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足利義栄あしかが よしひで

室町幕府14代将軍。阿波の平島(いまの徳島県阿南市)で生まれ育ち、13代義輝が殺害された後に次の将軍候補として立てられました。1568年2月に将軍となりましたが、京都へ入れないまま同じ年の秋に病死し、在任は半年余りでした。

14代将軍阿波・平島富田・普門寺1568年
足利義栄の肖像
足利義栄像 / 作者: Ykk1223 / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0

義輝死後、阿波から立てられた将軍

義栄は1536年、阿波国の平島(いまの徳島県阿南市)で生まれ育ちました。父の義維よしつな(義冬)は、この地に居を構えた初代「阿波公方」です。血縁では、13代義輝・15代義昭の兄弟のいとこにあたります。1565年に義輝が三好義継みよし よしつぐ(三好長慶みよし ながよしの後継者)らに殺害されると、義栄は次の将軍候補として立てられ、1568年2月に14代将軍となりました。

足利義栄

阿波の平島で育った将軍家の一族。義輝の死後、次の将軍候補として立てられた人物です。

父・足利義維

10代将軍義稙の養子。1527年に三好元長みよし もとながらに擁されて堺へ渡り「堺公方」と呼ばれ、1534年には阿波の平島に居を構えて初代「阿波公方」となりました。

足利義昭

義輝の弟。義輝の殺害後に奈良を脱出し、上洛と将軍就任を目指して各地の大名に協力を求め、織田信長おだ のぶなががこれに応じました。

義栄と義昭、二人の将軍候補

義輝の死後、将軍の座を目指したのは義栄だけではありません。義輝の弟・義昭も、上洛と将軍就任を目指して動いていました。二人は同じ1568年に将軍となりますが、たどった道は大きく違います。

義栄の歩み1566年に阿波から畿内きないへ渡り、諸大名を動かし、朝廷にも働きかけて、1568年2月に将軍に就任。
義昭の歩み奈良から甲賀(滋賀県)の和田惟政わだ これまさの館、朝倉氏の一乗谷(福井市)へと移り、各地の大名に協力を求めて織田信長を味方につける。
結末義栄は1568年の秋に病死。義昭は同じ年の9月末に信長とともに芥川山城(高槻市)を攻め落とし、翌月に京都へ入って将軍に就任します。

義栄は将軍になりながら、一度も京都に入れませんでした。 将軍の任命を伝える朝廷の使者さえ、京都ではなく富田(大阪府高槻市)の普門寺で迎えています。京都に入って将軍に就任した義昭とは、この点で対照的です。

阿波から富田へ——義栄の歩み

1536年
阿波の平島で生まれる

父の義維(義冬)が1534年に居を構えた平島(徳島県阿南市)で生まれ育ちます。

1565年
義輝が殺害される

13代義輝が三好義継らに殺害され、義栄が次の将軍候補として立てられます。

1566年
阿波から畿内へ渡る

阿波から畿内へ渡り、その後、越水城(兵庫県西宮市)を経て、富田(大阪府高槻市)の普門寺へ移ります。

1568年2月
14代将軍となる

任命を伝える朝廷の使者を普門寺で迎えます。公家らが蹴鞠けまりを行い、義栄が御簾みすの中から見ていたという記録が残っています。

1568年秋
病死する

京都へ入れないまま病死し、将軍在任は半年余りで終わりました。

生まれ故郷の平島(阿南市那賀川町)には、10代将軍義稙・14代将軍義栄をはじめ、歴代の阿波公方の墓石が残っています。

足利義栄から、次にたどる

参考にした資料

このページは、高槻市と阿南市の解説に書かれている範囲で義栄の歩みを整理しました。義栄を支えた勢力の顔ぶれや、義昭側との争いの細かな経緯はここでは扱っていません。