要点
常陸国とは?
戦国の常陸では、どこを誰が押さえていた?
北部の佐竹氏は、常陸の外の陸奥の南部へも勢力を伸ばしていました。
| 地域 | 中心の城 | 主な勢力 | 年 |
|---|---|---|---|
| 北部 | 太田城(今の常陸太田市) | 佐竹氏 | 隆義のときに入城 |
| 水戸 | 水戸城(今の水戸市) | 江戸氏 | 15世紀前半に河和田城から進出 |
| 府中 | 府中城(今の石岡市) | 大掾氏 | 第15代・詮国が1346年から築城 |
| 南部 | 小田城(今のつくば市) | 小田氏 | 鎌倉時代、初代・八田知家が最初の常陸守護に |
| 鹿島 | 鹿島城(今の鹿嶋市) | 鹿島氏 | 源頼朝から鹿島政幹が鹿島神宮の惣追捕使(のちの惣代行事=警察担当の神官)に |
小田氏の戦い
小田氏の14代・政治は江戸・大掾・結城氏などと戦って勢力を広げようとしました。15代の氏治は北条・結城・佐竹・上杉氏と戦い、小田城を何度も落とされましたが、そのたびに土浦城へ逃れて取り返しました。しかし手這坂の合戦で敗れたあと、小田城は佐竹氏の支配下に入りました。
江戸氏の南進
水戸城の江戸通長は文明13年(1481)、常陸南部へ出ようとしました。これに対し、小田一族の小幡氏が同族の宍戸氏や笠間氏・大掾氏に助けを求め、連合軍が江戸軍と小鶴原(今の茨城町)で戦いました。江戸勢は水戸へ退きました。
佐竹氏は、どうやって常陸一国をまとめた?
天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原攻めで、常陸から参陣したのは佐竹氏でした。大掾氏・鹿島氏・行方氏・江戸氏らは、北条氏との関係から参陣を見合わせました。北条氏の強大な軍事力とそれまでの実績をみて、形勢をうかがったものとみられています。北条氏が滅びると、秀吉方についた佐竹氏は、秀吉から常陸国の支配を認められました。
のちの元禄15年(1702)に新井白石が著した『藩翰譜』には、秀吉の許しを得た佐竹義宣が、饗宴を口実に新治・筑波・真壁・河内・志太・行方・鹿島の7郡の領主33人を集めて切り捨てた、と記されています。統一から100年余り後の書物に残る話です。
佐竹義舜が妻の生家・岩城氏の力を借りて太田城を奪い返し、宗家4代・約100年に及んだ山入氏ら一族との争い(山入の乱)が終わりました。
佐竹勢が小田氏治を攻め、小田氏の菩提寺だった法雲寺が焼き討ちされて、伽藍が失われました。
小田原征伐のあと、佐竹義宣は江戸氏を滅ぼして水戸城に入りました。
大掾清幹の府中城が義宣に攻め落とされ、650年続いた常陸大掾氏が滅びました。
佐竹氏は秀吉の許可を得て鹿島氏・行方氏・島崎氏らを滅ぼしました。鹿島城は落城し、鹿島氏の遺児・伊勢寿丸は下総へ落ち延びました。鹿島郡は佐竹一族の東義久に与えられました。
5月8日、義宣は徳川家康から秋田への国替えを命じられ、6月13日に水戸城を、15日に太田城を明け渡しました。
佐竹氏の太田城と水戸城は、どんな城だった?
水戸城は、那珂川と千波湖にはさまれた台地の東端にあり、陸路と水運の要衝で、天然の要害でもありました。そのため江戸氏・佐竹氏・徳川氏と城主が代わっても、どの時代にも地域を治める中心の城として使われ、城主が代わるたびに広げられています。
太田城
太田城は、佐竹氏がおよそ470年居城とした城で、舞鶴城とも呼ばれます。義宣が水戸城へ移ったあとも父の義重が残り、水戸の義宣に対して「北城様」と呼ばれました。秋田への国替えまで使われ、国替えにともなって廃城となり、本郭の跡は今の太田小学校一帯とされます。
水戸城
水戸城は、12世紀末〜13世紀初めごろ、大掾氏の一族・馬場資幹が館を築いたのが始まりとされます。江戸氏の城を経て、16世紀末に江戸氏を滅ぼした義宣が城を西へ広げ、城下町ができたのもこの頃でした。
豊臣政権の下で、常陸では何が変わった?
秀吉の配下の大名となった佐竹氏の石高は、54万8000石とする資料と、文禄4年(1595)に54万5800石をあてがわれたとする資料があり、数字が分かれます。佐竹領では、検地と金山の扱いに豊臣政権が関わっています。
検地
佐竹領の太閤検地は、文禄3年(1594)10月から12月にかけて、石田三成の配下の役人が行いました。対象には久慈郡・那珂郡・筑波郡・行方郡などの村のほか、下野国茂木の村も入っています。慶長2〜3年(1597〜98)には、佐竹氏が自分で行う検地もありました。
金山
佐竹氏の金山は八溝(今の大子町)や瀬谷(今の常陸太田市)などにありました。秀吉の天下統一の過程で秀吉の直轄とされ、佐竹氏に預けておく形に変わります。慶長3年(1598)の豊臣氏の目録では、常陸の金山から金221枚余りが納められました。金は秀吉や三成への献上にも使われています。
宍戸氏の移動
笠間の宍戸氏は、15代・380年にわたって宍戸の地を治め、室町時代後期に佐竹氏の配下に入っていました。文禄4年、宍戸義利は義宣から真壁郡内に6730石を預けられ、宍戸氏の統治は終わりました。宍戸氏は文禄年間に海老が島(今の筑西市明野)へ移されています。
佐竹氏が去った常陸には、誰が入った?
佐竹氏が秋田へ移された理由は、関ヶ原の戦いで東西どちらにも明確な態度を示さなかったためとする説明と、石田三成に味方したためとする説明があり、資料によって分かれます。関ヶ原のあとの常陸では、笠間・宍戸・松岡・水戸と、城ごとに新しい領主が入りました。
関ヶ原の翌年、家康の譜代大名・松平康重が3万石で笠間に入り、笠間藩が始まりました。
鹿島氏の旧家臣たちが家康に家の再興を願い出て、伊勢寿丸は鹿島神宮の惣代行事の職に戻されました。
戸沢政盛は、はじめ居城とした小川城(今の小美玉市)から、多賀郡の竜子山城を改築して移り、これを松岡城としました。
戸沢政盛は出羽の最上・村山郡に6万石で移るよう命じられ、翌年、松岡城を水戸藩へ引き渡しました。
秋田氏は奥州三春(今の福島県三春町)へ移され、宍戸藩5万石は幕府領になりました。
常陸国から、次に読む
佐竹氏
山入の乱から秋田の久保田城まで、常陸を治めた家の歩み。
関ヶ原の戦い
2年後の1602年、佐竹氏が秋田へ移される理由とされた1600年の戦い。
北条氏
小田氏治が戦った相手で、1590年に江戸氏・大掾氏らが参陣を見合わせる理由になった大名。
下野国
佐竹義昭が娘を宇都宮広綱に嫁がせた隣国。1590年には宇都宮国綱が常陸の笠間氏を滅ぼした。
陸奥国
佐竹義昭が結城白河氏に占領されていた南郷(今の福島県東白川郡地方)へ出陣し、1565年に南郷の全域を支配した国。
出羽国
佐竹氏が移され、1602年に秋田・仙北の地を与えられた国。
下総国
今の茨城県の結城・猿島・北相馬の地方が属した国。1591年、鹿島氏の遺児が落ち延びた先。
参考にした資料
- 茨城県「県政の歩み」(結城・猿島・北相馬の地方は下総国だったこと・1590年に佐竹義宣が常陸を統一したこと)
- つくば市教育委員会「小田城跡歴史ひろば」パンフレット(常陸国が今の茨城県の大部分にあたること・小田氏が常陸国南部に勢力を持ったこと・初代八田知家が最初の常陸守護だったこと・政治と氏治の戦い・氏治が土浦城に逃れて小田城を取り返したこと・手這坂の合戦後に小田城が佐竹氏の支配下に入ったこと)
- 茨城県立歴史館「常陸佐竹氏」(佐竹氏が貞義以降代々常陸国の守護だったこと・54万8000石の知行・関ヶ原で明確な態度を示さなかったため秋田へ国替えとなったこと)
- 茨城県立歴史館「佐竹義舜から義昭の時代」(1504年の太田城奪還と山入の乱の終結・義昭が宇都宮氏を助け娘を宇都宮広綱に嫁がせたこと・1565年の陸奥南郷の支配)
- 茨城県立歴史館「山入の乱」(山入の乱が山入氏を中心とした佐竹一族の内乱で、佐竹4代約100年に及んだこと)
- 茨城県立歴史館「佐竹義重」(義宣の水戸城入城後も義重が太田城に残り「北城様」と呼ばれたこと)
- 茨城県立歴史館「佐竹隆義と太田城」(義宣が水戸城に入ったあとも父義重が太田城に居城し、秋田への国替えまで太田城が続いたこと)
- 茨城県立歴史館「佐竹氏の領国経営」(八溝・瀬谷などの金山・金山が秀吉の直轄とされたこと・1598年の蔵納目録で常陸から金221枚余りが納められ上杉氏・伊達氏に次いだこと・1594年の太閤検地を石田三成配下の役人が行ったこととその対象・1597〜98年の佐竹氏独自の検地)
- 茨城県立歴史館「突然の国替え命令」(1602年5月8日の国替え命令・6月13日の水戸城と15日の太田城の明け渡し・秋田と仙北の地が与えられたこと)
- 茨城県立歴史館「国替え直後の出羽と常陸」(佐竹氏に代わって出羽国などから大名が常陸国に入ってきたこと)
- 水戸市「水戸城跡(塁及び濠)」(水戸城の位置・鎌倉時代初期に馬場資幹が館を築いたこと・江戸氏が15世紀前半に河和田城から進出したこと・義宣が江戸氏を滅ぼして城郭を西へ広げ城下町ができたこと・1609年に頼房が初代水戸藩主として城郭を広げたこと)
- 水戸市「水戸城跡」(水戸城は12世紀末~13世紀初頭に馬場大掾氏が城館を備えて以来使われたこと・水戸城が陸路・水運の要衝で天然の要害だったため、江戸氏・佐竹氏・徳川氏のいずれの時代も地域支配の中心に使われたこと)
- 水戸市「水戸市の歴史」(水戸城を中心とする地域の支配者が江戸氏164年間・佐竹氏13年間と移ったこと・平安時代の末期に馬場資幹が館を建てたのが始まりといわれること・馬場資幹と大掾の読み)
- 常陸太田市「舞鶴城(太田城)跡」(太田城が佐竹氏約470年の居城で舞鶴城とも呼ばれること・秋田移封に伴う廃城・本郭が今の太田小学校一帯とされること)
- 石岡市「府中城の土塁」(第15代大掾詮国が1346年から府中城を築いたこと・1590年12月に大掾清幹の府中城が佐竹義宣に落とされ常陸大掾氏が滅んだこと)
- 鹿嶋市「佐竹氏の台頭と大掾平氏一族―鹿島氏の敗退とその後」(佐竹氏が常陸北部、大掾平氏が常陸南部を押さえたこと・1590年に参陣した家と見合わせた家とその理由・江戸氏と大掾氏の滅亡・1591年の鹿島氏・行方氏・島崎氏の滅亡と伊勢寿丸・鹿島郡を東義久に与えたこと・『藩翰譜』の記載・石田三成に与したことを国替えの理由とする記述・水戸城主が武田信吉、長福丸、鶴千代と代わったこと・鹿島氏の再興と惣代行事)
- 土浦市「広報つちうら」No.1046「戦国武将小田氏と法雲寺」(法雲寺が小田氏の菩提寺であること・1574年に佐竹勢の氏治攻めで焼き討ちされたこと)
- 笠間市「笠間の歴史」(宍戸氏15代380年の統治と室町時代後期に佐竹氏の配下となったこと・文禄4年の54万5800石と宍戸義利への6730石・1590年に宇都宮国綱が笠間氏を滅ぼしたこと・1601年の松平康重の笠間入り・1602年の秋田実季の宍戸入り)
- 笠間市「笠間の歴史探訪(vol.1〜10)」(1481年の小鶴原の合戦・宍戸氏が文禄年間に海老が島へ移されたこと・秋田氏5万石と実季の不満・1645年の三春への転封)
- 笠間市「笠間の歴史探訪(vol.11〜20)」(古代の東海道が都から常陸国府(今の石岡市)まで通じていたこと)
- 高萩市教育委員会「戸沢政盛」(1602年に出羽角館の戸沢政盛が常陸の高萩地方へ移されたこととその背景の考え方・小川城から竜子山城を改築した松岡城へ移った1606年・1622年の出羽への国替えと1623年の松岡城引き渡し)
- 国立国会図書館 レファレンス協同データベース「国立国会図書館所蔵江戸期以前寺社縁起関係目録web版 東海道」(常陸国が東海道の国として分類されていること)