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人質ひとじち

人質とは?

人質とは、同盟や従属の約束を守る証として、子や妻や弟を相手方に預ける仕組みのことです。跡継ぎや妻子という、失えば取り返しのつかない相手を預けるからこそ、約束を破りにくくする力が働きました。徳川家康も幼名の竹千代のころ、駿府(今の静岡県静岡市)で19歳までの12年間を今川家の人質として過ごしています。

支援を受ける見返りに跡継ぎを差し出す。1547年、松平広忠まつだいら ひろただは竹千代を今川家へ送ろうとしますが、途中で織田方に奪われ、のちに交換で今川家へ移ります。
駿府で12年。竹千代は今川家を支えた学僧から教えを受け、のちの人となりを作りました。
断ることもできましたが、値段が付きました。家康は1585年に要求を退け、真田昌幸は次男を送ります。
交換で解放された子と、処刑された一族。同じ人質でも、行き着く先は正反対に分かれました。
戦国が終わると、人質は幕府の制度になります。大名の妻子の江戸居住は1862年まで続きました。

証として——支援と引き換えに、跡継ぎを預けた

1547年、三河の松平広忠は、今川家から支援を受ける見返りとして、嫡子ちゃくしの竹千代を人質に出すことになった。ところが護送の途中、同行していた継母の父・戸田康光らが突然今川を裏切って織田方へ寝返り、竹千代は尾張の織田家の人質になる。1549年3月、父の広忠が家臣に殺されると、今川義元いまがわ よしもとはただちに岡崎城(今の愛知県岡崎市)を接収し、織田方の拠点だった安祥城あんじょうじょうへ攻め込んで、織田信秀おだ のぶひでの子・信広を捕虜にした。ここで信広と竹千代の人質交換が行われ、竹千代は今川家の人質として駿府へ移る。

仕組み 支援と引き換えに、跡継ぎを預ける

1547年、今川家から支援を受ける見返りとして、松平広忠は嫡子の竹千代を人質に差し出した。跡継ぎを預けることで、広忠は今川との約束を破れなくなり、今川側は約束を守らせる力を得た。血のつながりが濃く、失えば家が立ち行かなくなる相手ほど、証としての重みは増した。子や妻や弟が選ばれたのはそのためだ。

勝敗との関係 勝った側も、人質を出すことがあった

跡継ぎを差し出すのは一つの形だが、人質を出す側になるかどうかは、勝敗だけでは決まらなかった。1584年の小牧・長久手の戦いは、織田信雄おだ のぶかつと徳川家康の連合軍が羽柴秀吉はしば ひでよしの軍に勝った戦いだった。秀吉方は死傷者1万人とも言われる大敗を喫している。ところが11月に結ばれた和議は、信雄・家康の双方から秀吉へ人質を差し出す内容で、秀吉に有利なものになった。戦場での勝ち負けと、人質を出す側になるかどうかは、別の物差しで決まっている。

預かる側——駿府の12年で、教えを受けた

預けられた者がどんな日々を送ったのかは、竹千代の12年から読み取れる。1549年に駿府へ移った竹千代は、19歳になるまでをこの町で過ごした。

12年 人となりを作った時期だった

1549年から19歳までの12年間、竹千代は今川家の人質として駿府で暮らした。この間に臨済寺りんざいじの住職・太原雪斎などから種々の教えを受けている。のちに戦国大名として、さらに天下人として成長していく過程で、人間形成の上で非常に重要な時期をこの町で過ごした。静岡駅前に立つ竹千代像は、この幼年期の姿を表したものだ。

教えた人 雪斎は、今川義元を育てた僧だった

太原雪斎は、京都で修行していたところを今川氏親いまがわ うじちかに呼び戻され、義元の教育係を命じられた。のちに臨済寺の住職として宗教的な影響力を持ちながら、今川氏の軍師として政治・軍事・外交に手腕をふるった。幼少の竹千代の教育係でもあったと伝わる。預けられた子が、預けた側の当主を育てた人物から学ぶ。人質の日々は、そういう時間でもあった。

出す側——差し出しても、断っても、代償があった

人質を出すかどうかは、差し出す側にとって重い判断だった。送れば血のつながった相手の命を握られ、断れば支援や和睦を失う。徳川家康と真田昌幸は、この判断の両側をそれぞれ選んでいる。

1585年 家康は断り、重臣を失った

1585年9月、秀吉から新たな人質を要求された家康は、10月に諸将を集めて評定ひょうじょう(重臣を集めた話し合い)を開き、新たな人質は出さないという結論を出した。ところが11月13日、岡崎城代を務めていた重臣・石川数正が出奔しゅっぽん(家を離れて去ること)し、秀吉のもとへ身を寄せる。軍制にも通じた数正の離反は大きな痛手で、徳川はこののち軍制を武田流に改めたと言われる。人質は交渉の対象であり、断るという選択にも値段が付いた。

1585年 昌幸は次男を送り、援助を得た

徳川と断交した昌幸は、沼田ぬまた領を北条方へ譲れという家康の命令を拒んでいた。攻撃に備え、次男の幸村(信繁)を上杉方へ人質として差し出し、上杉景勝うえすぎ かげかつ上田城(今の長野県上田市)の築城とその他の援助を求める。上杉方の多くの武将が城の普請ふしん(土木や建築の工事)を助けるなか、1585年8月には7000人余の徳川軍をわずか2000人足らずで退けた(第一次上田合戦)。

別れ道——解放、処刑、そして送る側の逆転

預けられた者の命は、送り出した側の振る舞いで決まった。取り返したい相手が向こうにいれば交換の材料になり、送った側が最後まで刃を収めなければ命を絶たれる。そして時には、強い側が弱い側へ自分の家族を送ることもあった。

1562年 交換で解放された——鵜殿氏の二子

1562年、松平元康(のちの家康)の軍が三河の上ノ郷城かみのごうじょう(今の愛知県蒲郡市)を攻め落としたと伝わる。城主の鵜殿長照は討ち死にした。生け捕りにされた二人の子・氏長と氏次は岡崎城へ連れて行かれ、当時駿河で捕らわれの身だった築山殿つきやまどの(元康の正妻)と松平信康まつだいら のぶやす(長男)の身柄と交換される形で解放された。相手が取り戻したい人質を抱えているとき、人質は生きた交換の材料になる。

1579年 処刑された——荒木一族

荒木村重は1578年10月に信長へ反旗を翻し、有岡城ありおかじょう(今の兵庫県伊丹市)に約1年籠城したのち、1579年9月に城を出て尼崎城へ移った。城に残された人質を救うため尼崎城と花熊城を明け渡すよう信長は説得したが、村重は応じなかった。同年10月に有岡城は落ち、12月には村重の妻子など荒木一族が京の六条河原で処刑され、家臣たちは七松(今の兵庫県尼崎市)ではりつけや火あぶりにされたとされる。

1586年 送る側が入れ替わった——朝日姫と大政所

1586年、秀吉は家康を臣従しんじゅう(家来として従うこと)させるために、自分の家族を差し出した。5月に妹の朝日姫あさひひめを家康へ輿入れこしいれさせ、10月には朝日姫を訪ねるという形で、生母の大政所おおまんどころ岡崎へ送る。これを受けて家康は大坂城での対面と臣従を決めた。人質は弱い側から強い側へ送るものと見えるが、相手を動かしたいときには、天下人が母と妹を差し出すこともあった。

江戸へ——「証人」と呼ばれた制度になった

戦国が終わっても、人質の仕組みは形を変えて残る。江戸幕府は諸大名の妻子に江戸居住を義務づけ、あわせて大名の家臣の子弟を「質」として江戸に置くことを命じた。これが証人しょうにん(人質を指す言葉)の制度になる。

証人制度 妻子の江戸居住は1862年まで続いた

妻子の江戸居住は幕末の1862年まで続く。戦国の人質が相手ごとに結ぶ一対一の約束の証だったのに対し、証人は将軍家が全国の大名へ一律に課す仕組みになっていた。

参勤交代と対 領国と江戸を往復させる制度と組んだ

江戸幕府の大名政策は、領国と江戸のあいだを往復させる参勤交代と、妻子を江戸屋敷に住まわせる証人制度の二本立てだった。参勤を終えた大名が国元に戻っているあいだも、妻子は江戸の邸宅に住み続けた。参勤と証人の両方によって、将軍家への権力の集中が進んだ。

人質の疑問に答える

人質は牢に入れられていた?

監督のもとに置かれながら学ぶ立場で、牢に入れられていたわけではない。ただし人質がどんな建物でどのように暮らしたのか、住まいの具体的な様子は史料では確定できない。

なぜ子や妻でなければならない?

失えば取り返しのつかない相手だからだ。跡継ぎを失えば家そのものが立ち行かなくなり、妻や母を失えば結んだ縁が切れる。金や領地と違って代わりが利かないからこそ、預けたという事実そのものが、約束を守らせる力になった。

人質は必ず助かった?

いいえ。約束が守られたかどうかで結果は分かれた。交換や臣従の交渉の材料として解放された例もあれば、送り出した側が抵抗をやめず処刑された例もある。命運を分けたのは人質本人の立場よりも、送り出した側の振る舞いだった。

人質を出すのは、断れない義務だった?

断ることはできた。1585年、家康は秀吉からの新たな人質の要求を評定にかけ、出さないという結論を出している。ただしその直後に重臣の石川数正が出奔した。人質は交渉の対象であり、応じるにも断るにも、それぞれ別の代償が伴った。

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参考にした資料