人物ページ / 水戸徳川家の祖・水戸城主

徳川頼房とくがわよりふさ

徳川頼房とは?

徳川家康の十一男として、慶長14(1609)年に今の茨城県水戸市の城主となり、城と城下町を広げて水戸徳川家と水戸藩の初代となった人物です。

関ヶ原の戦いのあと、佐竹氏は秋田へ移されます。空いた水戸に入ったのは家康の五男・武田信吉のぶよしで、信吉は「初代水戸領主」と呼ばれています。
慶長14(1609)年、頼房が水戸城主となり、徳川御三家の一つ水戸藩が始まります。
頼房は水戸城の城郭を広げ、上町・下町と呼ばれる城下町が形づくられます。幕府の代官に命じて千波湖せんばこから用水路も引かせました。
尾張・紀伊の当主が権大納言まで進んだのに対し、水戸の当主は権中納言までとされました。
寛永年間に参勤交代の制度が定まる中で、水戸の藩主は江戸の藩邸に住み続ける定めになります。
寛永5(1628)年、第3子の徳川光圀みつくにが水戸城三の丸で生まれます。寛文元(1661)年に頼房が没し、今の茨城県常陸太田市の瑞龍山ずいりゅうさんに葬られました。

佐竹のあと——空いた水戸に、まず入ったのは家康の五男

水戸城は那珂川なかがわと千波湖にはさまれた台地の東端にある。鎌倉時代の初めに常陸大掾だいじょう氏(地方官の名を継いだ一族)が最東端に館を築き、15世紀前半には江戸氏が進出して水戸城を占拠した。16世紀末には佐竹氏が江戸氏を滅ぼし、城郭を西へ広げる。城下町ができたのもこの頃である。徳川家康が関ヶ原の戦いに勝つと、佐竹氏は秋田へ移るよう命じられた。

水戸という場所 城主が代わるたび、城が広がってきた

水戸城は陸路と水運の要衝に立地し、天然の要害でもあったため、どの時代も地域支配の中核として使われた。城主が江戸氏、佐竹氏、徳川氏と変わるたび、城は拡張を繰り返している。頼房が城郭を広げたのも、この繰り返しの延長にあたる。

初代水戸領主 頼房の前に、兄の信吉がいた

佐竹氏のあと水戸に入ったのは、家康の五男・武田信吉である。信吉は「初代水戸領主」と呼ばれ、のちに水戸から瑞龍山へ改葬された一人として名が挙がる。信吉が病没したため、頼房が代わって水戸を与えられた。

水戸に封じられる——25万石か、28万石か

慶長14(1609)年、頼房は水戸城主となり、初代の水戸藩主になった。関ヶ原の戦いのあと、家康は水戸を東北の外様大名たちの脅威きょういを阻む絶好の地と判断し、十一男の頼房をここに封じた。これが水戸徳川家の始まりである。

石高 資料によって、書き方が分かれる

与えられた石高は、25万石で封じられ、のちに35万石へ増えたと書く資料と、二十八万石と書く資料があり、どちらか一方に決められない。二十八万石とする資料は、それでも名古屋・和歌山の半分程度だと付け加えている。石高(領地の米の取れ高)は大名の格を示す数字にあたる。

水戸へ下る前 幼いため、現地には送られなかった

頼房は3歳で常陸下妻しもつま10万石を与えられ、7歳で水戸25万石を賜ったが、幼いため現地には派遣されず、家康のいる駿府に住んだ、という記述がある。

城と城下町——土の城を広げ、上町と下町ができた

頼房は水戸城の城郭を広げ、上町・下町と呼ばれる城下町が形づくられた。水戸城の主郭は上市うわいち台地(上町とは別の高台)の地形を利用し、3か所に堀切ほりきりを設けて四つの曲輪くるわ(城の中の区画)が並ぶ構成になっている。東から下の丸、本丸、二の丸、三の丸と呼ばれ、それぞれに土塁どるいがめぐる。

石垣のない城 突き固めた土が、そのまま防御になる

外観に石垣は見られない。平成18年の法面のりめん修復工事にともなう調査で、土塁が粘土などで強く突き固めて構築されたものであることが分かった。本丸・二の丸・三の丸の土塁と堀切は壮大で、土造りの平山城としては国内最大級の規模を持つ。

千波湖から引いた水 用水路を造らせ、水の道を通した

頼房の求めにより、幕府の代官(幕府が直接治める土地を預かる役)だった伊奈忠次いな ただつぐが、千波湖から水を引く用水路「備前堀びぜんぼり」を造った。伊奈忠次は検地や河川改修も手がけており、この水の恵みは現在にまで及んでいる。

三家の中の位置——石高も官位も、尾張・紀伊より一段低い

御三家の中で、水戸の格は尾張・紀伊より一段低く置かれた。尾張と紀伊は、世継ぎが従三位の中将から官位(朝廷が与える位と役職)を始め、当主は従二位の権大納言まで進んだ。水戸はこれより低く、世継ぎが正四位下の左少将から始まり、当主は権中納言までとされた(参議のときもあった)。

行列での位置 三大納言のうしろ、四中納言のひとり

将軍徳川家光の牛車ぎっしゃの後ろには、徳川義直・徳川頼宣・徳川忠長の三大納言が従い、そのあとに頼房が伊達政宗だて まさむね・前田利常・島津忠恒(家久)とともに四中納言として続いた、と記す資料がある。頼房の位置は兄二人より後ろで、有力な外様大名と同じ列だった。

差の理由 なぜ低く置かれたかは、書かれていない

石高でも官位でも水戸が一段低いことは複数の資料が一致して書いているが、なぜその差がついたのかを説明した記述は、公的資料には見当たらない。生まれ順や封じられた時期と結びつけた記述も確認できなかった。

江戸に住み続ける——参勤交代の外に置かれた家

寛永年間に参勤交代の制度が定まると、水戸は例外として、藩主が江戸の藩邸に常住し、必要なときだけ幕府の許可を得て国もとへ帰る定め(定府じょうふ。江戸に住み続ける決まり)になった。水戸だけがこの扱いになった理由は不明である、と辞典類は書いている。

並んでいる見方 三つの説明が、推測の形で並ぶ

幕府の勢力均衡策の一つとみてよいのだろう、とする見方がある。三家のうち一家は江戸に常住させて万一の変事に備えさせる方針をとり、江戸に近い水戸を選んだのだろう、とする見方もある。頼房がその後も国もとへ行かず江戸で暮らしたことが慣例になったのか、とする記述もある。水戸藩だけが定府だった理由は正確には分からない、と明記する資料もある。

分かっている部分 結果として、国もとに常駐しなかった

水戸の藩主は参勤交代の外に置かれ、江戸に住み続けた。頼房自身も、半世紀に及ぶ在職のうち水戸へ下ったのは11回にすぎなかったとされる。城と城下町の整備は、江戸にいる藩主の指示のもとで進んだ。

光圀と瑞龍山——第3子の誕生から、墓所の始まりまで

寛永5(1628)年、頼房の第3子として徳川光圀が生まれた。生まれたのは水戸城三の丸にあった重臣・三木仁兵衛之次ゆきつぐの屋敷である。母は谷久子(靖定せいてい夫人)で、事情は伝わっていないがひそかにこの屋敷に身を寄せ、光圀を生んでも身分を秘し、三木夫妻が養育した。光圀は5歳で公子として水戸城に住み、寛永10(1633)年、6歳で正式に世嗣よつぎ(跡継ぎ)として江戸の藩邸へ移って父の教育を受けた。

1661年 瑞龍山に葬られ、墓所が始まった

寛文元(1661)年、頼房が没し、瑞龍山に葬られた。水戸徳川家の墓所はこの埋葬と墓の造営から始まる。瑞龍山は今の茨城県常陸太田市の北部郊外、国見山の南側の丘陵斜面にあり、東西約360メートル、南北約500メートルの範囲に営まれた。

儒教にもとづく墓 菩提寺を持たない墓所になった

延宝5(1677)年、頼房の側室久子(光圀の生母)、初代水戸領主の武田信吉、2代夫人尋子ひろこが水戸から改葬され、本格的な墓所造営が始まった。墓の形は2代光圀が儒教にもとづいて定めた水戸徳川家独自のもので、葬祭は無宗教であるため墓所内に菩提寺ぼだいじはなく、僧侶の立ち入りは禁じられていた。江戸時代を通じて119基の墓が営まれた。

頼房が残したもの——まちと、家と、いくつかの記録

頼房が水戸の城主だった期間は半世紀に及ぶ。

まち 上町・下町が、今の水戸の原型になった

頼房が整えた城下町は、今の水戸のまちの原型として説明されている。江戸時代の水戸は関東では江戸に次ぐ都市となり、全国にその名が知られた。

家 政治と文教で、諸藩を代表する大藩とされた

初代頼房に始まる水戸藩は、御三家として政治や文教の面で諸藩を代表する大藩とされた。2代光圀は中国の「史記」にならった「大日本史」の編さんを進め、9代斉昭なりあきは幕末に藩校の弘道館こうどうかんを設けた。斉昭の七男が15代将軍の徳川慶喜である。

記録 自筆の書状が1通、軸装で伝わる

頼房が金地院崇伝こんちいん すうでんに宛てた自筆の書状が1通伝わっている。1軸・61センチの軸装で、原本は茨城県立歴史館が保管し、画像が公開されている。頼房の生涯は59年とされ、その活動の場は水戸だけに限られず、居住していた江戸や、誕生の地とされる京都など全国に広がっていた。

徳川頼房の疑問に答える

頼房はいつ生まれた?

公的資料に、生年をはっきり書いたものはない。生涯を59年とする記述があり、没した寛文元(1661)年から数える形になる。3歳で常陸下妻10万石、7歳で水戸25万石という記述もあるが、これも生年そのものを示すものではない。和暦・西暦とも、ここでは断定しない。

なぜ第3子の光圀が跡を継いだ?

第3子として生まれ、5歳で公子として水戸城に住み、6歳で正式な世嗣として江戸の藩邸へ移った、という経過は分かっている。ただし、なぜ光圀が選ばれたのかを説明した記述は、公的資料には見当たらない。生母の身分が秘されていたことと世嗣の決定を結びつけた記述も確認できなかった。

「副将軍」は本当の役職?

俗に副将軍と呼ばれるが、正式な職として説明した記述は見当たらない。将軍のそばに置いて政治を補佐させる意図だったといわれるが、本当のところは分からない、と書く文献がある。水戸藩の中でも副将軍説を詳しく記したものは見当たらないものの、案外ひろく信じられていたようだ、とする記述がある。

水戸城には何が残っている?

二の丸にあった館と三階櫓は、明治の初めと昭和20年の戦災で焼けた。今は本丸跡、二の丸虎口こぐち、三の丸西辺の3か所の土塁と堀が県指定の史跡になっている(昭和42年11月24日指定)。市指定の史跡は5,680平方メートルで、茨城大学と水戸市が管理している(平成28年1月29日指定)。曲輪の跡地は今、高校・中学校・小学校や県庁の庁舎に使われている。

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参考にした資料