尼子氏が強大化したこと)
- 高山市「高山の歴史」(室町初期の飛騨守護が京極氏だったこと・三木氏がもとは京極氏の被官だったこと・1582年の三木氏による制覇)
- 就実大学「研究のひとこま『満祐は現場にいない』という話」(当時の日記に実行者が教康と記され、満祐は蟄居中で別の宿所にいたこと)