要点
- 丹波平定のために建てた「前線基地」だった。信長に丹波攻略を命じられた光秀が、1577年ごろ築城。丹波は京都の背後を扼する国で、この城を足場に光秀は丹波一国を平定し、領国とした。
- 亀岡の町は光秀から始まった。城下町の基礎は光秀の時代に築かれ、江戸時代に拡張された。亀岡市が「光秀公のまち」を名乗るのは、町そのものが光秀の遺産だから。
- 出撃前、光秀は愛宕神社に参った。中国出陣の戦勝祈願として愛宕山に参詣し、社前で何度もくじを引いたと伝わる。連歌会で詠んだ「ときは今 あめが下しる 五月哉」は、信長追討の意志の表れとされてきた句として有名。
- 進路が変わったのは老ノ坂だった。6月1日夕刻に出撃した軍は山陰道を進み、丹波・山城国境の老ノ坂峠を越えた。中国地方へ向かうなら西へ折れる地点で、軍は京都へ向かい、桂川を渡った。
- 城は江戸時代に姿を変え、石垣が残る。亀山城は江戸時代に近世の城として改修され、明治に取り壊された。現在は石垣などの遺構が残り、見学することができる。
饗応役から本能寺まで
- 011582年5月、饗応役を解かれ出陣命令
光秀は徳川家康の饗応役に任じられていたが、毛利と戦う秀吉の援軍を命じられ、近江坂本城から亀山城に入った。
- 02愛宕参詣と連歌会
戦勝祈願のため愛宕神社に参詣。社前で何度もくじを引いたと伝わる。威徳院では連歌師・里村紹巴らと百韻連歌の会を催し、「ときは今」の句を詠んだ。
- 036月1日夕刻、1万3千で出撃
光秀は亀山城から全軍を率いて出発。行き先を知るのは、ごく限られた重臣だけだったとされる。
- 04老ノ坂を越え、桂川を渡る
山陰道を進んだ軍は老ノ坂峠を越え、中国地方へは向かわずに京都へ。桂川を渡った時点で、行き先は誰の目にも明らかになった。
- 056月2日未明、本能寺へ
軍は本能寺の信長を襲い、さらに信忠を二条御所に追い込んだ。出撃から半日足らずで、天下の主が入れ替わった。
「敵は本能寺にあり」は言ったのか
伝承 語られてきた場面
老ノ坂を越えたあたりで光秀が全軍に「敵は本能寺にあり」と告げた——歴史上もっとも有名な台詞の一つだが、この言葉は江戸時代の軍記「明智軍記」などによるもので、同時代の史料には見えない。ドラマの名場面は、後世の演出と考えるのが妥当とされる。
史料 確かめられること
亀山城から出撃したこと、老ノ坂を越えて桂川を渡り本能寺へ向かったことは記録から確かめられる。また「ときは今」の句も、追討の意志を詠み込んだという解釈(「とき」に土岐氏をかけたとする説)が広く知られる一方、連歌の常套的な表現と見る立場もあり、決め手はない。
- 兵たちは直前まで知らなかった。1万3千の軍の大半は中国出陣と信じて行軍していたとみられる。行き先を秘したまま軍を動かし切ったことが、奇襲の成功そのものだった。
亀山城から、本能寺の変を読む
- 京都まで一晩、という距離がすべてだった。亀山城から本能寺までは約20キロ。夕刻に出て未明に着ける距離に、大軍を置ける自分の城があった。光秀にしかない条件が、変を可能にした。
- 丹波は「信長がくれた国」だった。光秀は信長の命で丹波を平定し、領国として与えられた。その領国の城から信長を討ちに出た——恩と謀反が同じ場所から出発している皮肉が、この城の重さになっている。
- 町は残り、物語は続いた。光秀の城下町は江戸の亀山藩へ引き継がれ、いまの亀岡になった。「三日天下」と呼ばれた光秀の、いちばん長持ちした事業がこの町といえる。