人物ページ / 1559年〜1579年・徳川家康の長男

松平信康まつだいらのぶやす

松平信康とは?

松平信康は徳川家康の長男として1559年に生まれ、1579年に遠江国の二俣城(今の静岡県浜松市天竜区)で自害したと伝わる人物です。

永禄2年(1559)に家康の長男として生まれます。
永禄5年(1562)2月4日、三河の上ノ郷城が落ちると、そこで生け捕りにされた鵜殿氏の二子と引きかえに、駿河で捕らわれの身だった信康と築山殿が解放されます。
永禄10年(1567)、織田信長の娘・徳姫を妻に迎えます。元亀元年(1570)、家康は浜松へ拠点を移しました。岡崎は信康が任されました。
天正7年(1579)、遠江国の二俣城で自害したと伝わります。命日は9月15日とされ、享年21です。
二俣町の清瀧寺が菩提寺で、廟には首から下の骨が納められています。首塚は岡崎市の若宮八幡にあり、二俣城跡は平成30年(2018)に国の史跡となりました。
残された登久姫と国姫は家康の元で育てられ、登久姫は天正17年(1589)8月に小笠原秀政へ、国姫は本多忠政へ嫁ぎます。

家康の長男——永禄2年に生まれる

松平信康は永禄2年(1559)に生まれた。父は当時松平元康と名乗っていた徳川家康で、信康はその長男にあたる。

兄と妹 亀姫は駿河で生まれ、永禄5年に岡崎へ移った

妹の亀姫は永禄3年(1560)6月4日、家康の長女として駿河国に生まれた。母は家康の正妻・築山殿である。亀姫が岡崎城へ移ったのは永禄5年(1562)で、信康と築山殿が駿河から解放された年と重なる。

1560年 桶狭間のあと、三河は二つに割れた

永禄3年(1560)、桶狭間の合戦で織田信長が今川義元いまがわ よしもとを討ち取ると、それまで今川氏に仕えていた松平元康は岡崎城を拠点として独立を図った。三河国は松平方と今川方に分かれて争うようになる。信康と築山殿が駿河にとどめ置かれていたのは、この分裂の時期にあたる。

人質交換——上ノ郷城が落ち、二人の子と引きかえに駿河を出た

三河における今川方の代表格が、上ノ郷城(今の愛知県蒲郡市)を本拠とする鵜殿うどの氏だった。三河の統一をめざす松平元康にとって、鵜殿氏は倒さなくてはならない相手であり、永禄5年(1562)に上ノ郷城合戦が起こる。同年2月4日に城は落ち、城主の鵜殿長照うどのながてるは討ち死にし、その二人の子は生け捕りにされて岡崎城へ連れていかれた。この二子、氏長と氏次と引きかえに、駿河で捕らわれの身だった築山殿と信康は解放された。

鵜殿氏 今川義元の妹を妻にした、三河の有力な一族

上ノ郷城の城主・鵜殿氏は、紀伊半島の熊野地方から今の蒲郡の地へ渡ってきた一族である。16世紀前半の当主・鵜殿長持は駿河の今川義元の妹を妻にしており、鵜殿氏は三河における今川勢力の一員として高い地位にあったと考えられている。

1562年2月4日 夜に火をかけて落としたと伝わる

永禄5年(1562)2月4日、夜陰に乗じて元康配下の忍者が上ノ郷城内に忍びこんで火をつけ、城中が混乱したところを落としたと伝えられている。落城の際には、上ノ郷鵜殿氏の菩提寺だった長応寺も焼失した。鵜殿氏が去った上ノ郷城には、知多半島からやってきた久松俊勝ひさまつとしかつが代わりに入った。

徳姫と岡崎——信長の娘を迎え、岡崎は信康が任された

永禄10年(1567)、信康は織田信長の娘・徳姫を妻に迎えた。元亀元年(1570)、家康は岡崎城から遠江の引間城ひくまじょうへ拠点を移し、城を根本から拡張して浜松城と改名する。岡崎は信康が任された。この婚姻が織田と徳川の間で持った意味は清洲同盟で扱う。

肩書き 「城主」と書く資料と、書かない資料がある

岡崎での信康の立場について、岡崎市の資料はのちに岡崎城主となったと記す。一方、家康が浜松へ移った経緯だけを記し、城主とも城代じょうだい(城主に代わって城を預かる役)とも書かない資料もある。

浜松城 家康が去った先は、16年の本拠になった

家康は引間城に拠点を移すと根本的な拡張工事を行い、中心部を今の天守のあたりへ移して浜松城と改めた。天正6年(1578)ごろからの築城工事はとくに大規模で、家康が新規に築いた城ともいえる。天正14年(1586)に駿府城へ移るまで、16年をここで過ごした。

二俣城での最期——天正7年、遠江の山城で自害したと伝わる

天正7年(1579)、信康は遠江国の二俣城で自害したと伝わる。命日は9月15日とされ、享年21である。二俣城は今の静岡県浜松市天竜区二俣町二俣にあり、天竜川に面した天然の要害に築かれた山城だった。

経過 信長の嫌疑を受け、家康の命により自刃したとされる

信康は、織田信長から謀反の嫌疑をかけられ、父・家康の命により自刃したとされる。家康の命によるとだけ記す資料もあり、書き方は資料によって分かれる。訴状や蟄居ちっきょ(外出を禁じて閉じ込める処分)をふくむ詳しい経過は信康事件で扱う。

残された場所——二俣の廟、岡崎の首塚、勝蓮寺の肖像画

信康の菩提寺ぼだいじ(墓を置いて弔う寺)は、二俣町にある清瀧寺せいりゅうじである。寺にある信康の廟には、首から下の骨が納骨されている。首は織田家のもとへ送られ、今は愛知県岡崎市の若宮八幡に首塚がある。清瀧寺では9月15日の命日に法要が営まれ、令和5年(2023)には没後444年の法要が執り行われた。

2018年 二俣城跡は、鳥羽山城跡とあわせて国史跡になった

二俣城跡は、南に広がる丘陵上の鳥羽山城跡とあわせ、「二俣城跡及び鳥羽山城跡」として平成30年(2018)2月13日に国の史跡に指定された。中世の土づくりの山城に近世的な石垣が導入された初期の姿が良好に保存されている点が評価されている。二俣城が要塞化を進めたのに対し、鳥羽山城には開放的な大手道や庭園が構築され、迎賓館的な性格が強められていた。

肖像画 江戸時代に描かれた、唯一とされる一幅

信康の姿を伝える絵として、岡崎市矢作町の勝蓮寺が所有する「絹本著色徳川信康像」(絹に描いた肖像画)がある。昭和62年(1987)7月15日に岡崎市指定文化財となった一幅で、時代は江戸時代、信康の没後に時を経て描かれたものだが、信康の画像としては唯一のものとされる。淡い朱色の狩衣かりぎぬに褐色の袴をつけ、右手に扇子を持つ姿で、図上の余白には和歌を記した短冊がある。

二人の娘——家康が育て、小笠原家と本多家へ嫁いだ

信康には登久姫と国姫という二人の娘がいた。いずれも徳姫の子である。信康が自害した後、家康はこの二人を自らの元で養育した。登久姫は天正17年(1589)8月、豊臣秀吉とよとみ ひでよしの仲介で信濃国松本城主・小笠原秀政に嫁ぐ。妹の国姫は本多忠勝ほんだ ただかつの嫡男・本多忠政に嫁いだ。

別の呼び名 登久姫は福姫、国姫は熊姫とも呼ばれた

長女の登久姫は福姫とも呼ばれ、小笠原秀政の室として慶長12年(1607)10月18日に没した。法名は峯高院ほうこういんである。二女の国姫は熊姫とも呼ばれ、本多忠政の室として寛永3年(1626)6月25日に没した。法名は妙光院である。

松平信康の疑問に答える

二俣城跡は今どうなっている?

所在地は静岡県浜松市天竜区二俣町二俣で、国の史跡として見学できる。主要な遺構は南北300メートル、東西250メートルの範囲にあり、堀で区画された施設の要所に石垣がみられる。南へ500メートルほどの至近距離には鳥羽山城跡があり、こちらは枯山水庭園や破格の大きさの大手道を備える。

「松平信康」と「徳川信康」はどちらが正しい?

公的機関の資料でも表記が分かれる。命日の法要を伝える記事は「松平信康」と書き、岡崎市の指定文化財の名称は「絹本著色徳川信康像」となっている。同じ人物を指しながら二通りの書き方が併存しており、どちらかを誤りとする根拠はない。このサイトでは見出しに「松平信康」を置き、文化財の名称は指定されたとおりに記している。

信康はどこで生まれ、戦に出たのか?

生年が永禄2年(1559)であることは公的資料に記されるが、生まれた場所や、信康個人の合戦での働きを伝える公的資料は見当たらない。分かっているのは、永禄5年(1562)2月の時点で信康が築山殿とともに駿河で捕らわれの身だったことと、元亀元年(1570)以降、岡崎を任される立場にあったことである。

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参考にした資料