城・場所ページ / 備中国びっちゅうのくに・毛利方の境目の城

備中高松城びっちゅうたかまつじょう

備中高松城びっちゅうたかまつじょうは、備中国(岡山市北区高松)の低湿地に築かれた平城です。毛利氏と織田氏の勢力が接する「境目」に並ぶ七つの城の一つで、城主の清水宗治が守りました。1582年、羽柴秀吉は周囲に堤を築いて川の水を引き込む水攻めを行い、城を水に囲みます。毛利の援軍が到着したなかで本能寺の変の知らせが秀吉に届き、宗治の切腹を条件に和睦が成立。秀吉はここから京都へ引き返しました。城跡と水攻めの堤跡は国の史跡です。

1582年 清水宗治 羽柴秀吉の水攻め 国史跡

備中高松城とは?

  • 毛利方の「境目七城」の一つ。宮路山・冠山・備中高松・加茂・日幡・庭瀬・松島の七城が、毛利氏の東の防衛線をつくっていた。
  • 低湿地に囲まれた沼城。石垣のない土の城だが、周囲の湿地が攻め手を阻んだ。この地形が逆に水攻めを可能にした。
  • 1582年、秀吉が水攻めにした。堤を築いて足守川あしもりがわの水を引き込み、梅雨の増水で城を孤立させた。
  • 清水宗治の切腹で開城した。本能寺の変を知った秀吉は和睦を急ぎ、宗治は城兵の助命と引き換えに舟の上で切腹した。
  • 中国大返しの出発点。和睦を結んだ秀吉は、ここから約10日で京都近くまで戻り、山崎で光秀を討った。
歴史

備中高松城は、どう使われてきたのか

  1. 01石川氏から清水宗治へ

    高松城は備中の国衆くにしゅう・石川氏が築いたとされ、のちに石川氏の家臣だった清水宗治が城主となった。宗治は毛利氏に従い、小早川隆景こばやかわ たかかげの指揮下に入った。

  2. 021581年、織田の中国攻めが備中へ

    秀吉は播磨・因幡を制圧し、宇喜多氏を味方につけて備中へ迫った。毛利方は境目七城で防衛線を組んだ。

  3. 031582年4〜5月、秀吉が高松城を包囲

    周囲の城を落とした秀吉は、高松城を囲んだ。力攻めが難しいと見て、黒田孝高よしたか(官兵衛)の献策とも伝わる水攻めを選んだ。

  4. 04堤の築造と水攻め

    城の南から東に堤を築き、足守川の水を引き込んだ。工期は12日ほどと伝わるが、堤の長さや工期には諸説がある。

  5. 05毛利の援軍と本能寺の変

    毛利輝元もうり てるもと・吉川元春きっかわもとはる・小早川隆景が救援に来たが、水に囲まれた城には近づけなかった。6月2日の本能寺の変の知らせが秀吉に届く。

  6. 066月4日、宗治の切腹と和睦

    秀吉は変を隠したまま和睦を急ぎ、宗治は城兵の助命を条件に切腹した。毛利方はその後に変を知ったとされる。

  7. 07廃城と現在

    戦後、高松城は宇喜多氏、次いで花房氏の管理となり、江戸初期に廃城となった。城跡は公園として整備され、堤の一部が蛙ヶ鼻に残る。

どう読むか

備中高松城を読むときの三つの視点

  • 地形が攻め方を決めた。湿地に守られた城を、秀吉は湿地ごと水に沈めた。守りの利点が、そのまま弱点に変わった例。
  • 水攻めは土木の戦い。堤の築造は短期間の大工事で、秀吉の動員力と資金を示す。太田城・忍城おしじょうでも秀吉方は同じ手を使った。
  • 宗治の切腹は「武士の鑑」として語られた。宗治の潔さは秀吉に称えられ、後世に忠義の物語として広まった。史実と顕彰を分けて読む。

備中高松城は、城そのものより「水攻め」と「本能寺の変との同時性」で知られています。城跡で見るべきは、堤の跡と、城が水に囲まれたことを実感できる低い地形です。

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参考にした資料