人物ページ / 1633年没・徳川秀忠の子で三代将軍徳川家光の弟

松平忠長まつだいらただなが

松平忠長とは?

松平忠長は、二代将軍・徳川秀忠の子で三代将軍・徳川家光の弟にあたり、駿河・遠江・甲斐・信濃などで55万石を領して駿河大納言と呼ばれながら、御乱行ごらんぎょう(ふるまいの乱れ)をとがめられて1632年に高崎城(今の群馬県高崎市)へ移され、翌1633年に自刃した人物です。

秀忠と正室の江(お江)の子として生まれ、幼名を国松といいました。兄の竹千代がのちの家光です。
徳川家康の死後に駿府城の城主となり、駿河・遠江・甲斐・信濃などで55万石を領しました。この領地から駿河大納言と呼ばれます。
御乱行がとがめられ、寛永9(1632)年に高崎城へ幽閉されました。領地を失ったあと、駿府城は城代の管理に移ります。
高崎城主・安藤重長がしばしば赦免を願い出ましたが認められず、寛永10(1633)年に自刃しました。28歳であったといいます。
墓が建てられたのは43回忌にあたる延宝3(1675)年でした。高崎市通町の大信寺にあり、市の指定史跡になっています。

国松と竹千代——秀忠と江の子として育った

松平忠長は、二代将軍・徳川秀忠の子である。幼名は国松、母は秀忠の正室の江(お江)で、兄の竹千代がのちの三代将軍・徳川家光にあたる。何番目の子として数えるかは資料によって書き方が分かれ、秀忠の三男とするものと、秀忠と江の間に生まれた男子は竹千代と国松の二人だとして次男の位置に置くものとがある。

二人の男子 竹千代が兄、国松が弟

秀忠と江の間には、竹千代と国松という二人の男子がいた。兄の竹千代は元服して家光を名乗り、三代将軍を継ぐ。弟の国松が忠長である。

と伝わる 世継ぎは国松ではないか、という噂

一説には、秀忠と江が国松を寵愛し、世継ぎは国松ではないかという噂が立ったと伝わる。これに危機を感じた竹千代の乳母の福(春日局)が徳川家康に訴え、家康が嫡子ちゃくし(家を継ぐ子)の扱いを明確にしたことで竹千代が世継ぎに決まった、ともいわれる。この話が載るのは、宝永6(1709)年にまとめられた「武野燭談」という、将軍家や大名・旗本の言葉やふるまいをまとめた記録で、紹介する側も「一説には」と断っている。確かめられた経緯として扱える話ではない。

駿河大納言——駿河・遠江・甲斐・信濃などで55万石

忠長は駿河・遠江・甲斐・信濃などで55万石を領した。居城は駿府城(今の静岡県静岡市)で、城主となったのは徳川家康の死後である。駿河を中心とするこの領地から、忠長は駿河大納言と呼ばれた。

55万石 石高が示す、動かせる力の大きさ

領地は駿河・遠江・甲斐・信濃などにまたがり、合わせて55万石とされる。石高こくだか(土地の実りを米の量で表した数字)は、抱えられる家臣の数や、幕府から命じられる軍役ぐんやく(戦のときに出す兵の数)や普請ふしん(土木工事の負担)の重さの目安になる数字である。忠長が握っていたのは、その意味で相当の規模だった。

呼び名 領国と官職名を重ねた呼び方

駿河大納言は、駿河という領国と大納言だいなごん(朝廷の官職の一つ)という官職名を重ねた呼び方である。

改易——とがめられたのは御乱行、その中身は分からない

寛永9(1632)年、忠長は御乱行をとがめられ、高崎城(今の群馬県高崎市)に幽閉されることになった。改易によって領地と居城は手を離れ、駿府城はその後、城代じょうだい(城主に代わって城を預かる役)の管理に移る。ただし、何をもって乱行としたのか、その具体的な中身は史料では確定できない。理由として書き継がれてきたのは、御乱行という言い方までである。

とがめ 御乱行という言い方だけが残った

忠長をとがめた理由として伝えられているのは御乱行、つまりふるまいの乱れである。どのようなふるまいがあり、それを誰がどう判断したのかまで書いた資料は、確かめられる範囲では見当たらない。

もう一つの見方 将軍の弟が大領を持つという状態

別の見方として、将軍の兄弟を大名として大きな領地とともに残しておくことの危うさを幕府が重んじたのではないか、という説明もある。忠長は世継ぎの候補として噂された人物であり、しかも駿河・遠江・甲斐・信濃などにまたがる領地を握っていた。ただし、改易の理由をそう述べた当時の記録は確かめられておらず、これも一つの読み方にとどまる。

高崎での最期——赦免の願いは、通らなかった

幽閉先の高崎城で忠長を預かったのは、城主の安藤重長である。重長は忠長の赦免をしばしば幕府に願い出たが、認められなかった。寛永10(1633)年、忠長は自刃する。28歳であったという。高崎へ移された翌年のことである。

安藤重長 訴えの中身までは分からない

高崎城主の安藤重長が、忠長の赦免をどんな言葉で訴え、幕府がどう答えたのかは、史料では確定できない。

1633年 28歳であった、という伝え方

寛永10(1633)年に自刃した。享年は28であったと伝えられている。この年齢は「であったという」という伝承の言い方で受け継がれてきたものである。

43回忌の墓——大信寺に建てられるまで

忠長の墓は、死の直後には建てられなかった。建立は43回忌にあたる延宝3(1675)年で、場所は高崎市通町の大信寺である。死から四十年余りが過ぎている。墓石は五輪塔で、水輪すいりん(五輪塔の中ほどの部分)の正面に「峯厳院殿御宝塔」と刻まれている。昭和41(1966)年4月20日に高崎市の指定史跡となった。

鎖のお霊屋 玉垣と鎖で囲われていた

墓の周囲には玉垣たまがき(神域や墓所を囲う垣)がめぐらされ、鎖でつながれていた。そのため「鎖のお霊屋たまや」とも呼ばれていたという。四十年余りを経てようやく建てられた墓は、囲われた形をとっていた。

寺に伝わるもの 位牌とともに残された品々

大信寺には、忠長の位牌のほか、愛用と伝えられる硯箱、自刃に用いたという短刀、自筆の手紙などが伝わるという。いずれも寺に伝わる由来として語られてきたもので、そのまま裏づけの取れる話ではない。

松平忠長の疑問に答える

なぜ改易されたのか?

御乱行(ふるまいの乱れ)をとがめられたためと伝えられているが、具体的な中身や、将軍の兄弟が大領を持つ危うさが重んじられたのかどうかは、史料では確定できない。

家光との後継争いは、本当にあった?

秀忠と江が国松を寵愛し、世継ぎは国松ではないかという噂が立った、という話が伝わる。乳母の福(春日局)が家康に訴えて竹千代の相続が決まった、という続きも同じく伝承である。この逸話を紹介する側自身が「一説には」「といわれています」という受け方をしており、確定した経緯としては扱われていない。争いがあったともなかったとも、ここでは決められない。

生まれた年はいつ?

忠長の生年を明記した資料は、確かめられる範囲では見当たらない。手がかりは、寛永10(1633)年の自刃のとき28歳であったという伝えだけで、そこから生年を確定することはできない。

松平忠長と徳川忠長、どちらの名前で呼ばれる?

どちらの書き方もされる。高崎市の指定史跡としての名称は「徳川忠長の墓(附 忠長の霊牌その他)」で、徳川の名字が使われている。生前は、領国と官職名を重ねた駿河大納言とも呼ばれた。名字の書き分けは資料ごとの流儀の違いによるもので、同じ一人の人物を指している。

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参考にした資料