場所ページ / 山城国・現在の京都府大山崎町

天王山てんのうざんと山崎とは

天王山てんのうざんは、京都盆地と大阪平野の境にある標高270メートルほどの山です。山の南すぐを、桂川・宇治川・木津川が合流する大河(淀川)が流れ、山と川にはさまれた山崎やまざきの地は、京都と大坂を結ぶ道が一本に絞られる狭窄部きょうさくぶでした。1582年6月13日、この隘路の出口で羽柴秀吉はしば ひでよしと明智光秀が激突したのが山崎の戦い。「天下分け目の天王山」という言葉は、この戦いから生まれました。

京都と大坂の間の関門 山と大河で道が一本に 「天下分け目」の語源 油座で栄えた大山崎

要点

  • 地形がここを「関門」にした。天王山は丹波山地の南東の端、対岸の男山との間を三川合流の大河が流れる。京都盆地から大阪平野へ出るには、山裾と川の間のわずかな平地(西国街道)を通るしかなかった。
  • 山崎の戦いは、この隘路の出口で起きた。1582年6月13日の夕方、円明寺川をはさんで両軍が対陣。明智方の斎藤利三らの猛攻を秀吉方の先鋒が支え、川沿いを進んだ池田恒興いけだ つねおきらが渡河して側面を突くと、明智軍は崩れた。
  • 「山の取り合いが勝敗を決めた」は後世の強調。天王山の争奪戦が勝負を決めたと語られがちだが、大山崎町の解説が示すように、主戦場は山麓と川沿いだった。山は戦場を見下ろす要地ではあったが、「天王山の戦い」という呼び名自体が後からの見立てを含んでいる。
  • 大山崎は「油の町」だった。山崎のふもとの大山崎は、離宮八幡宮を中心にえごま油の座(独占的な商工組合)で栄えた自治的な町。戦いの舞台になった土地は、当時から交通と商業の要衝だった。
  • 戦後、秀吉は山頂に城を築いた。山崎の戦いのあと、秀吉は天王山の山頂に山崎城を築き、大坂城へ移るまでの拠点にした。山頂には今も石垣や井戸の跡が残り、ハイキングで登れる。
ことば

このページに出てくる言葉と場所

何か山崎の戦いでは
天王山標高270.4mの山。京都盆地と大阪平野の出入口をおさえる秀吉方が中腹〜山裾を確保。戦場全体を見下ろす位置だった
狭窄部山と川にはさまれて道が細く絞られる地形大軍を横に広げられないため、先に出口をおさえた側が有利になった
円明寺川山崎の北東を流れる小川(現在の小泉川)両軍がこの川をはさんで対陣し、渡河をめぐって戦いが動いた
大山崎離宮八幡宮の油座で栄えた自治都市。西国街道の宿場町は両軍の間で戦火を避ける交渉をしたと伝わる。国宝の茶室・待庵が残る
山崎城戦後に秀吉が天王山山頂に築いた城大坂城へ移るまでの秀吉の拠点。山頂に石垣・井戸の跡が残る
どう読むか

天王山から、山崎の戦いを読む

  • 「どこで戦うか」を先に決めたのは秀吉だった。狭窄部の出口で待ち構えれば、明智軍は狭い正面でしか戦えない。摂津から進んだ秀吉軍が山崎をおさえた時点で、光秀は不利な地形での決戦を強いられた。中国大返しの速さは、この場所取りのための速さでもあった。
  • 「天下分け目の天王山」は、結果から生まれた言葉。この一戦で光秀は滅び、勝った秀吉は天下人への道に乗った。勝負の分かれ目を指す慣用句として、野球や選挙でも使われる言葉の出どころが、この小さな山であることは覚えておいて損がない。
  • 同じ場所が、何度も歴史の関門になった。山崎は幕末の禁門の変後の戦い(山崎天王山で真木和泉らが自刃)でも舞台になった。京都と大坂の間の隘路という地形の意味は、時代が変わっても消えなかった。

戦いの全体像は山崎の戦い、秀吉の行軍は中国大返しで整理しています。

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参考にした資料