場所ページ / 静岡県浜松市天竜区・天竜川と二俣川の合流点

二俣城ふたまたじょう

二俣城とは?

今の静岡県浜松市天竜区にある山城で、1572年に武田信玄が水の手を断って落とし、1575年に徳川家康とくがわ いえやすが奪い返した城。

1579年に家康の長男・松平信康のぶやすが自害した城でもあります。城跡は今、公園として歩けるようになっています。

1560年、桶狭間の戦いをきっかけに、今川方の松井宗恒まつい むねつねがこの丘で城の整備を進めたと考えられています。
1568年、家康が遠江へ進攻すると二俣城も徳川の側に移り、家康は鵜殿氏長うどの うじながらに城の防備を命じます。
1572年、武田信玄が11月に城を囲み、水の手を断って11月末に開城させます。この城を得た信玄は、12月22日に三方ヶ原で家康を破ります。
1575年、長篠の戦いのあと家康は南の鳥羽山に本陣を置いて城を囲み、12月に城を取り戻します。
1579年、家康の長男・松平信康がこの城で自害します。
1590年に家康が関東へ移ると堀尾吉晴が二俣城と鳥羽山城を領有し、天守台と石垣を備えた城に造り替えます。
1600年に堀尾氏が国替えになって城は役目を終え、遅くとも1615年の一国一城令までに廃城となります。

基本情報

今の場所静岡県浜松市天竜区二俣町二俣。城跡は城山公園の中
立地天竜川が山地を抜けて平野に移る転換点。西は天竜川、東は旧二俣川
規模南北300m・東西250m
おもな曲輪くるわ北の丸・本丸・二の丸・南の丸・西の丸
指定国の史跡「二俣城跡及び鳥羽山城とばやまじょう跡」(2018年2月13日指定)

城主の移り変わり

時期城主・在番
1560年ごろ松井宗恒(今川方。整備を進めたとされる)
1568年〜1572年鵜殿氏長ら(徳川方。家康が守りを命じた)。1572年に城を守ったのは中根正照・青木吉継と伝わる
1572年〜1575年依田信蕃よだ のぶしげら(武田方の在番)
1575年〜大久保忠世おおくぼ ただよ(徳川方。奪還のあとに入る)
1590年〜1600年堀尾宗光ほりお むねみつ(豊臣方。入ったと考えられている)

築城——桶狭間のあと、川に挟まれた丘で城が形になる

二俣城が、いつ誰の手で建てられたのかは定かでない。城が整えられていくのは1560年、今川義元いまがわ よしもとが桶狭間で討たれたあとのことで、進めたのは今川方だった。

水陸の交わる所 天竜川の舟運と街道が出会う

二俣は、天竜川が山地を抜けて平野に移る転換点にある。天竜川の舟運と秋葉街道あきはかいどう(信濃と遠江を南北に結ぶ道)がここで出会い、南は浜松と遠州灘えんしゅうなだ(遠江の南に広がる海)、北は遠江北部から信濃へ通じた。東西に見れば、三河と遠江東部を結ぶ線の上でもある。

三方を川に 二俣川が城と城の間を流れていた

城が置かれた丘は、西を天竜川、東を二俣川に挟まれ、南ではその二つが合流していた。三方を川で固めた地形である。二俣川は1791年(寛政3年)に流路が付け替えられるまで、二俣城と南の鳥羽山城の間を流れていた。今、旧二俣川と呼ばれているのがこの流れである。堀を掘る前から、川そのものが城の守りになっていた。

今川方の城として 曲輪を階段状に並べた骨格ができる

丘の上に曲輪を階段状に並べるこの城の骨格は、今川氏と、そのあとの徳川氏の手でできたものである。この段階ではまだ石垣はなく、丘を削って段を作った土の城だった。

徳川へ——今川が退いた遠江で、家康が鵜殿氏長に城を預ける

桶狭間で今川義元が討たれたあと、今川氏の遠江支配はゆるんでいった。1568年、徳川家康は遠江への進攻を本格化させ、二俣城も徳川の側に入る。家康は、手に入れたこの城の守りをすぐに固めている。

1568年 家康が、氏長らに城の守りを命じる

家康は二俣城が徳川の影響下に入ると、鵜殿氏長らにこの城の防備を命じた。氏長は上ノ郷城主・鵜殿長照うどの ながてるの子で、1562年に上ノ郷城(今の愛知県蒲郡市)が落ちたときに捕らえられ、家康の正妻と長男・信康の身柄と交換される形で解放された人物である。

守りの枠組み 籠城の人数は今川時代のまま

家康は1568年12月、いざ籠城となったとき二俣城へ詰める人数を、今川時代のとおりと定めた。城に詰めるのは氏長と、二俣の地元衆23人である。起請文に書かれているのは城に詰める侍の頭数で、それぞれが何人を率いたかは分からない。

落城——天竜川から水を汲む縄を、切られる

1572年10月、武田信玄は甲斐を発って遠江へ入った。二俣城の攻略は、この侵攻のはじめからの目的の一つだった。ただし、川に守られたこの城は、力攻めでは落とせなかった。

10月10日 攻める前に、地元を切り崩す

信玄は1572年10月10日、今の磐田市の土豪どごう(その土地の有力者)に対して、二俣城を早く自分の側に付けるよう命じた。遠江へ入ったその月のうちに、この城は名指しで攻略の目標にされている。

11月 攻撃が始まっても、城は持ちこたえた

武田軍が二俣城への攻撃を始めたのは1572年11月である。城を守ったのは中根正照なかね まさてる青木吉継あおき よしつぐだったと伝わる。城はよく抵抗し、押し寄せるだけでは落ちなかった。

水の手 崖の上から、川の水を汲んでいた

二俣城の水の手(飲み水を汲む場所)は、崖の上から滑車を下ろして天竜川の水を汲むものだった。ここを攻めれば落ちると山県昌景やまがた まさかげ馬場信春ばば のぶはるが進言し、武田軍は大綱でいかだを組んで上流から流しかけて、釣瓶つるべの縄を切り井戸櫓いどやぐらを壊したと伝わる。水を断たれた城は、降参を申し入れて城を出た。

検証 軍記だけの話ではない

滑車と筏の場面は、徳川方の家臣が後年に書き残した記録による。ただし水の手を断つ戦法そのものは、囲みのさなかの1572年11月27日に武田方が書き送った書状にも見える。水の手を取ったので城方は天竜川から水を汲んでいること、そこで船を城の岸に寄せて汲み上げの縄も切ったので、それもかなわなくなったこと、あと三日のうちに城は落ちるだろうことが書かれている。

検証 開城は12月19日ではなく、11月晦日

二俣城が開いた日は、長く12月19日とされてきた。しかし、二俣城攻めには武田に味方していた北条方の軍勢も加わっていた。その報告をもとに北条氏政ほうじょう うじまさが12月8日付けで書き送った書状には、二俣城が去る晦日(月の最後の日)に降参して城を出たとある。開城は11月晦日だった。傍証もある。12月28日付けの信玄の書状に、二俣城の普請ふしん(城の造作や修理)ができたと記されている。城を攻め取ったあとに普請をしているのだから、19日の開城では普請の日数が取れない。

奪還——鳥羽山に本陣を置き、七か月囲む

信玄は1573年4月に病死したとされるが、二俣城は武田方の手に残った。家康はこの城を何度か攻めているが、いずれも取り返せていない。本格的な奪還が始まるのは、1575年5月の長篠の戦いで武田勝頼たけだ かつよりが敗れたあとである。

1575年5月末 砦で外から締め上げる

家康は1575年の5月末から二俣城を囲んだ。南の鳥羽山城に本陣を置き、周囲に毘沙門堂びしゃもんどう蜷原にながはら和田ヶ島わだがしまの砦を築いて、城への出入りを断っていった。

守った側 父を失いながら、城を保った

城を守ったのは、武田方の城将・依田信蕃らである。籠城のさなかの6月19日に、城にいた父が病死したと伝わるが、信蕃はそのまま城を持ちこたえた。囲みは、5月末から12月まで七か月に及んだ。

12月 城を渡す日が、雨で一日延びる

兵粮ひょうろうが尽きても城は落ちず、開城は勝頼からの指示で決まった。12月23日に城を渡す約束だったが、その日は雨だった。信蕃が、雨降りでは笠をかぶることになって見苦しいので晴れてからにしたいと申し出て、家康もこれを聞き入れたと伝わる。翌24日、晴れた日に城は渡され、二俣川のほとりで両軍が人質を返し合って引き揚げた。

城主 大久保忠世が、北の守りを預かる

家康は三年ぶりに二俣城を取り戻した。城主となった大久保忠世は、この城を拠点に遠江北部の防備にあたる。

信康——1579年、家康の長男がこの城で自害する

1579年、徳川家康の長男・松平信康は、この二俣城で自害した。命日は9月15日とされ、享年21。二俣に残っているのは、遺骸を葬った寺と、そこに建てられた廟である。

1581年 家康が、寺の名を清瀧寺と付けた

信康の遺骸は、二俣のこの地にあった草庵に埋葬された。1581年に家康がここを訪れ、清水の湧き出るのを見て寺の名を清瀧寺せいりゅうじと名付け、信康に清瀧寺殿のおくりなを贈った。寺は二俣城跡から歩いて行ける距離にある。

墓は二つに分かれた 首は岡崎へ送られた

清瀧寺の廟に納められているのは、信康の首から下の骨である。首は織田家のもとへ送られ、今は愛知県岡崎市の若宮八幡わかみやはちまんに首塚がある。

廟に並ぶ墓 この城を守った人たちも眠る

清瀧寺の信康廟は1771年に建てられ、三つ葉葵の朱門の内側に五輪塔が立つ。廟所には信康の墓のほか、信康に殉じた吉良於初きら おはつ、二俣城主だった大久保忠世、三方ヶ原で戦死した中根正照と青木吉継の墓が並ぶ。

石垣——堀尾氏が天守台を築き、鳥羽山と役割を分ける

1590年に家康が関東へ移ると、遠江西部は豊臣秀吉とよとみ ひでよしの家臣・堀尾吉晴の領有になった。堀尾氏は二俣城と、南の鳥羽山城を一体で持っている。土を削って造る中世の山城に石垣が入るのは、この十年のことである。

二俣城 本丸に石垣、西の中央に天守台

二俣城には、堀尾氏の手で本丸を中心に石垣が築かれ、西側の中央に天守台てんしゅだいが造られた。天守も建てられた可能性が高い。城主には吉晴の弟・宗光が入ったと考えられている。本丸の門跡からは礎石と、安土桃山時代までさかのぼる瓦が見つかり、石垣と瓦を使う城へ造り替えられたことが発掘で確かめられた。

鳥羽山城 庭園と、幅9mの大手道

鳥羽山城は、二俣城の南に横たわる独立した丘に築かれている。本丸には枯山水の庭園と礎石の建物があり、最大で幅9mの大手道が通る。斜面の上のふちを固める鉢巻石垣はちまきいしがきと、下のふちを固める腰巻石垣こしまきいしがきを備え、南に浜松平野を見晴らす。戦うためというより、人を迎えて住むための城である。

別城一郭 二つで一つの城として働いた

二俣城が要塞、鳥羽山城が客を迎える館と、二つの城は役割を分けていた。この形を別城一郭べつじょういっかくという。機能の違いが遺構にはっきり表れていることが、二つをまとめて国の史跡に指定する理由になった。

検証 川を行く船から、見せるための石垣

二俣城の石垣は、長いあいだ、大手門のある東側からの見え方を重んじたものと考えられてきた。ところが2015年の発掘で、西の曲輪の西面にも石垣が見つかった。残っているのは高さ約1.3mだが、もとは2.5〜3mあったとみられる。城の西側は二俣川と天竜川の合流点で、当時は舟運が盛んだった。西の曲輪の石垣は、川を行く船からの見え方を意識して築かれたのではないかとみられている。眼下の「川口」と呼ばれる集落は、船で城へ通うときの玄関口だった可能性がある。

役目の終わり——古城になり、国の史跡になるまで

1600年に堀尾氏が国替えになると、二俣城は役目を終えた。城は、遅くとも1615年の一国一城令いっこくいちじょうれい(一つの国に城は一つとする幕府の法令)までに廃城となった。

古城として 廃城のあとも、絵図に描かれ続けた

二俣城は、廃城になったあとも「古城」として絵図に描かれた。1712年までに作られた清瀧寺の寺領の絵図には、天守台の石垣が残る姿が描かれている。

2018年 二つの城跡が、国の史跡になった

二俣城跡と鳥羽山城跡は、2018年2月13日に国の史跡に指定された。中世の土づくりの山城に近世の石垣が導入された初期の姿が、良好に残っていることが評価されている。その構造が分かったのは、2009年から2015年にかけての測量と発掘によってである。

今も続く 信康をしのぶ行事が、町に残った

二俣では、信康をしのぶ行事が今も続いている。信康まつりは1961年に第1回が開かれ、1968年からは11月に行われるようになった。信康廟での供養のあと、武者行列が旧城下町を歩く。命日には、2009年にできた信康の会による慰霊法要が清瀧寺で営まれている。

二俣城の疑問に答える

二俣城跡へは、どうやって行く?

天竜浜名湖鉄道の二俣本町駅から歩いて10〜20分ほど、国道152号沿いの城山公園が城跡になる。入口に数台分の駐車場と公衆トイレがある。南の鳥羽山城跡は鳥羽山公園として整備されていて、こちらも二俣本町駅から歩ける。

「二俣古城」って、別の城?

二俣の町の北にあった笹岡城ささおかじょうのことで、二俣城はここから今の丘へ移ったとされる。笹岡・城山(今の二俣城跡)・鳥羽山は直線で2kmほどの範囲に散らばり、いずれも二俣の内だった。そのため、史料に出てくる「二俣城」がどれを指すのか分からない場合が多い。

現地には何が残っている?

二俣城跡には、本丸の天守台と石垣、尾根を断ち切る堀切ほりきりと斜面を縦に落ちる竪堀たてぼり、北の丸・二の丸・南の丸・西の丸の曲輪が残る。清瀧寺の山門の手前には、武田軍が流した筏で壊されたと伝わる井戸櫓が再現されている。もとどこに建っていたかは分かっていない。

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参考にした資料