場所ページ / 山城国・現在の京都府長岡京市

勝龍寺城しょうりゅうじじょうとは

勝龍寺城しょうりゅうじじょうは、京都府長岡京市にあった城です。細川藤孝ほそかわ ふじたかの城として整えられ、1578年、明智光秀の娘・たま(のちの細川ガラシャ)が藤孝の子・忠興に輿入れし、新婚時代を過ごしました。その4年後の1582年、山崎の戦いに敗れた光秀は、この城に退いて最後の夜を過ごします。娘が幸せな時間を過ごした城が、父の人生最後の城になった——戦国でも指折りの、皮肉な物語を持つ場所です。

細川藤孝の城 1578年、玉(ガラシャ)輿入れ 1582年、光秀最期の城 現在は勝竜寺城公園

要点

  • 京都の南西を扼する要地の城だった。勝龍寺城は西国街道と淀川水系をにらむ位置にあり、山崎の隘路の京都側の出入口をおさえる。信長の畿内支配の中で、細川藤孝がこの城を任された。
  • 玉の輿入れは、信長の仲立ちだった。1578年、光秀の娘・玉と藤孝の嫡男・忠興の結婚は信長のすすめによるもの。明智と細川という重臣どうしを縁組で結ぶ、織田家の結束の象徴だった。二人はこの城で新婚時代を過ごした。
  • 山崎の戦いで、光秀の後方拠点になった。1582年6月13日、光秀は勝龍寺城を背にして山崎で秀吉軍と戦った。敗れた光秀はこの城に退き、最後の夜を過ごす。
  • 光秀は夜中に城を抜け、帰れなかった。光秀は夜陰にまぎれて城を出て、近江の坂本城を目指した。しかし途中の小栗栖(京都市伏見区)で襲われて落命したと伝わる。勝龍寺城が、光秀が最後にいた城になった。
  • 現在は公園として整備されている。跡地は勝竜寺城公園となり、櫓風の建物や堀が再現されている。長岡京市はガラシャの輿入れにちなむ「長岡京ガラシャ祭」を毎年開いており、「ガラシャの城」としても親しまれている。
経過

この城の4年間——婚礼から落城まで

  1. 011578年、玉が輿入れ

    信長のすすめで、光秀の娘・玉が細川忠興に嫁ぐ。婚礼はこの城で行われ、若い夫婦はここで暮らした。娘の玉にとって、人生でいちばん穏やかだった時期とされる。

  2. 021582年6月2日、本能寺の変

    玉の父・光秀が信長を討つ。細川父子は光秀への協力を拒み、玉は「謀反人の娘」として丹後の山里・味土野に幽閉されることになる。

  3. 036月13日、山崎の戦い

    光秀は勝龍寺城を後方の拠点に山崎で戦い、敗れてこの城へ退いた。城は小さく、大軍の籠城には向かなかった。

  4. 04同夜、光秀が城を出る

    光秀は夜中にわずかな供と城を抜け出し、坂本城を目指した。そして小栗栖のあたりで襲われ、落命したと伝わる。

  5. 05その後——玉はガラシャに

    幽閉を解かれた玉はのちにキリスト教の洗礼を受けてガラシャとなり、1600年、関ヶ原の直前に大坂で命を落とす。この城で始まった夫婦の物語は、戦国の終わりまで続いた。

どう読むか

勝龍寺城から、光秀とガラシャを読む

  • この城は「明智と細川の縁」そのものだった。婚礼の城が光秀最期の城になったのは偶然ではない。山崎の地理上、光秀が頼れる後方拠点が、かつて縁を結んだ細川の城だった——しかもその細川は、変で光秀に付かなかった。城の物語が、そのまま光秀の孤立の物語になっている。
  • 「小栗栖の竹やぶ」は通説として押さえる。光秀の最期の地は小栗栖(明智藪)と伝わるが、同時代の公家の日記「兼見卿記」は「醍醐辺り」と記す。落ち武者狩りに襲われたという大筋は動かないが、正確な場所には幅がある。
  • 娘の名で城が残った。現在この城は「光秀最期の城」であると同時に「ガラシャ輿入れの城」として整備され、祭りの名前にもなっている。敗者の城が、娘の物語によって愛される場所として残った例といえる。

決戦の全体像は山崎の戦い、地形は天王山と山崎で整理しています。

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参考にした資料