三方ヶ原の戦いとは?
- 1572年、武田信玄が徳川家康を大破した。遠江へ侵攻した信玄の軍に、浜松城を出た家康が三方ヶ原で挑み、大敗して城へ逃げ帰った。
- 家康は城にこもらず出て戦った。信玄は浜松城を攻めずに三方原の台地へ上がり、北の祝田へ向かった。『浜松市史』は、敵を浜松から誘い出して打撃を与える信玄の作戦だったとみている。
- 信長も援軍を送った。佐久間信盛らが浜松へ送られ、家康は援軍を含む全軍で城を出た。援軍の大将平手汎秀は戦死し、佐久間信盛・水野信元は逃走した。
- 信玄は翌年に病死した。勝った信玄は翌1573年に三河まで進んだが、病が悪化して甲府へ戻る途中、4月12日に死去した。
- 後世に多くの伝承が生まれた。敗戦の姿を描かせたと伝わる肖像画「しかみ像」など、この戦いは後世の家康像と結びつき、さまざまな話を生んだ。
最初に押さえる3点
- 三方ヶ原は、家康と信玄が正面からぶつかった大きな戦い。
- 家康は大敗した。ここをぼかさない方が、後の家康の立て直しが分かる。
- 戦いの翌年に信玄が死去し、武田氏との力関係はその後変わっていく。
関係人物と場所
| 徳川家康 | 浜松を拠点に遠江を治めていた大名。三方ヶ原で武田軍に敗れます。 |
|---|---|
| 武田信玄 | 甲斐の戦国大名。遠江へ侵攻し、家康軍を破ります。 |
| 二俣城 | 三方ヶ原の前に武田方が攻略した重要な城。信玄の遠江侵攻の流れをつかむ場所です。 |
| 浜松城 | 家康が1570年から本城とした城。敗戦後の家康が戻る拠点です。 |
| 平手汎秀 | 信長が送った援軍の大将。敗れて浜松城に入れず、稲葉(今の浜松市東伊場)で戦死します。 |
一本の流れで置く
家康が城を出たときの状況
遠江の地侍が揺らぐ
二俣城が落ちると、遠江の地侍で信玄に味方する者が多くなりました。浜松衆の一人、貫名藤五郎も武田軍に加わり、三方原で戦死しています。
信玄は浜松城を攻めない
信玄は天竜川を渡って三方原の台地に上がり、北の祝田の坂で止まりました。『浜松市史』は、敵を浜松から誘い出して打撃を与える作戦だったとみています。
信長の援軍も加わる
家康は信長からの援軍を含む全軍で城を出て、武田軍の後方につきました。国立公文書館は、織田方を合わせて1万余りの家康軍が、およそ2万5千の武田軍に討って出たと紹介しています。
くわしい経過ははっきりしない
戦いの日誌がないため、経過ははっきりしません。『三河物語』によれば、家康軍は武田軍の一の手・二の手を切り崩したものの、信玄の旗本の逆襲を受けて敗れたといいます。
家康の敗北が大事な理由
家康は関ヶ原と江戸幕府の印象が強いため、最初から大勢力だったように見えます。しかし三方ヶ原の時点では、武田信玄の遠江侵攻に正面から苦しめられる立場でした。
三方ヶ原を入れると、信長との同盟がなぜ家康に必要だったのか、長篠の勝利がなぜ大きいのか、そして家康が長い時間をかけて勢力を大きくしたことが見えます。「待つ家康」という像だけでなく、危険な局面で戦い、敗れた経験も持つ大名として読めます。
| 徳川方 | 武田方 | |
|---|---|---|
| 戦いの直後 | 大敗して浜松城へ逃げ帰る。多くの家臣を失う。 | 刑部で年を越し、翌年正月に三河の野田城を攻め落とす。 |
| 翌年 | 信玄の死後、巻き返しを図って二俣城を攻める。 | 信玄が甲府へ戻る途中で病死し、勝頼が跡を継ぐ。 |
| 長期的に | 1575年の長篠で信長とともに武田勝頼軍を破り、二俣城を取り戻す。 | 長篠で織田・徳川の連合軍に大きな打撃を受ける。 |
家康は大敗したが、信玄は翌年に死去し、その後は跡を継いだ勝頼との戦いが続いた。
伝承と史実を分けて楽しむ
三方ヶ原には、敗戦を戒めるため家康が描かせたと伝わる「しかみ像」をはじめ、有名な話が多くあります。浜松市博物館も、この戦いが後世に大きな影響を与え、さまざまな伝承やイメージが形成されたことを紹介しています。
『浜松市史』は、浜松城に逃げ帰った家康が城門を開いたままにさせ、追ってきた武田軍の先鋒は城門まで来て引き揚げたこと、犀ケ崖の北に陣した信玄の軍を家康が夜襲させたが、それほどの効果はなかったとみられることを記しています。
まず確実な骨組みとなるのは、1572年に家康が信玄に大敗し、多くの家臣を失いながら浜松城へ戻ったことです。肖像の制作事情や個々の逸話は、同時代の記録と後世の語りを区別すると、史実と「敗北から学ぶ家康」という人物像の両方を楽しめます。
伝承 敗戦の姿を描かせた「しかみ像」
家康が後年、三方ヶ原の敗戦を肝に銘ずるためにその姿を描かせ、慢心の戒めとして生涯そばに置いたと伝えられる。徳川美術館が所蔵する「徳川家康三方ヶ原戦役画像」で、別名「顰(しかみ)像」とも呼ばれる。
史料 大敗したこと自体は確か
国立公文書館の年表は、元亀3年(1572)12月22日の三方原の合戦で鳥居忠広をはじめ家臣の多くが討ち死にし、大敗したと記す。肖像画を描かせた経緯は「伝えられる」話として読む。
ここだけ覚える
- 三方ヶ原は1572年、家康と武田信玄が浜松近くで戦った合戦。
- 家康は大敗し、多くの家臣を失った。
- 戦いの翌年に信玄が死去し、武田氏との力関係は変わっていく。
- 三方ヶ原 → 長篠まで見ると、家康と武田の関係がつながる。
- 家康を「最後に勝った人」だけで見ないための重要な敗戦。
三方ヶ原の戦いについてのよくある疑問
なぜ家康は城を出て戦ったのか?
家康自身がどう考えて出撃したかは、このページの資料では確かめられません。『浜松市史』によれば、信玄は浜松城を攻めずに三方原の台地を北へ進み、敵を浜松から誘い出して打撃を与える作戦をとりました。家康は信長からの援軍を含む全軍を率いて城を出て、武田軍の後方につき、日暮れ(午後4時すぎ)に攻撃を始めています。
信長の援軍はどうなったのか?
『信長公記』によれば、信玄が二俣城を囲んだとの知らせを受けた信長は、家老の佐久間右衛門(信盛)・平手甚左衛門・水野下野守を大将として浜松へ兵を送りました。同書は、一番合戦で平手甚左衛門とその家臣らが討死したと記しています。『浜松市史』によれば、援軍の大将平手汎秀は浜松城に入れず、東海道の今切へ向かう途中の稲葉(今の浜松市東伊場)で戦死し、佐久間信盛・水野信元は逃走しました。
「しかみ像」は本当に三方ヶ原の敗戦を描いたものか?
文化遺産オンラインは、家康が後年この敗戦を肝に銘ずるためにその姿を描かせ、生涯座右を離さなかったと「伝えられる」と紹介しています。肖像画は徳川美術館にありますが、描かせた経緯は伝承として読むのが安全です。
三方ヶ原のあと、家康はどうなったのか?
家康は浜松城へ逃げ帰り、『浜松市史』によれば、敗戦で元気を失って目立つ動きをしていません。信玄は刑部で年を越して三河の野田城を攻め落としましたが、病が悪化して甲府へ戻る途中、1573年4月12日に死去しました。その後家康は二俣城の奪還を図り、1575年の長篠の戦いでは信長とともに武田勝頼軍を破ります。
5問クイズ
Q1. 三方ヶ原で家康と戦った武将は?
A. 武田信玄です。
Q2. 三方ヶ原の戦いが起きた年は?
A. 1572年です。
Q3. 戦いの結果、家康はどうなった?
A. 大敗しました。
Q4. 家康が本城としていた城は?
A. 浜松城です。
Q5. 次に見るとつながる武田との戦いは?
A. 長篠の戦いです。
参考にした資料
- 国立公文書館「徳川家康関係年表」(元亀3年〔1572〕12月22日の三方原の合戦で鳥居忠広をはじめ家臣の多くが討ち死にし大敗したこと、天正3年〔1575〕5月21日の長篠の戦いで武田勝頼軍に壊滅的打撃を与えたこと)
- 国立公文書館「三方原の戦い」(元亀3年10月の信玄の遠江侵攻、織田方を合わせた家康方1万余りと武田方およそ2万5千、家康方の大敗、翌年三河まで進んだ信玄が甲府へ戻る途中の4月12日に死去し、以後は勝頼との戦いが続いたこと)
- 浜松市「三方ヶ原の戦いと家康伝承」(浜松市博物館の特別展案内。この戦いが後世に大きな影響を与え、さまざまな伝承やイメージが形成されたこと)
- 浜松市「浜松市文化財情報vol.94」(二俣城の項に、元亀3年10月10日に信玄が土豪に二俣城への調略を命じ、11月に攻め始め、水の手を断って開城させたこと、12月22日の三方ヶ原での勝利と刑部砦での越年、信玄の死後に家康が二俣城攻めを重ね、長篠の戦いの後に奪還したこと)
- 浜松市立中央図書館「浜松市文化遺産デジタルアーカイブ」『浜松市史 二』「浜松在城の期間」(元亀元年六月の入城から天正14年12月に駿府へ移るまで家康が浜松に在城したこと、移るときに岡崎を信康に与えたこと)
- 同『浜松市史 二』「引馬を浜松と改める」(家康が入城のとき引馬を浜松と改めたと伝えられること)
- 同『浜松市史 二』「家康信玄と絶つ」(元亀元年10月、家康が上杉輝虎に誓書を送り信玄との絶縁を誓ったこと)
- 同『浜松市史 二』「信玄の行動開始」(元亀2年、信玄が遠江の高天神城を囲み、北三河・東三河へ攻め入ったこと)
- 同『浜松市史 二』「二俣城陥落」(二俣城の開城後、遠江の地侍で信玄に味方する者が多くなり、浜松衆の貫名藤五郎も武田軍に加わって三方原で戦死したこと)
- 同『浜松市史 二』「信玄の進軍」(12月22日、信玄が天竜川を渡って三方原の台地に上がり、祝田の坂で休止したこと)
- 同『浜松市史 二』「家康の出撃」(家康が信長からの援軍を含む全軍で浜松城を出て、武田軍の後方についたこと)
- 同『浜松市史 二』「信玄の作戦」(敵を浜松から誘い出して打撃を与える信玄の作戦と、日暮れ〔午後4時すぎ〕に家康が攻撃を始めたこと)
- 同『浜松市史 二』「家康の敗走」(戦いの日誌がなく経過ははっきりしないこと、『三河物語』に見える、一の手・二の手を切り崩したのちの信玄旗本の逆襲による敗戦)
- 同『浜松市史 二』「平手汎秀の戦死」(信長の援軍の大将平手汎秀が浜松城に入れず今切〔浜名郡舞阪町〕へ向かう途中、稲葉〔浜松市東伊場〕で戦死したこと、佐久間信盛・水野信元の逃走、浜松城に逃げ帰った家康が城門を開いておかせ、追撃してきた武田軍の先鋒が城門まで来て引き揚げたこと)
- 同『浜松市史 二』「犀ケ崖の夜戦」(犀ケ崖の北に陣した信玄を家康が夜襲させたが、それほどの効果はなかったとみられること)
- 同『浜松市史 二』「信玄刑部に越年する」(信玄が刑部で年を越したこと、家康方は敗戦で元気を失い目立つ動きをしていないこと)
- 同『浜松市史 二』「野田城の攻略」(元亀4年正月、信玄が刑部を発って三河の野田城を攻略したこと)
- 国立国会図書館デジタルコレクション「信長公記 巻之上」(太田牛一著、1881年刊)(巻之五〔元亀3年〕38コマに、霜月下旬に信玄が二俣城を囲んだとの知らせを受け、信長が家老の佐久間右衛門・平手甚左衛門・水野下野守を大将として浜松へ兵を送ったこと、12月22日の一番合戦で平手甚左衛門とその家臣らが討死したこと)
- 文化庁「文化遺産オンライン」徳川家康三方ヶ原戦役画像(徳川美術館蔵。家康が後年この敗戦を肝に銘ずるため姿を描かせ、生涯座右を離さなかったと伝えられること、別名「顰(しかみ)像」)