人物ページ / 生年不詳–1572年 / 三方ヶ原

平手汎秀ひらて ひろひで

平手汎秀は、信長が徳川家康のもとへ送った援軍の大将として三方ヶ原の戦い(1572年)に加わり、戦死した武将です。

この人物を先に理解する

何を担った人物か

元亀3年(1572)10月、武田信玄たけだ しんげんが遠江(今の静岡県西部)へ侵攻を始めます。浜松城にいた家康は、織田方からの加勢を合わせた1万余りの軍勢で、およそ2万5千の武田軍に討って出ましたが、多くの家臣を失う大敗となりました。汎秀はこのとき信長が送った援軍の大将でした。敗れたあと浜松城に入ることができず、東海道の今切いまぎれ(浜名郡舞阪町)へ向かいましたが、途中の稲葉いなんば(今の浜松市東伊場)で戦死しました。佐久間信盛のぶもり・水野信元みずの のぶもとは逃走しています。

時系列

元亀3年(1572)10月
武田信玄、遠江へ侵攻

前年に北条氏と再び同盟を結んだ武田信玄が、これをきっかけに遠江へ兵を進めます。このとき行われた戦いの一つが三方ヶ原の戦いです。

1572年
家康への援軍

信長は家康のもとへ援軍を送り、汎秀がその大将を務めました。

元亀3年(1572)
三方ヶ原で戦死

家康方は大敗し、汎秀は浜松城に入れないまま、稲葉(今の浜松市東伊場)で戦死しました。信玄が12月28日付で朝倉義景あさくら よしかげに送った手紙には、家康軍と信長軍の戦死者は千人ほどと書かれています。

天正元年(1573)4月
信玄の死去

信玄は三河国まで兵を進めますが病が悪化し、甲府へ戻る途中の4月12日に亡くなります。以後、信長と家康は跡を継いだ武田勝頼たけだ かつよりとの戦いを続けていくことになります。

読み違えないために

汎秀は三方ヶ原に加わった織田方の武将の一人というだけでなく、信長が送った援軍の大将でした。また、戦死した場所は、敗れて浜松城に入れず今切へ向かう途中の稲葉(今の浜松市東伊場)です。東伊場には「平手監物の墓」があります。

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参考にした資料