場所ページ / 和歌山県高野町・戦国の武将たちが送られた山

高野山こうやさん

高野山とは?

高野山は、信長に囲まれたまま本能寺の変で助かり、秀吉には僧・木食応其もくじきおうごの交渉で降り、北条氏直・豊臣秀次とよとみ ひでつぐ・織田秀信ら、敗れた武将や追われた武将が送られる山になった。

今の和歌山県高野町、標高800メートルほどの山上の盆地にある真言密教の聖地で、816年に空海(弘法大師)が開いた。戦国のころには紀の川の南に広い寺領を持ち、大名の領地とは別の、寺が治める土地だった。

1581年8月、織田信長おだ のぶながは各地の高野聖を殺し、高野山を攻める陣触れを出します。小さな合戦と包囲が続いたまま、1582年6月の本能寺の変で終わります。
1585年、根来寺と粉河寺を焼いた秀吉に対し、僧の木食応其が交渉に立ち、高野山は降伏して焼き討ちを免れます。
1591年10月、太閤検地のあと秀吉は高野山に寺領1万石を認め、応其がその配分を決めます。
1590年の北条氏直から、1595年の豊臣秀次、1600年の織田秀信・京極高次きょうごく たかつぐまで、四人の武将が送られます。
1619年に紀伊藩ができても寺領は藩領に含まれず、1643年には三代将軍・家光が家康と秀忠の霊屋を建てます。

基本情報

所在地和歌山県伊都郡高野町。標高800メートルほどの山上の盆地
宗派・寺高野山真言宗の総本山・金剛峯寺こんごうぶじ(全国におよそ3600の末寺)
開創816年、空海(弘法大師)
江戸期寺領は紀伊藩領に含まれず独立(1869年まで)。1643年 徳川家霊台
国の史跡「金剛峯寺境内」(1977年)、世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」(2004年)

高野攻め——信長は高野聖を殺し、山を囲んだが、本能寺の変で終わった

戦国のころ、高野山からは高野聖こうやひじり(山を出て全国を回り、高野山の縁を語って寄付を募った宗教者)が各地へ出ていた。信長と高野山の関わりは、1580年、信長が重臣の佐久間信盛さくまのぶもりを高野山へ追放したことから始まる。信盛は山内の小坂坊に身を潜めたが、信長は「高野山に住むことは許さない」と命じ、信盛は十津川とつかわ(奈良県南部の山中)へ落ちたという。なぜ信盛を高野山に置くことを許さなかったのかは、史料では分からない。

1581年8月 高野聖数百人を殺し、陣触れを出した

信長は1581年8月、京や堺などにいた高野聖数百人を殺し、高野山を攻める陣触れじんぶれ(出陣の命令)を出した。直接のきっかけは、高野山が荒木村重あらきむらしげの旧臣の一部をかくまい、信盛が山内に残した品の引き渡しも拒んで、信長の使者を殺したこととされる。

包囲の実態 大軍と伝わるが、小さな合戦と緩い囲みだった

包囲は1581年8月から翌年6月まで続いた。軍記には総勢13万7千余の大軍と伝わるが、実際にあったのは数度の小規模な合戦と、緩やかな包囲だった。高野山側は山内で調伏ちょうぶく(敵を鎮める密教の祈り)の祈祷を続けた。

1582年6月 本能寺の変で、囲みが解けた

1582年6月、本能寺の変で信長が死ぬと、決戦のないまま包囲は終わった。その年の7月、山内の僧は「大師の加持かじ力(祈りの力)で信長父子が滅んだ」と書状に記した。

紀州攻め——木食応其が秀吉と交渉し、降伏して山を残した

1585年、羽柴秀吉はしば ひでよしの軍が紀伊に入り、根来寺ねごろでら粉河寺こかわでら、雑賀衆の太田城が次々に攻め落とされた。高野山も、紀の川の南に中世以来の広い寺領を持つ、紀伊の勢力の一つだった。ここで秀吉との交渉に立ったのが、僧・木食応其だった。

応其という僧 近江の元武士で、38歳で山に登った

木食応其は1536年ごろ、近江の蒲生郡に生まれた元武士だった。1573年3月、38歳で高野山に登って出家し、木食もくじき(穀物を断つ行)の修行を13年続けた。粗末な衣をまとい、果実と野菜だけを食べたと伝わる。

1585年・降伏 焼き討ちを免れ、山を建て直した

秀吉は1585年、高野山にも降伏を迫った。応其は高野山を代表して交渉を重ね、それが聞き入れられて、山は焼き討ちを免れた。交渉で応其が何を伝え、どんな条件がついたのかは、残された史料では確かめられない。降伏ののち、応其は壇上伽藍だんじょうがらん(大塔や金堂の建ち並ぶ中心の区画)を整え、山内に興山寺を建てた。

寺領1万石——検地のあと秀吉が認め、応其が分け、秀吉自身も山に登った

降伏から6年後、太閤検地が紀伊に及んだ。田畑の広さと収穫高を調べるこの検地は寺領も例外にせず、高野山の麓の村々がどれだけの米を生むかを測った。その結果を受けて、秀吉は高野山の取り分を決めた。

1591年10月 寺領1万石と、山麓の村の公認

秀吉は1591年10月、検地の終了を受けて高野山に寺領1万石を与えた。1万石は、のちの江戸時代に大名と呼ばれる領地の下限にあたる大きさである。伊都郡・那賀郡の紀の川以南にある山麓の村々が、中世以来の高野山の領地として改めて公認された。

学侶と行人 6000石と4000石に分けた

応其は1591年、この1万石を、学侶がくりょ方(学問と法会を担う僧の集団)に6000石、行人ぎょうにん方(山の運営を担う僧の集団)に4000石と分けた。配分を決めたこのとき、応其自身は京都にいて、豊臣家方広寺の大仏殿造営にあたっていた。

秀吉と高野山 母の菩提寺を建てさせ、自ら登った

秀吉は1592年から93年ごろ、亡き母の菩提を弔うため、応其に命じて青巌寺せいがんじを建てさせた。青巌寺は今の金剛峯寺本坊の一角にあたり、明治まで高野山の全山を統率する寺だった。1594年、秀吉は自ら高野山に登り、帰りは黒河道くろこみち(高野七口の一つ、橋本へ下る道)を通っている。

追放の山——氏直・秀次・秀信・高次が送られた

高野山は、主君のもとを追われた武将や、戦に敗れた武将を送る先として使われていた。秀吉の天下になってもそれは続き、小田原征伐の1590年から関ヶ原の1600年まで、四人の武将が山に入っている。

誰がなぜ山に入ったか
北条氏直ほうじょううじなお(1590年)小田原征伐で降伏した。父・氏政と叔父・氏照は切腹したが、家康と縁続きだった氏直は助命された
豊臣秀次とよとみひでつぐ(1595年)謀反を企てたという理由で、関白の座を追われた
織田秀信おだひでのぶ(1600年)信長の嫡孫ちゃくそん。関ヶ原で西軍に付き、岐阜城が落ちると降伏して出家した
京極高次きょうごくたかつぐ(1600年)西軍に囲まれた大津城を、関ヶ原の合戦の当日にあたる9月15日に明け渡し、城を出てそのまま高野山に入った

戻った者 氏直は大名に復し、高次は若狭一国を得た

北条氏直は1590年、一門や家臣の多くを連れて山に入り、翌1591年に赦免された。大名に復して秀吉に仕えたが、まもなく病死した。京極高次は1600年、山に蟄居ちっきょ(家に閉じこもる謹慎)した。家康は、西軍2万7千を足止めした高次に若狭一国8万5千石を与え、高次は小浜へ移った。

山で終わった者 秀次は切腹し、秀信は幽居で没した

豊臣秀次は1595年7月、山内で切腹した。享年28。翌8月には妻妾や子女30余人が京の三条河原で処刑された。織田秀信は送られて5年後の1605年5月8日、山内の幽居ゆうきょ(閉じこもって暮らす住まい)で没した。

江戸の高野山——紀伊藩の外に残った寺領と、徳川家霊台

秀吉が死に、関ヶ原を経て徳川の世になった。秀吉が1591年に認めた寺領は、政権が代わってもそのまま引き継がれる。そして徳川家は、秀吉が母の菩提寺を建てたのと同じように、この山を自家の先祖をまつる場所にしていく。

1619年 紀伊藩ができても、寺領は藩の外だった

1619年、家康の十男・徳川頼宣とくがわよりのぶが紀伊藩主として和歌山に入り、紀伊国の大部分は紀伊藩の領地になった。しかし高野山麓の寺領は藩領に含まれず、高野山は紀伊藩の領地に囲まれた独立した領主として続いた。

1643年 家光が、家康と秀忠の霊屋を建てた

三代将軍・徳川家光とくがわ いえみつは1643年、高野山に祖父・家康と父・秀忠の霊屋たまや(霊をまつる建物)を建てた。徳川家霊台とくがわけれいだいと呼ばれ、向かって右が家康、左が秀忠の霊屋である。

高野山が残したもの——焼かれなかった聖地、敵味方の墓所、女人堂

同じ大寺院でも、比叡山の延暦寺は1571年に信長に焼かれ、高野山は焼かれずに戦国を越えた。二つを分けたのは、1582年の本能寺の変という偶然と、1585年に応其が選んだ降伏だった。

焼かれなかった聖地 史跡と世界遺産に

高野山は1977年、金剛峯寺の境内が国の史跡「金剛峯寺境内」に指定された。史跡は大門・壇上伽藍・本山・奥院・金剛三昧院・徳川家霊台の6地区からなる。2004年には「紀伊山地の霊場と参詣道」として世界遺産に登録され、2016年には黒河道や女人道などの参詣道が追加された。

敵味方の墓所 奥之院に20万基を超える供養塔

奥之院おくのいんの参道は一の橋から空海のびょう(墓所)まで約2キロあり、20万基を超える墓碑と供養塔が並ぶ。1114年の経塚きょうづか(経典を埋めた塚)の遺物が出土するなど、平安時代から納骨と供養の場だった。戦国の武将は、敵と味方の別なくここに並ぶ。高野山に残る浅井家の過去帳には、信長に殺された万福丸まんぷくまるの法名も書き残されている。

女人堂 七つの登山口に、女性が籠もる堂があった

高野山は816年の開創当初から女人結界にょにんけっかい(女性が山内に入れない決まり)が定められたと伝わる。1872年の太政官だじょうかん布告で全国の結界が解かれたあとも、高野山では明治の後半まで続いた。七つの登山口にはそれぞれ女人堂にょにんどうが置かれ、女性はそこに籠もって祈り、堂と堂を結ぶ尾根道の女人道を歩いた。今も残るのは、不動坂口の女人堂だけである。

高野山の疑問に答える

昔はどの道で登った?

登山道は古くから七つあり、高野七口こうやななくちと呼ばれた。麓の慈尊院じそんいんから登る町石道ちょういしみち、京大坂道、黒河道、大峰道、小辺路、有田龍神道、相ノ浦道の七つである。町石道には、一町(約109メートル)ごとに五輪塔の形をした町石が180基立つ。

真田父子は、高野山ではなく九度山にいた?

そのとおりで、1601年に真田昌幸と信繁が配流されたのは、高野山の麓の九度山だった。九度山には二人が暮らしたと伝わる真田庵(善名称院)があり、境内に昌幸の墓が残る。山の上には真田家ゆかりの蓮華定院があり、今の本堂は1860年の再建で、登録有形文化財になっている。

「高野に臼なし」とは、どんな話?

高野町に伝わる七不思議の一つである。秀吉が割粥わりがゆ(米を砕いて煮た粥)を所望したとき、高野山には米をつく臼がなく、僧は米粒を包丁で二つに切って出した。その切り口の見事さに、秀吉は上機嫌だったと伝わる。町に伝わる話で、記録で確かめられるものではない。

木食応其は、そのあとどうなった?

豊臣家の造営を担いながら、連歌の書『無言抄』を残した。麓では1587年に紀の川に橋を架け、そのたもとの町が橋本と呼ばれて、今の橋本市の名になった。橋本には応其の名を持つ応其寺おうごじが残る。晩年は近江の甲賀の寺で過ごし、1608年に没した。享年は72とも73とも数えられる。

戦国のころの建物は、今も残っている?

秀吉が建てさせた青巌寺は、今の金剛峯寺本坊の一角にあたるが、建物は三度焼け、今あるのは1862年の再建である。大門は1705年、根本大塔は1937年に再建された。奥之院の墓碑と供養塔、徳川家霊台、不動坂口の女人堂、麓の真田庵と橋本の応其寺が、このページの出来事を今にたどる手がかりだ。

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参考にした資料