要点
- 秀吉の「天下人の証明」として建てられた。奈良の大仏を上回る大仏を京都に建てることは、聖武天皇や源頼朝(東大寺再建)に連なる事業だった。刀狩で集めた武器を大仏の釘に使うと告知したのもこの大仏。
- とにかく壊れ続けた大仏だった。完成目前の1596年に大地震で大破し、秀吉は開眼を待たず死去。秀頼の再建も鋳造中の火災で焼け、次の再建がようやく完成に近づいたのが1614年だった。
- 梵鐘の銘文が、大坂の陣の引き金になった。1614年に完成した鐘の銘文「国家安康」「君臣豊楽」を家康側が問題視し、開眼供養(仏に魂を入れる完成式典)は中止。交渉の決裂が大坂冬の陣につながった。
- 「京の大仏」は江戸時代も名物であり続けた。大坂の陣で豊臣家は滅んだが、大仏と大仏殿は壊されず、京都の名所として親しまれた。地震や落雷で姿を変えながら、大仏の系譜は昭和まで続いた。
- 鐘と大仏殿跡は今も見られる。問題の銘文が刻まれた梵鐘は方広寺に現存し(重要文化財)、大仏殿跡と石塁・石塔は国の史跡。旧境内は豊国神社・京都国立博物館・三十三間堂のあたりまで及ぶ広大なものだった。
建てては壊れた「京の大仏」の年表
- 011586年ごろ、秀吉が大仏を発願
東大寺にならった大仏を京都に建てる大事業が始まる。刀狩令では、差し出した武器を大仏殿の釘やかすがいに使うと告げられた。
- 021595年ごろ、大仏殿がほぼ完成
木製に漆と金箔を施した大仏が納められた。しかし翌1596年、慶長伏見地震で大仏は大破する。「自分の身も守れないのか」と秀吉が大仏を叱ったという逸話は、このときの話として伝わる。
- 031602年、再建中の大仏が焼失
秀吉の死後、秀頼が金銅の大仏を再建していたが、鋳造作業中の火災で大仏殿ごと焼けた。
- 041612年ごろ、秀頼の再建が完成へ
家康の勧めもあり、秀頼は莫大な費用をかけて大仏と大仏殿を再建。豊臣家の蓄えた金銀が、この事業で大きく減ったといわれる。
- 051614年、梵鐘完成→開眼供養が中止に
鐘の銘文は南禅寺の僧・文英清韓が起草。「国家安康」「君臣豊楽」の句を家康側が問題視し、完成式典は直前で中止された(方広寺鐘銘事件)。この年の冬、大坂冬の陣が始まる。
- 06江戸時代〜昭和、「京の大仏」のその後
大仏と大仏殿は大坂の陣後も残り、京都の名所として親しまれた。その後、地震での損壊や再建を経て、1798年に落雷で大仏殿ごと焼失。江戸後期に作り直された像も昭和48年(1973)の火災で失われ、大仏の系譜はここで途絶えた。
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| 意味 | 方広寺では | |
|---|---|---|
| 梵鐘 | 寺の釣り鐘。時を告げ、法要で撞かれる | 1614年鋳造。高さ4メートル余り・重さ80トン超と伝わる巨鐘で、東大寺・知恩院の鐘と並び称される。重要文化財 |
| 鐘銘・銘文 | 鐘の表面に鋳込まれた文章。寺の由来や願いを漢文で記す | 文英清韓の起草。「国家安康」「君臣豊楽」の8文字が事件になった。銘文の草稿も文化財として残る |
| 開眼供養 | 完成した仏像に目を描き入れ、魂を迎える式典。これをもって仏像は「完成」する | 1614年8月に予定されていたが、家康の命で直前に中止。この中止が交渉決裂の始まりになった |
| 大仏殿 | 大仏を納める巨大な仏堂 | 東大寺大仏殿を上回る規模だったと伝わる。跡地と石塁・石塔が国の史跡 |
方広寺から、豊臣家の最期を読む
- 大仏は「豊臣家の公共事業」だった。秀吉にとっては天下人の証明、秀頼にとっては家の威信の回復。そして家康にとっては、豊臣家の金銀を寺社の造営に使わせる出口でもあった。再建を勧めたのが家康自身だったことは、この場所の意味を考えるうえで外せない。
- 「完成の直前」を狙われた。開眼供養は仏像に魂を入れる仕上げの式典で、これが済めば大仏は完成し、豊臣家の大事業は成就する。その直前での中止だったからこそ、豊臣側は引くに引けなくなった。
- 建物は残り、家は滅んだ。大坂の陣で豊臣家は消えたが、徳川は大仏を壊さなかった。「京の大仏」が江戸時代を通じて名所であり続けたことは、事件が大仏そのものではなく、豊臣家の扱いをめぐる政治だったことをよく示している。