旧国 / 山陽道 / 今の兵庫県南西部の姫路市など

播磨国はりまのくに

播磨国(はりまのくに)は、今の兵庫県にあった旧国で、兵庫県南西部の姫路を中心に、加古川・三木・たつの・宍粟しそうなどの市がその範囲に入ります。戦国時代の播磨は、守護赤松氏の力が弱まるなかで城ごとに勢力が分かれ、織田方の羽柴秀吉による三木城攻め(三木合戦)を経て平定された国です。

要点

播磨国の戦国期のあらまし

  • 守護赤松氏の本城は姫路ではなく、夢前川ゆめさきがわの山あいにある置塩城おきしおじょう(「おじお」とも)でした。
  • 重臣の浦上村宗うらかみ むらむねが主君の赤松義村よしむらを隠居させ、室津むろつに幽閉して殺害しました(1520〜1521年)。
  • 三木合戦(1578〜1580年)で、秀吉は付城で三木城を囲み、兵糧の道を断ちました。
  • 姫路城のはじまりは、赤松氏が築いたとする説と、黒田氏が築いたとする説に分かれています。

赤松氏の播磨は、どうして秀吉のものになったのか

織田方として播磨に入った羽柴秀吉に対し、三木城の別所氏や宍粟郡の宇野氏が毛利方について戦い、敗れたからです。守護の赤松本家は、それより前に重臣の浦上氏に実質的な支配権を握られていました。

赤松氏は一度、播磨を失っています。嘉吉元年(1441)、赤松満祐が将軍足利義教を殺害して敗死し、播磨は山名氏の領国になりました。応仁の乱が始まった応仁元年(1467)、赤松家を再興した政則まさのりが播磨を取り戻し、その後の赤松本家は政則から義村・晴政はるまさ・義祐・則房のりふさへと当主が続きます。

1520〜1521年
浦上村宗が主君を退ける

村宗は赤松義村を隠居させて子の晴政(はじめ政村)に家督を継がせ、翌年、再び兵を挙げた義村を室津に閉じ込めて殺害しました。

1577年10月
秀吉が播磨へ

信長の命で中国地方の毛利攻めに向かう羽柴秀吉が播磨へ出陣し、三木城の別所長治も秀吉への協力を約束しました。

1578年3月
別所長治が毛利方へ

長治が毛利輝元もうり てるもとの側につき、三木合戦が始まりました。

1580年1月
三木城の開城

城兵の助命を条件に長治ら一族が自害し、1月17日に三木城が開城しました。

1580年
播磨の平定

三木氏の英賀城、宇野氏の長水城(5月)も落ち、秀吉が播磨を平定しました。

1580〜1581年
城わり

置塩城・御着城など9城を壊す命令(城わり)が出されました。命令の年を1580年とする資料と、翌1581年とする資料があります。

1585年
赤松則房が阿波へ

赤松本家の則房が阿波へ移され、播磨の守護を務めた家が播磨を離れました。置塩城はそれまでに廃城になったと考えられています。

1600年
池田輝政の播磨

関ヶ原の戦いの後、池田輝政が播磨国52万石余を与えられました。

播磨のどこを、誰が押さえていたのか

戦国期の播磨では、守護の赤松本家のほか、赤松一族で守護代(守護に代わって国を治める役)を務めた宇野氏、赤松氏の被官(家来)だった小寺氏、重臣の浦上氏などが、それぞれ城を構えていました。

浦上氏は、もとは備前の三石みついし城を本拠としていました。享禄4年(1531)の大物だいもつ崩れ(今の兵庫県尼崎市での合戦)で村宗が討死すると、子の政宗まさむね・宗景むねかげの兄弟は三石城から播磨の室山城むろやまじょうへ移ります。のちに兄弟は対立し、宗景は備前の天神山城を本拠にしました。対立の原因は、政宗が守護の赤松晴政に従ったことに宗景らが不満を持ったためとする説と、出雲の尼子晴久あまご はるひさへの対応をめぐって分かれたとする説があります。

地域中心主な勢力年
姫路の北、夢前川の山あい置塩城赤松氏(守護の本家)1469年に政則が築いたと伝わる。東西約600m・南北約400mに広がり、姫路市は播磨最大の山城としている
今の姫路市御国野町御着城小寺氏(赤松氏の被官)。その重臣に黒田氏天正年間、秀吉の播磨侵攻で落城したとされる
東播磨(三木台地の北端)三木城別所氏。三木市は、三木合戦(1578〜1580年)のころの別所長治を東播磨最大の勢力と説明している15世紀末ごろ築城と考えられる。1580年開城
英賀英賀城三木氏1580年落城
播磨北西部(今の宍粟市)長水城宇野氏(赤松一族)1580年5月に落城したとされる
室津の近く(今のたつの市御津町)室山城浦上氏(政宗・宗景の兄弟)1531年の村宗討死の後に移る

三木合戦は、なぜ1年10か月も続いたのか

秀吉が正面から攻めず、兵糧攻めを選んだからです。織田方は天正6年(1578)7月下旬から三木城のまわりに付城を築き始め、城へ兵糧を運び込む道を一つずつ塞いでいきました。付城は東西約6km・南北約5kmの範囲に約40か所築かれたと考えられており、南側では付城と付城の間を土塁でつないで囲んでいます。

別所長治は信長と主従関係を結び、信長の「長」の字をもらって長治と名乗った人物です。離反の理由は、これまで周辺勢力との関係や織田政権への警戒など、いくつかの事情が重なったためと考えられてきました。近年見つかった「羽柴家文書写」からは、秀吉方が別所方の八つの城を先に攻撃したことが原因とみる見方が出ています。離反を受けて、信長は黒田官兵衛に長治の成敗を命じました。

東の道:淡河城

天正7年(1579)5月下旬、織田方は淡河おうご城(今の神戸市)などを攻めて淡河弾正らを退かせました。これで三木城への東側からの兵糧の道が閉ざされます。

南の道:魚住から三木へ

毛利方は明石浦の魚住から三木城へ兵糧を運び込もうとしました。織田方は付城の間に番屋・堀・柵を設けて通路を塞ぎ、1579年9月の平田・大村付近の戦いでは、別所方の兵糧搬入部隊に攻勢をかけて多くの武将を討ち取りました(織田方も谷大膳が討死)。

城内の飢え

1579年10月、秀吉は付城をさらに三木城へ寄せて築きました。これ以降、毛利方からのまとまった兵糧搬入は途絶え、城内では餓死者が数千人出たと伝わります。

姫路城は、いつ誰が築いたのか

築いた人と時期は、説が分かれています。姫路は古代に播磨国の国府が置かれた土地で、人や物資が集まる中心だったことが、のちに秀吉や池田輝政がここを本拠に選ぶ前提になったと考えられています。

赤松氏が築いたとする説

南北朝時代に赤松氏が築いたとする説で、『姫路城史』が通説としています。元弘3年(1333)に赤松円心が姫山に砦を築き、貞和2年(1346)に子の貞範が城を築いたとされます。

黒田氏が築いたとする説

赤松氏の築城を否定し、黒田氏が築いたとする説で、『姫路市史』第14巻が示しています。黒田氏は御着城の小寺氏の重臣で、小寺氏のもとで姫路の城を預かっていました。

1561年
黒田父子の改修

黒田重隆・職隆の父子が城を改修しました(永禄新城)。このころの土地の売り渡し証文に「姫道御構東門之口」という記載があります。

1580年
秀吉の城になる

黒田官兵衛(孝高)が姫路城を秀吉に献じ、自らは別の城へ移りました。

1581年
三重の天守

秀吉が姫路城に三重の天守を築きました。

1583年
秀長が城主に

秀吉が大坂城の工事を始めた年に、弟の羽柴秀長が姫路城主になりました。

1609年
今の大天守

池田輝政が1601年から進めた工事で、大天守が完成しました。

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