人物ページ / 1575年〜1631年・徳川家の譜代大名

本多忠政ほんだただまさ

本多忠政とは?

本多忠勝の子として、播磨姫路(今の兵庫県姫路市)で姫路城の三の丸と西の丸を増築した譜代大名です。

父・本多忠勝が1601年に伊勢桑名へ移って10万石を領し、城下の町割りと城の拡張を進めます。1610年、忠政がその跡を受けて桑名藩の二代目の藩主になりました。
冬の陣と夏の陣に徳川方として出陣します。伊勢上野藩の分部わけべ氏をはじめ、伊勢の大名が桑名藩主である忠政の指揮下に入りました。
長男の忠刻ただときが千姫と結婚します。千姫はまず桑名城内に住み、本多家が姫路へ移るまでの十か月間を桑名で過ごしました。
本多家が播磨姫路へ移り、忠政が姫路城主になります。忠政が去った桑名には、松平(久松)定勝が11万石で入りました。
姫路城の三の丸と西の丸、そのほかを増築します。西の丸に中書丸ちゅうしょまると化粧櫓けしょうやぐら、三の丸に武蔵野御殿むさしのごてんが加わりました。
1626年に忠刻が世を去ります。1631年には書写山円教寺しょしゃざんえんぎょうじに忠政の廟所びょうしょが建てられ、同じ年に政朝まさともが姫路城主になりました。

桑名を継ぐ——父が整えた城下で、二代目の藩主になった

本多忠政は1575年に生まれた。父の本多忠勝は1601年、上総の大多喜から伊勢桑名へ移って10万石を領し、城下の町割りと城郭の拡張、東海道の整備を進めた。桑名は東海道が海路の七里しちりの渡し(桑名と熱田を結ぶ海の道)に切り替わる場所で、忠勝がここに置かれたのは、大坂でなお影響力を持っていた豊臣秀頼とよとみ ひでよりに対抗するためだったと考えられている。1610年、忠勝が63歳で世を去り、忠政が桑名の城主を継いだ。

1610年 二代目——受け継いだのは、区画の済んだ城

初代の忠勝に続き、1610年に忠政が桑名藩の二代目の藩主となり、姫路へ移る1617年まで七年つとめた。忠勝の代に本丸・新城・二之丸・三之丸・内朝日丸うちあさひまるが堀で区画され、天守は1595年に伊勢神戸城から移されていた。

上げ馬神事 中断していた行事を、二代目が戻した

多度大社たどたいしゃは織田信長おだ のぶながの焼き打ちを受けて大きな被害を出し、忠勝は多額の費用を出して再興に加わった。中断していた上あげ馬神事(馬で急な坂を駆け上がる神事)を再興したのは、二代目の忠政である。城と町の普請だけでなく、社の行事の立て直しも桑名での仕事に入っていた。

大坂の陣——伊勢の大名が、桑名藩主の下に付けられた

1614年11月に大坂冬の陣が始まり、12月に講和が成った。翌1615年4月に夏の陣が始まり、5月に大坂城が落ちて豊臣氏が滅ぶ。忠政はこの二度の戦いに徳川方として出陣し、本多家を率いた。このとき忠政の下には、伊勢の大名が付けられている。伊勢上野藩の分部氏は、田丸藩の稲葉氏、神戸藩の一柳氏、松坂藩の古田氏らとともに1614年10月に出陣を命じられ、桑名藩主である忠政の指揮下に入った。冬の陣が終わったあとも在陣が続き、夏の陣では「伊勢組」として忠政に属した。

1200人 一つの藩から数える、指揮下の規模

分部氏についての記録には、旗20本、鉄砲100挺ちょう、弓20張、長柄50本、持筒10挺といった装備と、惣そう人数1200人という数が書き上げられている。1615年正月には、大坂の陣にあたって1200人分の30日分にあたる米180石を受け取った記録もある。忠政の指揮下に置かれた大名が、どれくらいの人と物を動かしていたかを一藩の側からたどれる。

夏の陣 記録に残るのは、属した側の働き

夏の陣で激戦になった1615年5月6日、分部氏は苦戦し、翌7日には首級六十余を挙げたと伝わる。この戦いで細かく数えられているのは、忠政の下に付けられた側の動きである。忠政自身も本多家を率いてこの二度の戦いに出陣し、その働きが戦後の姫路への転封につながったとされる。

忠刻と千姫——桑名で結ばれ、十か月をそこで過ごした

忠政の長男・忠刻は1596年に生まれ、祖父の忠勝が桑名に入ると忠政とともに桑名へ移った。大坂夏の陣では忠政と共に出陣し、道明寺どうみょうじの戦いに加わって敵の首級を挙げている。千姫は徳川秀忠とくがわ ひでただと江ごうの長女で、七歳で豊臣秀頼に嫁ぎ、大坂城が落ちるときに助け出されて江戸へ向かった。その途中で桑名に立ち寄り、忠政の妻・熊姫ゆうひめと千姫がいとこであったことから歓迎され、数日を過ごした。

二つの話 船中の出会いと、家康の言いつけ

江戸へ戻る千姫の船の指揮をとったのが忠刻で、七里の渡しの船中で千姫が忠刻を見初めたのがきっかけになった、と伝わる。もう一つ、徳川家康が臨終の際に、忠刻とその生母に婚姻を命じたという話も伝わる。どちらの話でも、二人が結ばれたのは1616年のことである。

十か月 新婚の住まいは、桑名城の中だった

結婚した千姫は、まず桑名城内に住んだ。本多家が姫路へ移るまでの十か月間を、二人は桑名で暮らしている。この間に千姫は桑名東照宮とうしょうぐうを建て、徳川家康の木像を桑名宗社そうしゃ(春日神社)に納めた。

姫路への移封——大坂の陣の後、播磨を任された

1617年、本多家は伊勢桑名から播磨姫路へ移封いほう(領地を別の土地へ移すこと)となり、忠政が姫路城主になった。豊臣家が滅んだあと、豊臣家の旧本拠に近い姫路を長く徳川に仕えてきた家に任せたことは、将軍の力の強まりと、姫路城の戦略上の重さを示すものとされる。

石高 「姫路15万石」のもとになった書き方

忠政の姫路での石高を一つの数字で書いた公的な記述は見当たらない。たどれるのは二つで、姫路への移転の前から忠政と忠刻を合わせて15万石の収入があったこと、忠刻が千姫の持参金の一部として10万石の追加収入とほかの所領を与えられたことである。姫路の石高として15万石という数字が使われることがあるが、もとの記述はこの形をとる。

交代 池田光政と入れ替わりで城主になった

忠政が入った1617年、それまでの城主だった池田光政は鳥取城へ移った。姫路城主は、池田家から本多家に替わった。

城の増築——三の丸と西の丸に、建物が加わった

姫路城では1601年から池田輝政が大改築を始め、1609年に五重の大天守が完成していた。1617年に城主になった忠政は、三の丸、西の丸、そのほかを増築する。国の指定文化財の記録には、本多忠政が西ノ丸の櫓または多門たもんを増築したところがあった、と記される。いま見られる城の全容が整ったのは1617年のこととされる。

西の丸 中書丸と化粧櫓が置かれた

城は、忠刻と千姫のための邸宅を取り入れるために拡張され、西の丸に中書丸と化粧櫓が加えられた。この一帯は姫山と並ぶ鷺山さぎやまの高いところにあり、谷だった場所に建てられた菱ひしの門から入る。

三の丸 武蔵野御殿が加わった

大手門の近くの三の丸には武蔵野御殿が置かれた。菱の門へ行く道の西側にあった、と書く説明もある。三の丸は姫山の東の麓から鷺山の南の麓にかけて低く広がる郭くるわで、城の中心部を外から包む位置にあたる。

忠刻の死と代替わり——1626年と1631年

忠刻は1626年に世を去った。千姫は、忠刻が没するまでの十年間を姫路城で暮らしたと記される。忠政については、1631年に書写山円教寺へ廟所が建てられたことと、同じ1631年に政朝が姫路城主になったことが記録されている。

廟屋びょうおく 円教寺に並ぶ、本多家五代の廟

姫路市書写2968の円教寺にある本多家廟屋は、忠勝・忠政・政朝・政長まさなが・忠国ただくにの五代の廟屋で、五棟ともほぼ同じ構造形式をとる。兵庫県指定の重要有形文化財(建造物)である。

1617〜1639年 姫路城主としての本多家

姫路城主として本多家が続いたのは、忠政が入った1617年から、政朝、政勝まさかつを経て、1639年に松平忠明まつだいら ただあきが入るまでの22年である。

本多忠政の疑問に答える

千姫は姫路城のどこに住んでいた?

千姫が西の丸と武蔵野御殿のどちらで暮らしたのかは、はっきりしていない。不明な点が多いとしたうえで、化粧櫓に住んでいたというのは誤解だという指摘がある一方、菱の門へ行く道の西側にあった武蔵野御殿に住んだ、と書く説明もある。同じ姫路市の資料の中でも書き方が分かれるところである。なお化粧櫓という名は、千姫の化粧料で建てられたことに由来すると伝わる。

忠政が増築した部分は、今も残っている?

西ノ丸の櫓または多門を増築した、という記録が残る。姫路城は、三の丸を除いて、三棟の小天守を従える五重の大天守をはじめ数多くの櫓・門・塀がほぼ旧状を伝えるとされる。三の丸に置かれた武蔵野御殿については、旧状を伝えるものとして数えられていない。忠政が増築した西の丸の部分が今のどの建物にあたるかは、公的資料に具体的な記述がない。

本多忠政と本多忠刻は、どちらが姫路城主?

姫路城主は忠政である。忠刻は忠政の長男で、城主に就くことのないまま1626年に世を去った。姫路の歴代城主の並びでは、忠政の次は政朝である。西の丸の中書丸と化粧櫓、三の丸の武蔵野御殿はいずれも忠刻と千姫のための建物として説明されるため、忠刻が城主だったように見えることがある。

忠政はいつ亡くなった?

没した年は1631年で、月日を記した公的資料は見当たらない。同じ1631年に円教寺へ忠政の廟所が建てられ、政朝が姫路城主になったことも記録されている。ただし廟所の建立年が、そのまま没年と一致するとは限らない。円教寺の廟所の建立は、忠勝が1626年、忠政が1631年、政朝が1638年、政長が1685年、忠国が1704年で、1610年に世を去った忠勝の場合、没年と建立年に16年の開きがある。

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参考にした資料