佐竹氏とは?
家のはじまり——常陸北部に根を張り、太田城で四百七十年
佐竹氏は源氏の流れをくむ一族で、平安末期、源義光の孫にあたる昌義が常陸国久慈郡の佐竹郷に住みついて「佐竹冠者」と称したのが始まりとされる。三代の隆義が太田城に入って以後、この城は佐竹氏のおよそ四百七十年の居城になる。太田城が舞鶴城とも呼ばれるのは、隆義が入城する日に鶴が城の上空を舞っていたことに由来すると伝わる。鎌倉・室町の両幕府では御家人として働き、貞義の代からは代々、常陸国の守護(国ごとに置かれた幕府の役)を務めた。ただしこの家は、外よりも内で長く割れる。一族の分家である山入氏との抗争が、宗家四代、およそ百年におよんだ(山入の乱)。
1504年 内紛を鎮め、家の決まりを定める
義舜は1504年、妻の生家である岩城氏の力を借りて太田城を攻め、これを奪い返した。山入氏の当主は捕らえられて処刑され、百年に及んだ乱はここで終わる。義舜はそのあと家法二十三ヶ条を定めて軍事力の立て直しを図り、乱のあいだに奪われていた所領の回復に努めた。
1545年 十一歳の当主を、三つの家で支える
義昭は1545年、十一歳で家督を継いだ。幼い当主を補うため、太田城の三方に屋敷を構える南家・北家・東家が創設され、三家の当主が交代で補佐にあたる形がつくられる。義昭は成長すると下野へも出陣し、自分の娘を宇都宮広綱に嫁がせた。宇都宮氏はこれ以後、長く佐竹氏の盟友となる。
北条と伊達のあいだ——「鬼義重」が引き受けた戦線
義重は1562年、十六歳で父義昭から家督を継いだ。遠くの勢力と結んで近くの敵にあたるやり方をとり、上杉謙信らと連携しながら領国を広げていく。戦いの場は常陸国の中にとどまらず、下野、陸奥の南郷、白河にまで及ぶ。範囲が広がれば、相手も増える。小田氏、那須氏、そして相模の北条氏、陸奥の伊達氏と、義重は戦いに明け暮れることになった。戦場での勇敢な姿から「鬼義重」と恐れられたのはこの時期である。義重は1587年ごろ、三十九歳で義宣に家督を譲り、後見(当主を後ろから支える役)に回った。
1565年 陸奥南郷を取り戻し、国の外へ出る
義重の父・義昭は1565年、結城白河氏に占領されていた陸奥南郷の全域を支配下に置いた。奪還を決意して出陣し、棚倉に近い寺山城を攻めるなどした末の結果である。北へ伸びれば、南下してくる伊達氏と正面から向き合うことになる。
1585年11月17日 人取橋で、伊達政宗とぶつかる
佐竹氏と会津の芦名氏らの連合軍は1585年11月17日、陸奥の人取橋で伊達政宗の軍と戦った。連合軍三万に対し政宗軍七千が死闘を展開したと伝わるが、この兵数は後世の書物によるもので、そのまま実数として扱うことはできない。南奥州の主導権を争う戦いだった。
常陸の統一——小田原へ行った家と、行かなかった家
1590年、豊臣秀吉が小田原の北条氏を攻めた。常陸国からは佐竹氏が参陣する。いっぽう大掾氏、鹿島氏、行方氏、江戸氏らは、北条氏との関係から参陣を見合わせた。これは、北条氏の強大な軍事力と過去の実績を評価し、形勢を窺おうとしたものとみられる。結果は北条氏の滅亡だった。秀吉方についた佐竹氏は常陸国を安堵(領地の支配を認めること)され、江戸氏と大掾氏を滅ぼして水戸城に入る。翌1591年には秀吉から許可を得て、鹿島氏・行方氏・島崎氏ら大掾平氏の一族をも滅ぼし、常陸一国を手中にする。
常陸統一のころ 五十四万八千石と「常州の旗頭」
佐竹氏は常陸統一のころ、豊臣秀吉の旗下の大名として五十四万八千石の知行を与えられ、「常州の旗頭」に任じられた。守護から戦国大名へと姿を変えてきた家が、天下人の下で常陸一国の代表と位置づけられたことになる。太田の城主だった家が、常陸の主として扱われる立場へ移った。
1591年ごろ 『藩翰譜』が伝える、饗宴の話
新井白石が1702年に著した『藩翰譜』には、秀吉の許しを得た義宣が急ぎ国へ帰り、饗宴を口実に集めた三十三人の国人をことごとく切り捨てたと記されている。統一から百年以上あとに書かれた書物であり、この経過は伝えられた話として扱うのが妥当である。
態度を示さず——関ヶ原の年に、義宣が選んだこと
1600年、関ヶ原の戦いが起こった。豊臣秀頼を守り立てようとする石田三成らの西軍と、政権を握ろうとする徳川家康らの東軍がぶつかったこの戦いで、義宣は明確な態度を示さなかった。三成と懇意だったので西軍に与したという話、上杉景勝とともに家康を挟み撃ちにする手筈になっていたという話、家臣の東義久に兵三百をつけて徳川秀忠のもとへ送ったという話などが残っている。ただし茨城県立歴史館は、これらを「何れも明瞭ではない」とする。義宣が何を考えていたかは、史料では確定できない。同館はむしろ、戦況がどちらに転んでも対応できるよう冷静に分析していたとも読めると述べている。いっぽう鹿嶋市は、佐竹氏が石田三成に与したために国替えを命じられたと説明しており、資料によって見方が分かれる。東軍の勝利が決まると、義宣は家康と秀忠のもとへ使いを送り、勝利を祝う意と二心のないことを伝えるべく奔走した。
秋田へ——九十三騎の下向と、天守を持たない城
1602年5月8日、義宣は家康から秋田への国替えを命じられた。6月13日に水戸城を、15日に太田城を明け渡し、7月27日には秋田と仙北の地が正式に与えられた。7月29日、義宣は九十三騎の供とともに伏見を発ち、水戸へ戻ることなく秋田へ下る。その経路には海路と陸路の諸説があり、定かではない。9月、義宣は前の領主である安東氏の居城、湊城に入った。太田城を出た義重は秋田の六郷城に入り、ここを居城として1612年に没した。
1604年8月 久保田城に入り、湊城を捨てる
義宣は1604年8月、主要部が整った段階の城に入り、これを久保田城と名づけた。着工は前年5月、場所は久保田の神明山である。旧領主の湊城はここで破却された。石高は二十万五千八百石で、常陸のころの半分以下にあたる。城跡は今、千秋公園として残っている。
1631年ごろ 天守閣を造らない、という選び方
久保田城は1631年ごろまで普請が続いた城で、石垣をほとんど持たず、堀と土塁(土を盛り上げた防壁)をめぐらせている。天守閣は初めから造られなかった。秋田市はその理由を、国替えによる財政事情、幕府への軍役奉仕、徳川幕府への遠慮などによると説明している。
佐竹氏はこののち、外様大名(徳川の譜代ではない大名)として幕末まで続く。菩提寺の天徳寺も秋田へ移った。
佐竹氏についてのよくある疑問
四百七十年続いた太田城は、佐竹氏が去ったあとどうなったのか?
常陸太田市の説明によれば、太田城は佐竹氏の秋田移封にともなって廃城となりました。本丸にあたる場所は今の太田小学校一帯で、若宮八幡宮の境内には「太田故城碑」が建ち、かつての城の名残をとどめています。
佐竹氏はなぜ秋田へ移されたのか?
確実に言えるのは、義宣が東西どちらにも明確な態度を示さなかったこと、そして1602年に家康から国替えを命じられたことです。理由をめぐる話は残っていますが、茨城県立歴史館はそれらを「何れも明瞭ではない」としており、動機は史料では確定できません。いっぽう秋田市は、東軍に積極的に参加する姿勢が見られなかったことに加えて、所領が家康の本拠地である江戸に近かったことも背景にあると説明しています。分かるのはここまでで、その先は決められません。
本拠はなぜ太田城から水戸城へ移ったのか?
水戸城はもともと、鎌倉時代の初めに常陸大掾氏の一族が築き、十五世紀前半から江戸氏が押さえていた城です。十六世紀の末、太田の義宣が江戸氏を滅ぼしてこの城を取り、城郭を西へ広げて市街も造りました。常陸一国を治めるうえで、北に寄った太田より南の水戸のほうが、統治にはつごうがよかったと考えられます。太田城のほうも生きていました。義重は義宣の水戸入城後も太田城に残り、水戸の義宣に対して「北城様」と呼ばれます。父と子が二つの城に分かれて常陸を押さえる形が、秋田への国替えまで続きました。
石高が半分以下になった家が、なぜ幕末まで続いたのか?
1602年の国替えは、家を取りつぶす処分とは別の扱いでした。石高は減っても、大名家としては残ったわけです。秋田に移ったあとの佐竹氏は、秋田市の説明によれば新田や鉱山の開発、林業の振興に取り組み、その下で秋田蘭画をはじめとする文化が育ちました。およそ二百七十年にわたって培われた歴史と産業が、今の秋田市の礎になっているとされています。
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参考にした資料
- 茨城県立歴史館「常陸佐竹氏」(源義光の孫・昌義の土着、守護から戦国大名への変化、五十四万八千石と「常州の旗頭」、幕末までの存続)
- 茨城県立歴史館「佐竹義舜から義昭の時代」(1504年の太田城奪還と山入の乱の終結、家法二十三ヶ条、1545年の家督継承と三家の補佐、1565年の陸奥南郷支配)
- 茨城県立歴史館「佐竹義重」(1562年の家督継承、上杉謙信らとの連携、「鬼義重」の呼び名、「北城様」、六郷城と1612年の死去)
- 茨城県立歴史館「関ヶ原の戦い」(義宣が明確な態度を示さなかったこと、残る三つの話が「何れも明瞭ではない」こと、戦後の奔走)
- 茨城県立歴史館「突然の国替え命令」(戦後にお咎めがなかったこと、1602年5月8日の命令、6月の明け渡し、九十三騎の下向、湊城入城)
- 茨城県立歴史館「国替え直後の出羽と常陸」(関ヶ原後の大規模な転封の内訳と、封土を削減して移封された四家に佐竹氏が含まれること)
- 茨城県立歴史館「久保田城の築城」(久保田への築城地決定、1603年の着工と翌年の完成、天守閣と石垣を持たない造り、1631年ごろの城下町整備)
- 常陸太田市「舞鶴城(太田城)跡」(佐竹氏約470年の居城であること、隆義の入城と鶴にまつわる呼び名の由来、秋田移封に伴う廃城、本丸跡が太田小学校一帯にあたること、若宮八幡宮境内の「太田故城碑」)
- 茨城県教育委員会「水戸城跡(塁及び濠)」(江戸氏の水戸進出、義宣による江戸氏の滅亡と城郭の西への拡大、佐竹氏移封後の徳川頼房)
- 鹿嶋市「佐竹氏の台頭と大掾平氏一族」(1590年に参陣した家と見合わせた家、1591年の常陸統一、『藩翰譜』に記された饗宴の話、佐竹氏が石田三成に与したことを国替えの理由とする記述)
- 秋田市「久保田城について」(二十万五千八百石という石高、1603年の着工と1604年の入城、湊城の破棄、天守閣を造らなかった理由)
- 秋田市「佐竹氏について」(移封の背景としての東軍への姿勢と江戸への近さ、約270年の統治と新田・鉱山・林業、秋田蘭画)
- 文化庁 文化遺産オンライン「天徳寺 本堂」(秋田藩主佐竹氏の菩提寺が常陸佐竹氏の転封に伴って移転したこと、1687年建立の本堂が重要文化財であること)
- 本宮市「人取橋合戦跡」(1585年11月17日という日付、佐竹・芦名連合軍と伊達政宗軍が戦った場所と伝わる兵数)