人物ページ / 1602年〜1671年・紀伊徳川家初代

徳川頼宣とくがわ よりのぶ

徳川頼宣とは?

徳川頼宣とくがわよりのぶは、徳川家康の十男として慶長7年(1602)に伏見で生まれ、8歳から18歳までの約10年間を駿河・遠江50万石の駿府藩主として過ごしました。 元和5年(1619)に紀伊国と伊勢国南部の55万5千石を領して今の和歌山県和歌山市にある和歌山城へ入り、寛文11年(1671)に亡くなるまで紀伊徳川家の初代を務めた人物です。

慶長7年(1602)に生まれ、家康の駿府移住にともなって末の兄弟三人で駿府城内に暮らします。8歳から18歳まで、駿河・遠江50万石の駿府藩主を務めました。
元和5年(1619)、駿府から紀伊と伊勢を加えられ、55万5千石を領して和歌山城に入ります。浅野氏二代の後を受けた入国でした。
元和7年(1621)、幕府から銀2000貫を賜って和歌山城の改修に着手します。二の丸を西へ広げ、砂の丸と南の丸を新しく造成しました。
紀伊徳川家には幕府から付家老が付けられます。伊勢国の松阪と田丸にも支城が置かれました。
寛文6年(1666)、今の和歌山県海南市にある長保寺を菩提寺に定めます。以降、寺の背後の山中に歴代藩主の墓所が営まれました。
寛文11年(1671)に亡くなります。頼宣が父母を祀った和歌の浦には、明治8年(1875)に頼宣を祀る南龍神社が創建されました。

駿府で育つ——家康の末子三人が、城内で一緒に暮らした

徳川頼宣は慶長7年(1602)、徳川家康の十男として伏見で生まれた。家康には11男5女の子があり、そのうち末の三人、九男の義直、十男の頼宣、十一男の頼房は、家康の駿府移住にともなってこの地へ移り、駿府城内で生活していた。三人の屋敷が構えられていたのは二ノ丸と三ノ丸で、今の静岡県庁や静岡市民文化会館があるあたりにあたる。三人はのちにそれぞれ尾張・紀伊・水戸へ移された。

1609年〜1619年 駿府藩主としての、8歳から18歳まで

頼宣は慶長14年(1609)から元和5年(1619)までの約10年間、駿河・遠江50万石を領地として与えられ、駿府城を居城に駿府藩主を勤めている。年齢でいえば8歳から18歳までの時期にあたる。紀伊へ移る前に、すでに一つの大きな領地を預かっていた。

大御所政権 幕府を補助する政権が、同じ城にあった

頼宣が駿府にいた頃の駿府城には、将軍職を秀忠に譲った家康の「大御所政権」が置かれていた。江戸の幕府を確立させるための補助機関にあたり、幕府の基盤が整うまでは実質的に全国を統治する拠点としても働いている。成瀬正成なるせ まさなりや安藤直次らの新参譜代(新たに家臣に加わった譜代)の家臣は「駿府年寄衆」として幕政に関わる取り決めを行った。

母・お万の方 家康の死後も、駿府で暮らし続けた

頼宣の母はお万の方(法名は養珠院)で、家康の死後も駿府で生活を続けた。日蓮宗に帰依しており、静岡市内には今もお万の方にゆかりのある寺院が数多く残されている。

紀伊へ入る——55万5千石を領し、浅野氏二代の後を継いだ

元和5年(1619)、頼宣は駿府から紀伊と伊勢を加えられ、55万5千石を領して和歌山城に入った。紀伊には関ヶ原の合戦の後に浅野幸長あさの よしながが37万6千石で入っており、頼宣の入国は浅野氏二代の後を受けたものである。石高は駿府時代の50万石から5万5千石増えた。

領地の範囲 紀伊のほぼ全域に、伊勢の南部が加わる

紀伊徳川家の領地には、高野山寺領を除く紀伊国の全域と、伊勢国の南部が含まれた。紀伊国の中には領地から外れる区域があり、その一方で、国境をこえた伊勢側にも領地が及んだ。

長く語られてきた説 秀忠が弟を和歌山へ移した、という見方

頼宣がなぜ紀伊へ移されたのかについては、家康の跡を継いだ2代将軍・徳川秀忠とくがわ ひでただが、家康に寵愛された弟の頼宣を和歌山の地へ追いやった、という説が長く有力だとされてきた。

近年示された視点 幕府の軍事戦略から考え直す、という見方

一方で、2025年に開かれた特別展では、当時の幕府の軍事的な戦略を踏まえて御三家が和歌山に置かれた理由を考える、という視点が示されている。二つの見方は同じ公的機関の資料の中に並んでおり、どちらか一方に定まったとは言えない状態にある。

城を改める——銀2000貫を受け取り、二の丸を西へ広げた

和歌山城は、雑賀衆以来の城である岡山に築かれた平山城(丘の上に築いた城)で、豊臣・浅野の時代を経て頼宣の手で改修され、今日のような姿になっている。

1621年 幕府から銀2000貫が下された

元和7年(1621)、頼宣は江戸幕府より銀2000貫を賜り、和歌山城の改修に着手した。入城から2年後のことである。

縄張りの拡張 二の丸を西へ、砂の丸と南の丸を新しく造った

この改修で、頼宣は二の丸を西に広げ、砂の丸と南の丸を新たに造成した。浅野氏の時代からあった本丸・二の丸・西の丸の屋敷や、岡口門から一の橋の方面へ移されていた大手門はそのまま引き継がれ、頼宣の工事によって城の縄張りはさらに広がった。

付家老と支城——新宮に水野家、田辺に安藤家が置かれた

紀伊徳川家には、幕府から付家老(幕府が大名家に付けた家老)が付けられた。新宮には水野家、田辺には安藤家が配され、それぞれ支藩を形成している。伊勢国の松阪と田丸にも支城が置かれ、55万5千石の領地は複数の拠点で支えられた。

傅役から付家老へ 田辺の安藤直次は、頼宣の教育係だった

田辺城の城主となった安藤直次は、頼宣を傅役(今でいう教育係)として支えた人物である。直次は駿府年寄衆の一人でもあり、頼宣の駿府時代と紀伊時代の両方につながる。安藤家は紀伊藩で藩主やその一族に次ぐ地位にあり、直次は明治時代に田辺市の藤巌神社に祀られた。

付家老の顔ぶれ 資料によって、挙げる家が分かれる

付家老としてどの家を挙げるかは、資料によって挙げる家が異なる。新宮の水野家と田辺の安藤家を挙げる資料がある一方、三浦家を紀伊藩の付家老と記す資料もある。三浦家については、参勤交代の際に藩主へ同伴するのが通例だったと記されている。

菩提寺を定める——長保寺の裏山に、歴代藩主の墓所が営まれた

寛文6年(1666)、頼宣は長保寺を菩提寺(先祖代々の墓を置く寺)に定めた。長保寺は今の和歌山県海南市下津町にあり、三方を山に囲まれた、11世紀以来の地方有数の名刹(由緒ある大きな寺)である。以降、同寺の背後の山中に、歴代紀州藩主の墓所が営まれた。

和歌山藩主徳川家墓所 近世大名の墓所の代表例とされる

この墓所は全国的に見ても規模が大きく、墓碑や石燈籠とともに、墓所を造成する石垣などの石造遺構が残る。近世大名墓所の代表例であり、江戸時代の墓や葬儀のあり方を知るうえでも貴重な遺構として、国の史跡に指定されている。

墓碑のない二人 将軍になった子孫は、ここに墓碑がない

紀伊徳川家の歴代藩主のうち、5代藩主の吉宗と13代藩主の慶福は将軍に就任した(吉宗は8代将軍、慶福はのちの14代将軍・徳川家茂)。この二人は将軍になったため、長保寺の墓所には墓碑がない。吉宗は寛永寺、家茂は増上寺に埋葬されている。

頼宣をめぐる記録——一通の書状、和歌の浦、明治の神社

頼宣は寛文11年(1671)に没した。紀伊徳川家の支配は明治維新で終わるが、頼宣にまつわるものは、資料や土地の名として今も残っている。

残された書状 江戸への取りなしを頼む、藩主の手紙

頼宣が、幕府の六人衆(のちの若年寄)を勤める朽木稙綱にあてた書状が伝わっている。江戸に滞在していた家臣の三浦為時が「御暇」(暇乞いの許可)を得た際、手厚い処遇を受けたことへの謝意と、取りなしを求める内容である。作成年代は、寛永13年(1636)から慶安2年(1649)までの時期が想定されている。

和歌の浦と南龍神社 旧藩士が奔走して、明治8年に創建された

頼宣は、風光明媚な名所として知られる和歌の浦に父母を祀った。明治維新で紀伊徳川家の支配は終わったが、紀伊徳川家を慕う旧藩士たちが奔走し、明治8年(1875)にこの地へ頼宣を祀る南龍神社が創建された。

肖像画 描かれたのは、近代に入ってから

「徳川頼宣肖像」と呼ばれる肖像画が和歌山市湊本町の博物館にある。制作は近代に入ってからで、頼宣の没後にあたる。

徳川頼宣の疑問に答える

「紀州藩」と「紀伊藩」、呼び方はどちらなのか

資料によって書き方が分かれる。元和5年(1619)の入国を「紀州藩が成立した」と記す資料があり、同じ年から頼宣を「紀伊藩の初代藩主」と記す資料もある。家についても「紀州徳川家初代」と書く資料と「紀伊徳川家」と書く資料があり、どちらか一方が正式だと決めている公的資料は、今回は確認できなかった。

頼宣は御三家の筆頭だったのか

今回当たった公的資料の中に、紀伊を御三家の筆頭とする記述はない。三家を並べるときは尾張・紀伊・水戸の順で書かれることが多いが、その順序が序列を示すと明記した資料も見あたらなかった。御三家という仕組みそのものの説明は、御三家のページにまとめている。

兄と弟は、どこへ行ったのか

駿府城内で一緒に暮らした三人のうち、九男の義直は尾張、十一男の頼房は水戸へ移された。水戸については、関ヶ原の合戦の後、家康が水戸を東北の外様大名の脅威を阻む土地と判断して頼房を25万石で封じたのが始まりだと記されている。水戸の石高は、のちに35万石まで増えた。

大坂の陣には出陣したのか

慶長19年(1614)から元和元年(1615)の大坂の陣は、頼宣が駿府藩主だった時期にあたる。ただし、今回当たった公的資料には頼宣個人の動きについての記述がなく、出陣したかどうかをここで断定することはできない。戦いそのものの経過は、大坂の陣をたどるページに譲る。

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参考にした資料