虎御前山城とは?
1572年、織田信長が浅井長政の小谷城を攻めるために、その目の前の虎御前山に築いた陣城(攻撃のための城)。翌1573年の小谷城落城で役目を終えた。
築城——攻撃開始の6日後、目の前に建て始める
虎御前山は、小谷城から西南へわずか700mほどにある独立した丘(標高約230m)で、あいだを北国脇往還(街道)が通るだけの距離にある。1572年7月21日に小谷の城下を焼き討ちした信長は、6日後の27日、この丘で築城を始めた。
なぜここに 詰城に朝倉が入った
それまでの前線は、南に約12km離れた横山城だった。しかし朝倉の援軍が、小谷城の詰城(最後の拠り所となる城)・大嶽城に入ったのを受けて、信長は包囲を一気に縮め、本陣を小谷城の目の前へ移すことを決めた。
半月の突貫工事 信長公記も自慢した
築城はわずか半月で完成した。信長公記はこの城を「工夫を凝らした、見たこともないほど見事な要害」と書き残している。臨時の砦でありながら、本格的な出来栄えだった。
対陣——座敷から敵が見える最前線
完成した城には秀吉が定番(常駐の守将)として入り、信長の本営も横山城から移った。小谷城との距離は、信長公記に「座敷から北を見ると、浅井・朝倉の兵が大嶽へ登っていくのが見えた」と書かれるほどだった。
砦の鎖 八相山・宮部とつなぐ
後方の横山城までは三里(約12km)と遠い。そこで信長は、あいだの八相山と宮部にも砦を築いて中継させた。虎御前山を先端に、砦の鎖で小谷城を封じる形になった。
攻められた記録は一度 1572年11月
11月、浅井方の兵が虎御前山と宮部に攻めかかり、秀吉が迎え撃った。この城が戦場になった記録はこの一度で、以後も最前線の役割を果たし続けた。
決戦——1573年8月、総攻撃の起点になる
対陣の相手・朝倉義景は、1572年の年末にいったん越前へ帰った。翌1573年8月、浅井方の寝返りをきっかけに小谷城の戦いが始まると、信長は8月10日、岐阜からこの城へ入った。
出撃の拠点 大嶽攻めから朝倉追撃へ
8月12日の大嶽城攻めも、撤退する朝倉軍への追撃も、軍はこの城から出た。朝倉義景を滅ぼした信長は、8月26日にここへ戻ってくる。
最後の夜 8月27日、総攻撃へ
翌27日の夜中、ここを起点に小谷城への総攻撃がかかった。9月1日、長政は自害し、小谷城は落城する。築城から総攻撃まで、この城は一度も役割を外れることがなかった。
役目の終わり——小谷城とともに、城の理由が消える
攻める相手が消えた城に、残る理由は無かった。廃城の時期を示す資料は残っていないが、小谷城の落城後と考えられており、まもなく取り壊されたとされる。城として存在したのは、わずか1年あまりになる。
短命ゆえの値打ち 織豊系城郭の貴重な実例
滋賀県はこの城を「築城の時期・目的・主体がすべて明らかで、遺構も良好に残る、当時の織豊系城郭(信長・秀吉たちの城づくり)の在り方を示す貴重な城」と評価している。使われたのが一度きりだったため、築いた当時の形がそのまま残った。
山に残る名前 ふもとの「虎姫」
城は消えたが、山の名前は残った。虎御前山の別名・虎姫山は、ふもとの地名と駅名「虎姫」に今も生きている。
虎御前山城の疑問に答える
「虎御前」って、どういう名前?
山の名の由来として、地元にはこんな伝説が伝わる。泉のほとりに住む虎姫という娘が、旅の若者と結ばれて15人の子を産んだが、子らは顔が人で体は蛇だった。嘆いた虎姫は淵に身を投げ、以来この山は虎姫山・虎御前山と呼ばれるという。読み方は「とらごぜやま」のほか、「とらごぜんやま」とも呼ばれる。
陣城って何?
攻撃や包囲のために臨時に築く城のこと。虎御前山城はその代表例で、信長公記では「御取出」(砦)と呼ばれている。臨時とはいえ、土塁や曲輪を備えた本格的な普請だった。
虎御前山って、今のどこ?
滋賀県長浜市になる。琵琶湖の北東、JR北陸本線の河毛駅と虎姫駅のあいだに南北に横たわる細長い丘で、北の端が小谷城と向かい合う。
現地に何か残っている?
尾根沿いに、伝秀吉陣跡・織田信長陣跡の碑・丹羽長秀陣跡・堀秀政陣跡などの曲輪が縦一列に並び、ハイキングコースで歩ける(市指定史跡)。ただし「信長陣跡」の碑が立つ曲輪については、より高い場所にある曲輪のほうが本陣だった可能性が高い、というのが長浜市の資料の見解になる。