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山崎の戦いやまざきのたたかい

本能寺の変の11日後、羽柴秀吉と明智光秀が戦った決戦。信長の仇討ちであると同時に、秀吉が織田家中で最初の大きな優位を取った戦いです。

1582年6月13日 明智光秀 羽柴秀吉 天王山

山崎の戦いとは?

  • 1582年6月13日、秀吉が明智光秀を破った。本能寺の変から11日後、京都の南の山崎で両軍が戦い、光秀は敗れた。
  • 秀吉は備中から急いで戻った。高松城の和睦を成立させ、約10日で京都近くまで引き返した(中国大返し)。
  • 光秀は味方を集められなかった。細川藤孝ほそかわ ふじたか・筒井順慶じゅんけいら縁のある大名が光秀に加わらず、光秀の兵力は秀吉に劣った。
  • 光秀は敗走中に討たれた。坂本城へ逃れる途中、小栗栖で土民に襲われて死んだとされる。
  • 秀吉が織田家中の主導権を握った。主君の仇を討った功で、秀吉は清洲会議を主導する立場になった。

なぜ山崎の戦いが重要か

本能寺の直後 信長と嫡男・信忠を失った織田家は、急に中心を失います。山崎の戦いは、その混乱のなかで光秀の政権づくりを止めた戦いです。
秀吉が前に出る 羽柴秀吉はしば ひでよしは光秀を破り、信長の家臣の一人から、信長後の政治を動かす中心候補へ近づきます。
後継争いの始まり 山崎の勝利は終わりではなく出発点です。次の清洲会議で織田家の後継と領地が話し合われ、秀吉と柴田勝家しばた かついえの対立へつながります。

勝敗は、山崎に着く前から動いていた

秀吉は西の戦線を閉じる

備中高松城で毛利氏と対峙していた秀吉は、信長の死を知ると講和をまとめ、軍を東へ返しました。戦いを途中で切り上げる外交判断が、大返しの前提です。

「仇討ち」の旗を掲げる

信長を討った光秀と戦う大義は、秀吉が織田方の武将を集める力になりました。秀吉軍には道中で織田家の諸将が加わり、兵力差が広がります。

光秀は支持を固めきれない

光秀は京都・近江を押さえ、朝廷や周辺勢力へ働きかけましたが、短期間で十分な支持を得られませんでした。織田家中をまとめる時間も限られていました。

大山崎は交通の狭窄部

天王山と淀川水系に挟まれた大山崎は、京都と大坂方面を結ぶ要地です。両軍がここでぶつかったのは、象徴だけでなく地形と交通の意味がありました。

「天王山」の戦いをどう見るか

山崎の戦いは、天王山の名前とともに語られ、「勝敗の分かれ目」を意味する言葉の由来としても知られます。京都府の案内でも、両軍にとって天王山の確保が焦点だったことが説明されています。

ただし、天王山の山頂だけで戦いのすべてが決まった、と単純に考えない方がよいです。京都府観光連盟は、天王山そのものでは前哨戦があり、両軍が本格的に対峙したのは円明寺川付近の低地だったと説明しています。地名のイメージと実際の戦場を分けて見ると、歴史の見え方が少し変わります。

関係人物

明智光秀あけち みつひで本能寺の変を起こした信長の家臣。山崎で秀吉に敗れ、信長後の主導権を確立できませんでした。
羽柴秀吉はしば ひでよし備中高松城の前線を講和で収めてから戻り、光秀を破ります。ここから清洲会議、賤ヶ岳を経て、天下統一へ進みます。
織田信長おだ のぶなが山崎の時点ではすでに死亡していますが、信長の死後に誰が織田家を支えるのかが、この戦いの背景です。
柴田勝家しばた かついえ山崎の戦いの後、秀吉とともに織田家の中心人物になります。やがて後継と主導権をめぐって秀吉と争います。
中川清秀なかがわ きよひで茨木城主。本能寺の変を秀吉へ知らせ、高山右近とともに秀吉軍の先鋒として戦ったと伝わります。
高山右近たかやま うこん高槻城主。清秀とともに秀吉軍の先鋒を務めたと伝わる、北摂の有力城主です。
高槻城右近が基盤にした京・大坂間の城。村重離反を経て、山崎で秀吉方の先鋒を支える北摂の拠点になります。

本能寺から清洲会議まで

6月2日
本能寺の変。明智光秀が織田信長を討ちます。
6月上旬
備中高松城を攻めていた羽柴秀吉は、毛利方と講和して引き返します。この動きは「中国大返し」と呼ばれます。
6月13日
山崎で羽柴秀吉と明智光秀が戦い、秀吉が勝利します。
6月下旬
清洲会議。信長後の織田家の後継と領地配分が話し合われます。
1583
賤ヶ岳の戦い。秀吉と柴田勝家の対立が軍事衝突になります。

「三日天下」と山崎の後

光秀の政権が短命だったことは「三日天下」と表現されますが、本能寺の変から山崎の戦いまでは11日あります。この言葉は日数を正確に示すものではなく、支配が長続きしなかったことを強調する後世の言い回しです。

敗れた光秀は勝龍寺城しょうりゅうじじょうから近江の坂本を目指し、京都の小栗栖付近で命を落としたと伝わります。明智方の支配は急速に崩れますが、勝った秀吉も直ちに天下人になったわけではありません。信長の後継、遺領の配分、他の重臣との関係は未解決であり、清洲会議と賤ヶ岳が続きます。

山崎の戦いについてのよくある疑問

「天王山」とは何のことか?

山崎の戦場の北にある山で、ここを押さえた側が有利になるとされ、「天下分け目の天王山」という言い回しの語源になりました。ただし戦いの勝敗を実際に決めたのが天王山の争奪だったかは、史料では確かめにくいとされます。

なぜ光秀は味方を集められなかったのか?

娘婿の細川忠興ほそかわ ただおき・藤孝父子は信長への弔意を示して動かず、筒井順慶つつい じゅんけいも態度を決めませんでした。主君殺しという行為への忌避、秀吉の帰還の速さ、光秀の政権構想が見えなかったことなどが重なったとみられます。光秀の動機と同じく、細部は確かめられていません。

光秀はどう死んだのか?

敗走して坂本城へ向かう途中、小栗栖の竹やぶで土民に襲われて死んだとする記録が一般的です。自害したとする記録もあり、細部は定まっていません。首は本能寺にさらされたと伝わります。

山崎の戦いで秀吉は天下人になったのか?

なっていません。秀吉が得たのは「主君の仇を討った家臣」としての発言力で、織田家の後継は清洲会議で決められました。秀吉が政権の主導者になるのは、賤ヶ岳で勝家を破ってからです。

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参考にした資料

山崎の戦いは「天王山」という言葉で有名ですが、地名から連想する単純な図式と、戦場の実態は分けて読む必要があります。