人物ページ / 1579年没・徳川家康の正室

築山殿つきやまどの

築山殿とは?

築山殿は徳川家康の正室で、松平信康と亀姫かめひめの母です。嫡男ちゃくなん(家を継ぐ長男)の信康が謀反を疑われた天正てんしょう7年(1579)、その渦中で死にました。

亡くなった場所は、今の静岡県浜松市にあたると伝わります。誰が死を命じたのかは、公的な資料の間でも書き方が分かれています。

弘治こうじ3年(1557)、今川氏一門の関口親永の娘が、16歳の元信もとのぶ(のちの徳川家康)に嫁ぎます。
1560年 駿河に残る
永禄えいろく3年(1560)、桶狭間の戦いで今川義元いまがわ よしもとが討たれ、元信から改名した元康もとやすは岡崎城へ入ります。正室と長男の信康は駿河に留め置かれたままでした。
1562年 岡崎へ
永禄5年(1562)、三河の上ノ郷城かみのごうじょうが落ち、生け捕りにされた鵜殿長照の子二人との身柄の交換で、築山殿と信康は解放されます。
1576年 二人の子
信康は織田信長おだ のぶながの娘・徳姫とくひめを妻に迎え、亀姫は天正4年(1576)に奥平信昌おくだいら のぶまさへ嫁ぎます。
1579年 天正七年
天正7年(1579)、築山殿と信康が相次いで死にます。命じた主体は、信長と書く資料、家康と書く資料に分かれます。
遺体は浜松の西来院せいらいいんに葬られたと伝わります。残された二人の孫娘は、家康が自らの元で育てました。

今川の家から——十六歳の元信が、今川一門の娘を妻に迎えた

築山殿は、今川氏一門の関口親永(義広よしひろとも)の娘として生まれた。夫となる徳川家康は、そのころ今川氏のもとに置かれた少年だった。

人質の少年 8歳で、駿府の人質になった

家康は幼名を竹千代たけちよといった。天文てんぶん16年(1547)、6歳のとき、今川家の人質となるため駿府すんぷへ向かう途中で連れ去られ、尾張へ送られる。天文18年(1549)、8歳のときに父の広忠ひろただが暗殺され、あらためて駿府の今川義元の人質となった。天文24年(弘治元年・1555)、14歳で元服げんぷく(大人になる儀式)し、義元から一字を与えられて松平次郎三郎元信と名乗る。

弘治3年 関口親永の娘を、妻に迎えた

弘治3年(1557、一説には弘治2年とも)、16歳の元信は今川氏一門の関口親永の娘を妻に迎えた。この娘が、のちに築山殿と称される人である。婚姻ののち、元信は祖父・清康きよやすの勇名を慕って元康と改名したと言われている。

婚姻の意味 人質の身から、今川一門に準じる扱いへ

この婚姻によって、元信は今川一門に準じる扱いに位置づけられた。

駿河に残る——義元が討たれても、妻と子は動けなかった

永禄3年(1560)5月、今川義元は2万5千の兵を率いて尾張へ侵攻を始めた。この途中で起きたのが桶狭間の戦いである。

永禄3年5月 元康は、11年ぶりに岡崎城へ入った

織田・今川両軍の本隊が桶狭間で争い、今川義元は討死した。今川勢が岡崎城を捨てて駿河へ退いたため、同じ月の23日、元康はおよそ11年ぶりに岡崎城へ入城する。

動けなかった二人 正室と長男は、駿河に留め置かれた

元康が岡崎城に入ったあとも、正室の築山殿と長男の信康は駿河にいた。二人は捕らわれの身のままだった。

亀姫の誕生 亀姫は、駿河で生まれた

娘の亀姫は永禄3年(1560)6月4日、駿河国で生まれている。義元が桶狭間で討たれた、翌月にあたる。

岡崎へ——上ノ郷城の落城が、人質の交換をつくった

永禄4年(1561)、元康は今川氏真いまがわ うじざねを見限って織田信長と和解し、同盟を結ぶ。三河は松平方と今川方に分かれて互いに争うようになった。

上ノ郷の鵜殿氏 三河における、今川勢力の代表だった

上ノ郷城(今の愛知県蒲郡がまごおり市)の城主・鵜殿うどの氏は、紀伊半島の熊野地方から蒲郡の地へ渡ってきた一族である。16世紀前半の鵜殿長持うどのながもちは今川義元の妹を妻にしており、三河における今川勢力の一員として高い地位にあったと考えられている。三河の統一をもくろむ元康にとって、今川方として戦うことを決めた鵜殿長照は倒すべき相手だった。

永禄5年2月4日 夜、城に火がかけられて落ちた

永禄5年(1562)2月4日、夜陰に乗じて元康配下の忍びが上ノ郷城内に忍びこんで火をつけ、城中が混乱したところを落としたと伝えられている。城主の鵜殿長照は討ち死にし、その二人の子、氏長うじながと氏次うじつぐは生け捕りにされて岡崎城へ連れていかれた。

身柄の交換 二人の子と引き換えに、岡崎へ移った

生け捕りにされた氏長・氏次は、当時駿河で捕らわれの身だった築山殿・信康の身柄と交換される形で解放された。こうして築山殿と信康は駿河を離れ、岡崎へ移る。娘の亀姫も永禄5年に岡崎城へ移った。婚姻から5年、桶狭間の戦いから2年が過ぎていた。

二人の子——嫡男は信長の娘を、娘は奥平の家へ

岡崎へ移ったあと、築山殿の二人の子は、それぞれ徳川家の外の家と縁組を結んだ。

嫡男の縁組 信康は、織田信長の娘を妻に迎えた

松平信康は、織田信長の娘である徳姫を妻に迎えた。徳川家と織田家は清洲同盟で結ばれており、その次の世代が婚姻でつながったことになる。二人の間には、徳姫の子である登久姫とくひめと国姫くにひめという二人の娘が生まれた。

娘の縁組 亀姫は、新城の奥平信昌に嫁いだ

亀姫は天正4年(1576)、17歳で奥平信昌の妻となった。同年12月22日、西尾吉次にしおよしつぐが輿を守って、新築まもない新城城(今の愛知県新城市)へ輿入れしたという。

天正七年——正室と嫡男が、同じ年に死んだ

天正7年(1579)、築山殿と信康が相次いで死んだ。この年に誰が何を決めたのかについては、公的な資料の間でも書き方が分かれている。

築山殿は天正7年(1579)8月29日、佐鳴湖さなるこの東岸にあたる小薮こやぶで討たれたと伝わる。同じ年の9月15日は、信康の命日とされている。

信長の命 織田信長の命により、と書く

天正7年(1579)の出来事として、織田信長の命により築山殿を殺害し、信康を切腹させた、と書く資料がある。決めた主体を信長に置いた書き方である。

家康の命 家康の命により自害した、と書く

同じ天正7年の出来事について、信康は家康の命により自害した、と書く資料もある。こちらは決めた主体を家康に置いた書き方である。

確定できない 有名な説として、紹介する

信康については、織田信長から謀反の疑いをかけられ、父の家康から切腹を命じられた、とされる説が有名である、という紹介のしかたをする資料もある。誰がどこまで決めたのかは、史料では確定できない。

そののち——葬られた寺と、家康が育てた孫娘

築山殿が死んだ土地には、遺体を葬った寺と、池の言い伝えが残った。徳川家の側では、信康の二人の娘が家康の手元に移った。

葬地 浜松市広沢の西来院に、墓があると伝わる

築山殿の遺体は、浜松市広沢の西来院に葬られたと伝わる。法号ほうごう(死後に贈られる名)としては、西光院さいこういん、清池院せいちいんという表記が伝えられている。

太刀洗の池 濁った池が、供養で澄んだという言い伝え

築山殿の最期に使われた刀を洗った池の水はいつまでも濁ったままで、供養したところ澄んだ水に戻った、という言い伝えが浜松にある。この池は太刀洗たちあらいの池と呼ばれている。

築山殿の疑問に答える

築山殿は今川義元の姪だった?

資料によって書き方が分かれ、はっきりしない。今川義元の姪にあたるとされる、という書き方をする資料がある一方、今川氏一門の関口親永の娘とだけ記して、姪という関係までは書かない資料もある。今川氏につながる家の出であることは、共通している。

本名は何と伝わる?

本名は瀬名せなと伝わる。通称は瀬名姫せなひめ、または駿河御前である。今川氏一門の関口親永の娘・築山殿(瀬名姫)と書く資料があり、駿河御前(のちの築山御前)と書く資料もある。築山殿と築山御前は、どちらの形も使われている。

岡崎へ移るまでに、なぜ2年かかった?

捕らわれた人質が解き放たれるには、相手に返す人質がいる。桶狭間の戦いの直後、駿河にいる正室と長男を戻す手立ては元康の側になかった。永禄5年(1562)2月4日に上ノ郷城が落ち、城主・鵜殿長照の子である氏長と氏次が生け捕りになったことで、交換に出せる身柄が、桶狭間の2年後になって初めて手に入った。

どんな疑いをかけられたと語られている?

浜松に伝わる話では、信康の妻・徳姫が父の織田信長へ、築山殿と信康が謀反を企てていると知らせたとされる。疑いの中身は、築山殿が武田氏と結んで織田・徳川を滅ぼそうとしている、という形で語られてきた。これらは土地に伝わる話として記録されたものである。

娘の亀姫はその後どうなった?

天正18年(1590)、夫の奥平信昌が3万石で上州宮崎へ国替えとなり、亀姫は新城を去った。信昌はのちに初代京都所司代を経て、慶長けいちょう6年(1601)に岐阜加納ぎふかのう10万石の大名になった。亀姫は寛永かんえい2年(1625)5月27日、66歳で加納において死去した。世に「加納様」「加納御前」と呼ばれる。

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参考にした資料