義輝死後、阿波から立てられた将軍
義栄は1536年、阿波国の平島(いまの徳島県阿南市)で生まれ育ちました。父の義維(義冬)は、この地に居を構えた初代「阿波公方」です。血縁では、13代義輝・15代義昭の兄弟のいとこにあたります。1565年に義輝が三好義継(三好長慶の後継者)らに殺害されると、義栄は次の将軍候補として立てられ、1568年2月に14代将軍となりました。
義栄と義昭、二人の将軍候補
義輝の死後、将軍の座を目指したのは義栄だけではありません。義輝の弟・義昭も、上洛と将軍就任を目指して動いていました。二人は同じ1568年に将軍となりますが、たどった道は大きく違います。
| 義栄の歩み | 1566年に阿波から畿内へ渡り、諸大名を動かし、朝廷にも働きかけて、1568年2月に将軍に就任。 |
|---|---|
| 義昭の歩み | 奈良から甲賀(滋賀県)の和田惟政の館、朝倉氏の一乗谷(福井市)へと移り、各地の大名に協力を求めて織田信長を味方につける。 |
| 結末 | 義栄は1568年の秋に病死。義昭は同じ年の9月末に信長とともに芥川山城(高槻市)を攻め落とし、翌月に京都へ入って将軍に就任します。 |
義栄は将軍になりながら、一度も京都に入れませんでした。 将軍の任命を伝える朝廷の使者さえ、京都ではなく富田(大阪府高槻市)の普門寺で迎えています。京都に入って将軍に就任した義昭とは、この点で対照的です。
阿波から富田へ——義栄の歩み
父の義維(義冬)が1534年に居を構えた平島(徳島県阿南市)で生まれ育ちます。
13代義輝が三好義継らに殺害され、義栄が次の将軍候補として立てられます。
阿波から畿内へ渡り、その後、越水城(兵庫県西宮市)を経て、富田(大阪府高槻市)の普門寺へ移ります。
任命を伝える朝廷の使者を普門寺で迎えます。公家らが蹴鞠を行い、義栄が御簾の中から見ていたという記録が残っています。
京都へ入れないまま病死し、将軍在任は半年余りで終わりました。
生まれ故郷の平島(阿南市那賀川町)には、10代将軍義稙・14代将軍義栄をはじめ、歴代の阿波公方の墓石が残っています。
参考にした資料
- 高槻市「10.足利義栄と富田」(1536年に阿波の平島で生まれたこと、義輝・義昭のいとこであること、義輝殺害後の擁立、1566年の渡海と越水城・普門寺への移動、1568年2月の将軍就任と普門寺での蹴鞠、同年秋の病死、京都に入れなかったこと)
- 阿南市「阿波公方・民俗資料館(阿波公方館跡)」(父・義冬(義維)が1534年に平島に居を構えた初代阿波公方であること、義栄が平島から畿内へ上って14代将軍となったこと、平島に残る10代・14代将軍と歴代阿波公方の墓石)
- 高槻市「11.足利義昭の上洛と高槻」(義昭が義輝の弟であること、義輝殺害後の義昭の移動と信長の協力、1568年9月の芥川山城攻めと翌月の入京・将軍就任)
- 国立国会図書館レファレンス協同データベース「堺幕府について」(父・義維が義稙の養子で、1527年に三好元長らに擁されて堺へ渡り「堺公方」と呼ばれたこと)
このページは、高槻市と阿南市の解説に書かれている範囲で義栄の歩みを整理しました。義栄を支えた勢力の顔ぶれや、義昭側との争いの細かな経緯はここでは扱っていません。
