人物ページ / 1564ごろ〜1573・浅井長政の嫡男

万福丸まんぷくまる

万福丸とは?

浅井長政の嫡男ちゃくなん(1564年ごろ生まれ)。1573年の小谷城落城の際、城を逃れたが捕らえられ、10月17日、信長の命により関ヶ原で処刑された。10歳だった。

1564年(永禄7年)ごろ、北近江の浅井長政の嫡男として生まれます。母がだれかには諸説があります。
1573年、小谷城おだにじょうの戦いで浅井氏が滅ぶと、家臣に連れられて城を逃れ、敦賀つるがの近くに匿われたと伝わります。
落城の1か月半後の10月17日、捕らえられて、信長の命により関ヶ原ではりつけにされました。
高野山の浅井家の過去帳に法名「周芳童子」が残り、成長した妹が兄を供養したことがうかがえます。

誕生——永禄7年、小谷城に生まれる

万福丸は1564年(永禄7年)ごろ、北近江の大名・浅井長政の嫡男として生まれた。処刑の記録に「10歳」とあることからの逆算になる。名乗りは幼名のままで、元服していみな(実名)を持つ前に生涯が終わった。

側室の子とする説 輿入れの計算が合わない

「母はお市の方ではなく側室」とする説は、江戸時代の軍記に由来する。お市の輿入れこしいれを1567〜68年ごろとすれば、1564年生まれの万福丸は計算が合わないからである。

お市の子とする説 妹の生年からの逆算

一方、地元の郡誌は、妹の淀殿が1567年に生まれている以上、輿入れは遅くとも1563年以前のはずだと逆算し、側室説を根拠のない想像と退けた。輿入れの年次に諸説がある限り、母がだれかは決めきれない。

落城と逃亡——家臣に連れられ、敦賀へ

1573年8月末、小谷城の戦いで城は落ち、父・長政は9月1日に自害した。万福丸は落城の前後に城を出ている。

匿った家臣 木村氏とともに

連れて城を出たのは、家臣の木村喜内之介きむらきないのすけと伝わる(名は記録によって異同がある)。敦賀の近くに隠れ住んだという。

分かれた運命 保護されたのは信長の血縁だけ

お市の方と三姉妹は織田方に引き取られたが、浅井方の女性が助かったわけではない。祖母にあたる久政の妻・小野殿おのどのは、落城後に捕らえられて殺されている。保護されたのは信長の妹とその娘たち、追われたのは浅井の血を継ぐ跡取りだった。

捕縛と磔殺たくさつ——10月17日、関ヶ原で

落城から1か月半後の10月17日、万福丸は捕らえられ、信長の命により関ヶ原で磔にされた。10歳だった。この日付は、信長公記の記述と、高野山の過去帳が記す命日が一致する。

場所の異説 木之本で殺されたとする軍記も

江戸時代の軍記には「9月3日、木之本きのもとで殺された」とするものもある。ただし地元の郡誌は、これを軍記の創作と退けている。

生き延びた説 加賀へ隠れたとする記録

当代記とうだいきという江戸初期の記録は、まったく別の話を伝える。「越前へ人質に出され、越前平定ののち、加賀国へ行って隠れた」。処刑を記す記録と並んで、生存の伝えも残っている。

供養——高野山に残る「周芳童子」

浅井の嫡流はここで絶えた。しかし万福丸の名は、供養の記録の中に残り続けた。

妹の志 高野山の過去帳に

高野山の浅井家の霊簿れいぼ(過去帳)には「周芳童子 浅井備前守殿子息 大坂二の丸様より御志」と記される。「大坂二の丸様」は妹の初とみられ、成長した妹が高野山で兄を供養したことがうかがえる。

万福丸の疑問に答える

処刑された関ヶ原って、あの関ヶ原?

同じ場所になる。岐阜県の関ケ原町で、天下分け目の関ヶ原の戦い(1600年)が起きる27年前のこと。北近江から美濃へ抜ける街道筋の要地だった。

淀殿たちとの関係は?

茶々(淀殿)・初・江の三姉妹の兄にあたる。生年の順に並べると、万福丸(1564年ごろ)、茶々(1567年)、初(1568年)、江(1573年)になる。末の妹・江が生まれた年に、兄は世を去った。

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参考にした資料