勢力ページ / 常陸を統一し、秋田へ移された関東の名門

佐竹氏さたけし

佐竹氏(佐竹家)は、北条氏にも伊達氏にも屈することなく常陸国を統一し、関ヶ原の戦いのあとに出羽国秋田へ移された家です。本拠だった常陸国は今の茨城県、移った先の秋田は今の秋田県秋田市にあたります。源義光の孫・昌義まさよしが常陸北部の佐竹郷に住みついたのが始まりで、太田城を長い居城としました。義重よししげ義宣よしのぶの父子の代に常陸一国を手に入れ、豊臣秀吉とよとみ ひでよしから五十四万八千石を与えられます。しかし1600年の関ヶ原の戦いで義宣は東西どちらにも明確な態度を示さないまま、1602年、徳川家康とくがわ いえやすから秋田への国替え(領地を別の国へ移す命令)を命じられました。

源氏の流れをくむ常陸の守護 「鬼義重」と常陸統一 1600年 態度を示さず 1602年 秋田へ国替え
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佐竹氏とは?

平安末期、源義光の孫の昌義が常陸北部の佐竹郷に住みつき、「佐竹冠者」と称しました。一族の内紛が終わるのは1504年です。
1562年に家督を継いだ義重は、上杉謙信うえすぎ けんしんらと結んで下野や陸奥の南へ出ます。北条氏と伊達氏の双方を相手にした時期です。
1590年の小田原攻めに参陣して常陸を安堵され、江戸氏を倒して水戸城に入りました。翌年、常陸一国が佐竹氏の手に入ります。
1600年の関ヶ原の戦いで、義宣は東西どちらにも明確な態度を示しませんでした。戦いの直後、佐竹氏への処分はありません。
1602年5月8日に国替えを命じられ、6月に水戸城と太田城を明け渡します。1604年、新しく築いた久保田城に入りました。

家のはじまり——常陸北部に根を張り、太田城で四百七十年

佐竹氏は源氏の流れをくむ一族で、平安末期、源義光の孫にあたる昌義が常陸国久慈郡の佐竹郷に住みついて「佐竹冠者」と称したのが始まりとされる。三代の隆義たかよしが太田城に入って以後、この城は佐竹氏のおよそ四百七十年の居城になる。太田城が舞鶴城とも呼ばれるのは、隆義が入城する日に鶴が城の上空を舞っていたことに由来すると伝わる。鎌倉・室町の両幕府では御家人として働き、貞義さだよしの代からは代々、常陸国の守護(国ごとに置かれた幕府の役)を務めた。ただしこの家は、外よりも内で長く割れる。一族の分家である山入氏との抗争が、宗家四代、およそ百年におよんだ(山入の乱)。

1504年 内紛を鎮め、家の決まりを定める

義舜よしきよは1504年、妻の生家である岩城氏の力を借りて太田城を攻め、これを奪い返した。山入氏の当主は捕らえられて処刑され、百年に及んだ乱はここで終わる。義舜はそのあと家法二十三ヶ条を定めて軍事力の立て直しを図り、乱のあいだに奪われていた所領の回復に努めた。

1545年 十一歳の当主を、三つの家で支える

義昭よしあきは1545年、十一歳で家督を継いだ。幼い当主を補うため、太田城の三方に屋敷を構える南家・北家・東家が創設され、三家の当主が交代で補佐にあたる形がつくられる。義昭は成長すると下野へも出陣し、自分の娘を宇都宮広綱に嫁がせた。宇都宮氏はこれ以後、長く佐竹氏の盟友となる。

北条と伊達のあいだ——「鬼義重」が引き受けた戦線

義重は1562年、十六歳で父義昭から家督を継いだ。遠くの勢力と結んで近くの敵にあたるやり方をとり、上杉謙信らと連携しながら領国を広げていく。戦いの場は常陸国の中にとどまらず、下野、陸奥の南郷、白河にまで及ぶ。範囲が広がれば、相手も増える。小田氏、那須氏、そして相模の北条氏、陸奥の伊達氏と、義重は戦いに明け暮れることになった。戦場での勇敢な姿から「鬼義重」と恐れられたのはこの時期である。義重は1587年ごろ、三十九歳で義宣に家督を譲り、後見(当主を後ろから支える役)に回った。

1565年 陸奥南郷を取り戻し、国の外へ出る

義重の父・義昭は1565年、結城白河氏に占領されていた陸奥南郷の全域を支配下に置いた。奪還を決意して出陣し、棚倉に近い寺山城を攻めるなどした末の結果である。北へ伸びれば、南下してくる伊達氏と正面から向き合うことになる。

1585年11月17日 人取橋で、伊達政宗とぶつかる

佐竹氏と会津の芦名氏らの連合軍は1585年11月17日、陸奥の人取橋で伊達政宗だて まさむねの軍と戦った。連合軍三万に対し政宗軍七千が死闘を展開したと伝わるが、この兵数は後世の書物によるもので、そのまま実数として扱うことはできない。南奥州の主導権を争う戦いだった。

常陸の統一——小田原へ行った家と、行かなかった家

1590年、豊臣秀吉が小田原の北条氏を攻めた。常陸国からは佐竹氏が参陣する。いっぽう大掾だいじょう氏、鹿島氏、行方氏、江戸氏らは、北条氏との関係から参陣を見合わせた。これは、北条氏の強大な軍事力と過去の実績を評価し、形勢を窺おうとしたものとみられる。結果は北条氏の滅亡だった。秀吉方についた佐竹氏は常陸国を安堵(領地の支配を認めること)され、江戸氏と大掾氏を滅ぼして水戸城に入る。翌1591年には秀吉から許可を得て、鹿島氏・行方氏・島崎氏ら大掾平氏の一族をも滅ぼし、常陸一国を手中にする。

常陸統一のころ 五十四万八千石と「常州の旗頭」

佐竹氏は常陸統一のころ、豊臣秀吉の旗下の大名として五十四万八千石の知行を与えられ、「常州の旗頭」に任じられた。守護から戦国大名へと姿を変えてきた家が、天下人の下で常陸一国の代表と位置づけられたことになる。太田の城主だった家が、常陸の主として扱われる立場へ移った。

1591年ごろ藩翰譜はんかんぷ』が伝える、饗宴の話

新井白石あらいはくせきが1702年に著した『藩翰譜』には、秀吉の許しを得た義宣が急ぎ国へ帰り、饗宴を口実に集めた三十三人の国人をことごとく切り捨てたと記されている。統一から百年以上あとに書かれた書物であり、この経過は伝えられた話として扱うのが妥当である。

態度を示さず——関ヶ原の年に、義宣が選んだこと

1600年、関ヶ原の戦いが起こった。豊臣秀頼とよとみ ひでよりを守り立てようとする石田三成いしだ みつなりらの西軍と、政権を握ろうとする徳川家康らの東軍がぶつかったこの戦いで、義宣は明確な態度を示さなかった。三成と懇意だったので西軍に与したという話、上杉景勝うえすぎ かげかつとともに家康を挟み撃ちにする手筈になっていたという話、家臣の東義久に兵三百をつけて徳川秀忠とくがわ ひでただのもとへ送ったという話などが残っている。ただし茨城県立歴史館は、これらを「何れも明瞭ではない」とする。義宣が何を考えていたかは、史料では確定できない。同館はむしろ、戦況がどちらに転んでも対応できるよう冷静に分析していたとも読めると述べている。いっぽう鹿嶋市は、佐竹氏が石田三成に与したために国替えを命じられたと説明しており、資料によって見方が分かれる。東軍の勝利が決まると、義宣は家康と秀忠のもとへ使いを送り、勝利を祝う意と二心のないことを伝えるべく奔走した。

1600年の戦後 処分は、すぐには下りなかった

佐竹氏は1600年の戦後の論功行賞で、何のお咎めも受けなかった。反徳川と見なされたほかの大名が改易や減封の処分を受けていくなかでのことである。義宣が上洛のため水戸を発つのは1602年の春で、行き先が変わると告げられるのは、その旅の先である。

1602年 削って移す、という扱い

徳川家康は関ヶ原のあと、幕藩体制を固めるために大規模な国替えを行った。茨城県立歴史館の整理では、封土を削って移された大名はわずか四家で、佐竹氏は毛利氏上杉氏・秋田氏と並ぶ、そのひとつだった。

秋田へ——九十三騎の下向と、天守を持たない城

1602年5月8日、義宣は家康から秋田への国替えを命じられた。6月13日に水戸城を、15日に太田城を明け渡し、7月27日には秋田と仙北せんぼくの地が正式に与えられた。7月29日、義宣は九十三騎の供とともに伏見を発ち、水戸へ戻ることなく秋田へ下る。その経路には海路と陸路の諸説があり、定かではない。9月、義宣は前の領主である安東氏の居城、湊城みなとじょうに入った。太田城を出た義重は秋田の六郷城ろくごうじょうに入り、ここを居城として1612年に没した。

1604年8月 久保田城に入り、湊城を捨てる

義宣は1604年8月、主要部が整った段階の城に入り、これを久保田城くぼたじょうと名づけた。着工は前年5月、場所は久保田の神明山しんめいざんである。旧領主の湊城はここで破却された。石高は二十万五千八百石で、常陸のころの半分以下にあたる。城跡は今、千秋公園せんしゅうこうえんとして残っている。

1631年ごろ 天守閣を造らない、という選び方

久保田城は1631年ごろまで普請が続いた城で、石垣をほとんど持たず、堀と土塁(土を盛り上げた防壁)をめぐらせている。天守閣は初めから造られなかった。秋田市はその理由を、国替えによる財政事情、幕府への軍役奉仕、徳川幕府への遠慮などによると説明している。

佐竹氏はこののち、外様大名(徳川の譜代ではない大名)として幕末まで続く。菩提寺の天徳寺も秋田へ移った。

佐竹氏についてのよくある疑問

四百七十年続いた太田城は、佐竹氏が去ったあとどうなったのか?

常陸太田市の説明によれば、太田城は佐竹氏の秋田移封にともなって廃城となりました。本丸にあたる場所は今の太田小学校一帯で、若宮八幡宮の境内には「太田故城碑」が建ち、かつての城の名残をとどめています。

佐竹氏はなぜ秋田へ移されたのか?

確実に言えるのは、義宣が東西どちらにも明確な態度を示さなかったこと、そして1602年に家康から国替えを命じられたことです。理由をめぐる話は残っていますが、茨城県立歴史館はそれらを「何れも明瞭ではない」としており、動機は史料では確定できません。いっぽう秋田市は、東軍に積極的に参加する姿勢が見られなかったことに加えて、所領が家康の本拠地である江戸に近かったことも背景にあると説明しています。分かるのはここまでで、その先は決められません。

本拠はなぜ太田城から水戸城へ移ったのか?

水戸城はもともと、鎌倉時代の初めに常陸大掾氏の一族が築き、十五世紀前半から江戸氏が押さえていた城です。十六世紀の末、太田の義宣が江戸氏を滅ぼしてこの城を取り、城郭を西へ広げて市街も造りました。常陸一国を治めるうえで、北に寄った太田より南の水戸のほうが、統治にはつごうがよかったと考えられます。太田城のほうも生きていました。義重は義宣の水戸入城後も太田城に残り、水戸の義宣に対して「北城様」と呼ばれます。父と子が二つの城に分かれて常陸を押さえる形が、秋田への国替えまで続きました。

石高が半分以下になった家が、なぜ幕末まで続いたのか?

1602年の国替えは、家を取りつぶす処分とは別の扱いでした。石高は減っても、大名家としては残ったわけです。秋田に移ったあとの佐竹氏は、秋田市の説明によれば新田や鉱山の開発、林業の振興に取り組み、その下で秋田蘭画をはじめとする文化が育ちました。およそ二百七十年にわたって培われた歴史と産業が、今の秋田市の礎になっているとされています。

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参考にした資料