旧国 / 東海道 / 今の茨城県の大部分

常陸国ひたちのくに

常陸国(ひたちのくに)は、今の茨城県の大部分にあたる旧国です。ただし県内でも、結城・猿島・北相馬の地方は常陸ではなく下総国でした。戦国時代の常陸は、太田城を本拠に北部から勢力を伸ばした佐竹氏が南部の小田氏と争い、天正18年(1590)から翌年にかけて水戸の江戸氏や府中の大掾だいじょう氏などを滅ぼして、一国をまとめた国です。

要点

常陸国とは?

  • 北部は貞義の代から代々常陸国の守護を務めた佐竹氏、南部は大掾氏・鹿島氏・行方氏などの「大掾平氏」と、小田城の小田氏が押さえていました。
  • 水戸城は江戸氏が164年持った城で、佐竹氏の水戸時代は13年で終わりました。
  • 豊臣政権の下、常陸の金山から納められた金は、1598年の記録で上杉氏・伊達氏に次ぐ量でした。
  • 1602年に佐竹氏が秋田へ移ると、入れ替わるように、出羽の秋田城主だった秋田実季らが常陸へ入りました。

戦国の常陸では、どこを誰が押さえていた?

北部の佐竹氏は、常陸の外の陸奥の南部へも勢力を伸ばしていました。

地域中心の城主な勢力年
北部太田城(今の常陸太田市)佐竹氏隆義のときに入城
水戸水戸城(今の水戸市)江戸氏15世紀前半に河和田城から進出
府中府中城(今の石岡市)大掾氏第15代・詮国が1346年から築城
南部小田城(今のつくば市)小田氏鎌倉時代、初代・八田知家が最初の常陸守護に
鹿島鹿島城(今の鹿嶋市)鹿島氏源頼朝から鹿島政幹が鹿島神宮の惣追捕使そうついぶし(のちの惣代行事=警察担当の神官)に

小田氏の戦い

小田氏の14代・政治まさはるは江戸・大掾・結城氏などと戦って勢力を広げようとしました。15代の氏治うじはるは北条・結城・佐竹・上杉氏と戦い、小田城を何度も落とされましたが、そのたびに土浦城へ逃れて取り返しました。しかし手這坂てばいざかの合戦で敗れたあと、小田城は佐竹氏の支配下に入りました。

江戸氏の南進

水戸城の江戸通長えど みちながは文明13年(1481)、常陸南部へ出ようとしました。これに対し、小田一族の小幡氏が同族の宍戸ししど氏や笠間氏・大掾氏に助けを求め、連合軍が江戸軍と小鶴原(今の茨城町)で戦いました。江戸勢は水戸へ退きました。

佐竹氏は、どうやって常陸一国をまとめた?

天正18年(1590)の豊臣秀吉とよとみ ひでよしによる小田原攻めで、常陸から参陣したのは佐竹氏でした。大掾氏・鹿島氏・行方氏・江戸氏らは、北条氏との関係から参陣を見合わせました。北条氏の強大な軍事力とそれまでの実績をみて、形勢をうかがったものとみられています。北条氏が滅びると、秀吉方についた佐竹氏は、秀吉から常陸国の支配を認められました。

のちの元禄15年(1702)に新井白石が著した『藩翰譜はんかんふ』には、秀吉の許しを得た佐竹義宣よしのぶが、饗宴を口実に新治・筑波・真壁・河内・志太・行方・鹿島の7郡の領主33人を集めて切り捨てた、と記されています。統一から100年余り後の書物に残る話です。

1504年
佐竹氏、一族の争いを終える

佐竹義舜さたけ よしきよが妻の生家・岩城氏の力を借りて太田城を奪い返し、宗家4代・約100年に及んだ山入氏ら一族との争い(山入の乱)が終わりました。

1574年
小田氏の菩提寺が焼かれる

佐竹勢が小田氏治を攻め、小田氏の菩提寺だった法雲寺が焼き討ちされて、伽藍が失われました。

1590年
江戸氏が滅び、佐竹氏が水戸城へ

小田原征伐のあと、佐竹義宣さたけ よしのぶは江戸氏を滅ぼして水戸城に入りました。

1590年12月
府中城が落ち、大掾氏が滅ぶ

大掾清幹の府中城が義宣に攻め落とされ、650年続いた常陸大掾氏が滅びました。

1591年
大掾平氏の一族も滅び、常陸一国が佐竹氏に

佐竹氏は秀吉の許可を得て鹿島氏・行方氏・島崎氏らを滅ぼしました。鹿島城は落城し、鹿島氏の遺児・伊勢寿丸は下総へ落ち延びました。鹿島郡は佐竹一族の東義久に与えられました。

1602年5月
秋田への国替え

5月8日、義宣は徳川家康とくがわ いえやすから秋田への国替えを命じられ、6月13日に水戸城を、15日に太田城を明け渡しました。

佐竹氏の太田城と水戸城は、どんな城だった?

水戸城は、那珂川と千波湖にはさまれた台地の東端にあり、陸路と水運の要衝で、天然の要害でもありました。そのため江戸氏・佐竹氏・徳川氏と城主が代わっても、どの時代にも地域を治める中心の城として使われ、城主が代わるたびに広げられています。

太田城

太田城は、佐竹氏がおよそ470年居城とした城で、舞鶴城とも呼ばれます。義宣が水戸城へ移ったあとも父の義重よししげが残り、水戸の義宣に対して「北城様」と呼ばれました。秋田への国替えまで使われ、国替えにともなって廃城となり、本郭の跡は今の太田小学校一帯とされます。

水戸城

水戸城は、12世紀末〜13世紀初めごろ、大掾氏の一族・馬場資幹ばば すけもとが館を築いたのが始まりとされます。江戸氏の城を経て、16世紀末に江戸氏を滅ぼした義宣が城を西へ広げ、城下町ができたのもこの頃でした。

豊臣政権の下で、常陸では何が変わった?

秀吉の配下の大名となった佐竹氏の石高は、54万8000石とする資料と、文禄4年(1595)に54万5800石をあてがわれたとする資料があり、数字が分かれます。佐竹領では、検地と金山の扱いに豊臣政権が関わっています。

検地

佐竹領の太閤検地は、文禄3年(1594)10月から12月にかけて、石田三成いしだ みつなりの配下の役人が行いました。対象には久慈郡・那珂郡・筑波郡・行方郡などの村のほか、下野国茂木の村も入っています。慶長2〜3年(1597〜98)には、佐竹氏が自分で行う検地もありました。

金山

佐竹氏の金山は八溝(今の大子町)や瀬谷(今の常陸太田市)などにありました。秀吉の天下統一の過程で秀吉の直轄とされ、佐竹氏に預けておく形に変わります。慶長3年(1598)の豊臣氏の目録では、常陸の金山から金221枚余りが納められました。金は秀吉や三成への献上にも使われています。

宍戸氏の移動

笠間の宍戸氏は、15代・380年にわたって宍戸の地を治め、室町時代後期に佐竹氏の配下に入っていました。文禄4年、宍戸義利は義宣から真壁郡内に6730石を預けられ、宍戸氏の統治は終わりました。宍戸氏は文禄年間に海老が島(今の筑西市明野)へ移されています。

佐竹氏が去った常陸には、誰が入った?

佐竹氏が秋田へ移された理由は、関ヶ原の戦いで東西どちらにも明確な態度を示さなかったためとする説明と、石田三成に味方したためとする説明があり、資料によって分かれます。関ヶ原のあとの常陸では、笠間・宍戸・松岡・水戸と、城ごとに新しい領主が入りました。

1601年
笠間に譜代大名

関ヶ原の翌年、家康の譜代大名・松平康重が3万石で笠間に入り、笠間藩が始まりました。

1602年
秋田氏・戸沢氏が常陸へ

秋田城主だった秋田実季あきた さねすえが宍戸に移され、5万石の宍戸藩が始まりました。実季は「宍戸は城もなく、屋敷構え」と不満を抱いての入封でした。同じ年、仙北角館城主・戸沢盛安の子の戸沢政盛も関ヶ原の功を認められて常陸の高萩地方へ移されました。徳川家に忠実な政盛を江戸の近くに置く政策によると考えられています。

1602〜1609年
水戸城に家康の子が入る

水戸城主は、家康の五男・武田信吉、十男・長福丸(のちの徳川頼宣とくがわ よりのぶ)、十一男・鶴千代(のちの徳川頼房とくがわ よりふさ)と順に代わりました。1609年、頼房が初代水戸藩主として城を広げ、上町・下町ができました。

1602年以後
鹿島氏の再興

鹿島氏の旧家臣たちが家康に家の再興を願い出て、伊勢寿丸は鹿島神宮の惣代行事の職に戻されました。

1606年
松岡城ができる

戸沢政盛は、はじめ居城とした小川城(今の小美玉市)から、多賀郡の竜子山城を改築して移り、これを松岡城としました。

1622〜1623年
戸沢氏、出羽へ

戸沢政盛は出羽の最上・村山郡に6万石で移るよう命じられ、翌年、松岡城を水戸藩へ引き渡しました。

1645年8月
秋田氏、陸奥三春へ

秋田氏は奥州三春(今の福島県三春町)へ移され、宍戸藩5万石は幕府領になりました。

常陸国から、次に読む

参考にした資料