鵜殿氏は今川の「駐屯部隊」ではない
鵜殿氏は熊野地方から蒲郡へ移ったと伝わり、15世紀後半から上ノ郷・下ノ郷・不相・柏原などに一族を配置して地域を治めました。外から来た今川軍の一部というより、城・所領・一族を持つ三河の地域領主です。そのうえで婚姻を通じて今川家に接近し、三河支配を支えました。
父・鵜殿長持
今川義元の妹を妻とし、今川家との結び付きを強めました。長照は義元にとって甥にあたります。
今川義元
三河を支配するため、地域の国衆や松平氏を従えました。鵜殿氏は東三河の有力な協力者でした。
松平元康
桶狭間後に岡崎を拠点として今川から離れます。三河統一には、今川方に残る上ノ郷鵜殿氏を倒す必要がありました。
桶狭間から二年、三河は二つに割れた
上ノ郷城合戦で何が起きた?
上ノ郷城は小丘にあり、川を堀のように利用し、土塁・空堀を備えた堅い城でした。松平方は当初の攻撃で損害を受け、元康自身が北西の名取山に陣を置いて攻め直したとされます。永禄5年2月4日、夜間に城内へ火を放ち、混乱に乗じて落城させたという伝承が残ります。
元康配下の忍びが潜入して放火した話は、蒲郡の公式解説にも「伝えられている」として紹介されています。攻城の細部や長照の最期には異説があるため、確認できる骨格は「元康方が1562年に上ノ郷城を落とし、長照が死亡し、二人の子を捕らえたこと」と分けて見るのが安全です。
捕らえられた二人の子が、人質交換の鍵になった
落城時、長照の子・氏長と氏次は生け捕りにされました。二人は、駿河で拘束されていた元康の正妻・築山殿と長男・松平信康らの身柄と交換される形で解放されます。元康にとって上ノ郷城の勝利は、一城を得ただけでなく、今川のもとにいた家族を取り戻す交渉材料を得る意味も持ちました。
氏長・氏次は当初今川方に戻り、のちに徳川家臣となります。上ノ郷家は城を失いましたが、鵜殿一族全体が滅びたわけではありません。下ノ郷などの別家も早くから松平方へ移り、国衆の一族が敵味方に分かれて家を残す戦国期の選択が見えます。
鵜殿長照が重要な三つの理由
- 桶狭間で義元が死んでも、三河の今川支配がすぐ消えたわけではないと分かる。
- 今川家と地域国衆が、主従だけでなく婚姻・一族配置で結ばれていたと分かる。
- 元康の独立が、岡崎帰還だけでなく、今川方の城を一つずつ攻略する内戦だったと分かる。